第三話
「お琴さん、それはちょっと待ってください。今すぐそれを渡せなんて、それはあんまりだ」
微かに眉を顰めた朱王の口から出た台詞に、お琴は怪訝そうな面持ちで伸ばしていた手を引っ込め、志狼はひどく驚いたように目を見開く。
「これは、志狼さんにとっては大切な形見だ、いくらなんでも今すぐ手放せなんて……」
「ですが、これを身に着けているせいで、海華さんは怪我をしたのですよ?」
こんな板切れと妹とどちらが大切なのか、そう問いたげな眼差しを向けるお琴、そんな彼女へ志狼の隣に座していた海華がグッと身を乗り出した。
「お琴さん、あたしなら大丈夫、怪我だって……命に関わるようなものじゃないのよ。それに、これは志狼さんにとって本当に大事な物なの。寝るときとお湯屋に行く時以外は、肌身離さず持ってるわ。だから、ご忠告はありがたいけど、今すぐこれは渡せない。兄様、志狼さん帰りましょう」
そう言い切って、海華はやおら懐をまさぐりいくらかの金を取り出すと、それをお琴の前に置いてさっさとその場から立ち上がる。
彼女に続いて腰を上げた朱王は、呆気に取られて二人を見上げている志狼の肩をチョンと叩く。
慌てて板を御守袋に押し込んでその場から立ち上がった志狼がチラとお琴へ視線を遣ると、彼女はあからさまに憎々しげな面持ちで彼を睨み付ける。
「どうなっても、知りませんよ……?」
腹の奥から響く低い声で呟いた彼女は、そのまま三人に背中を向け、二度とこちらを振り向きはしなかった。
「なぁ、なぁ朱王さん、本当にいいのか?」
自室に戻った朱王を追い掛け土間に飛び込んだ志狼は、開口一番オロオロ声で朱王の背中に呼び掛ける。
彼の定位置、作業机の前に胡坐をかいてひび割れた土壁に背を凭れ掛けさせた朱王は『なにが?』と一言答えて机に片肘を付いた。
「なにが、って! これだよ、俺がずっとこれを持っていたら、また海華が……!」
右手に握り締めた御守袋を朱王へと突き付けて、志狼は叫ぶ。
その後ろでは、土間に入ってきた海華が静かに戸口を閉めていた。
「少し落ち着けよ志狼さん、そんなとこに突っ立ってないで、上がれ。―― いいから早く上がれ!」
口をへの字に曲げて志狼を呼んだ朱王は後頭部で絡まる髪をガシガシ掻き乱して大きな溜息をつく。
「志狼さん、あんたその御守袋を持ち始めてから、どのくらい経った?」
「どのくらいって……まだ六つか七つの餓鬼の時分だから、十数年は……」
朱王の前に正座して、腕組みしながら志狼は考える。
そんな彼の後ろに座った海華は、志狼を通り越して朱王と軽く視線を合わせた。
「そうか、もう十年以上か。なら、この十年の間にお前に関わった人間が軒並み大怪我した事があったか? バタバタ死んでいったか?」
朱王の台詞に顔を上げた志狼は、きょとんとした面持ちで軽く首を横に振る。
『そうだろう』そう小さく言って、朱王は後頭部を壁にくっつけた。
「十年以上何も無かったものが、なぜ今更、恨みだ祟りだで徒をなすんだ? しかも立て続けに。本当にその板のせいだとしたら、海華は勿論、桐野様だって今頃命はないぞ」
まっすぐに志狼の目を見詰めてそう言った朱王、彼の言葉に志狼の後ろに座っていた海華も深く頷く。 ただ一人、志狼だけが訳が分からないと言った様子で、その場に固まっていた。
「え、ッ……? それじゃぁなにか? 今、お琴さんが言っていた事は? この板に憑いてるお狐様の……」
「きっと出鱈目だと思うわ。お琴さんの作り話よ」
志狼の言葉に答える形で口を開いた海華は、膝立ちのまま志狼の横へにじり寄る。
そして彼の傍に腰を下ろして、彼女はカクンと首を傾げた。
「でも、一つだけ解せないのは、お琴さんがどこでこの板の事を知ったのか、って事よ。普段、この御守袋も板も、人前に出さないでしょう?」
「あぁ、袋はともかく、この板は他の奴等にゃ見せた事ねぇ。……誰にも見せちゃ駄目だって、お袋から言われてたしな」
首から下げていた御守を握り、志狼が静かに呟く。
一瞬の静寂が、狭い室内を支配した。
「ねぇ志狼さん、その狐って確か、甲賀の葛ノ葉衆の紋よね? 他に二枚ある絵を合わせれば一枚の狐の絵になって、それを持っている人が時期頭領になれる、ってのよね?」
志狼の顔を見ながら海華が尋ねる。
あぁ、と小さく頷いて、志狼は御守袋を懐へと押し込んだ。
それは以前、海華の師匠である桔梗から聞いた話し、彼女も葛ノ葉の元くのいちである。
志狼の母親は葛ノ葉衆頭領の一人娘、しかし伊賀の下忍であった志狼の父親と駆け落ちし、二人で江戸へと逃げ延びてきた。
そんな葛ノ葉衆の忍達にとって喉から手が出る程に欲しい合わせ絵を狙って、朱王や海華の命までをも脅かす事態となった、それ志狼にはつい昨日のように感じてしまう。
お琴はこの絵を渡せと言った、その言葉が示す物は……。
「あの兄弟が、葛ノ葉の一味だってぇのか?」
信じられない、そう言いたげな顔で朱王を見詰める志狼に朱王は一瞬考えるようにその動きを止めたが、すぐに軽く頷きながら胡坐をかいた足を組み替えた。
「その可能性もないとは言えない。 俺や志狼さんに近付くためにここへ越してきたのかもしれないし、大体はあの二人が本物の兄妹かどうかもわからないんだ」
「そうよね、あの大家さんとお石さんなら……『身一つで田舎から出てきました、身寄りもなくて部屋も満足に借りられないんです』 なんて泣きの涙で言われたら、簡単に住まわせちゃうわよ。あたし達の時みたいにね」
そう口にしてニヤリと笑う海華に苦笑いを見せる朱王は、壁から背中を離して作業机の横に置いてある煙草盆を引き寄せた彼はやにで黒くなった煙管を手に取るが、それに煙草を詰める事もなく、そして火種も用意することなく煙管の雁首を形の良い唇にくわえた。
「もしあの二人が甲賀の忍だったとしたら、海華の怪我もあいつらが一枚噛んでるかもしれん。どうにかしてその板を奪おうと、これからどう出てくるかもわからん、海華、お前しばらく身の回りには気を付けろ。あまり一人でウロウロするなよ」
「わかってるわよ、ウロウロって犬や猫じゃないんだから。それに、あたしには志狼さんがついてるもの」
「そう、だな。海華の事は俺が守る、もう絶対危ない目には遭わせねぇ。これ以上海華に何かあったら……俺、この板をあいつらにくれてやる。それでさっさとここから出て行ってくれるなら……」
ひどく思い詰めた様子で呻くように告げた志狼の右手を、海華はそっと握る。
そんな二人を交互に見遣り、朱王はくわえていた煙管を煙草盆の上へと放り出す。
苦い煙草の味が、舌全体に広がった。
「そう辛気臭い顔をするな。お前が親の形見を手放す必要はないし、そんな事俺が許さない。それに……海華にこれ以上手を出させる訳にもいかないからな。―― お前達、今日からしばらくここへ来るな」
煙草盆に乗せた煙管へじっと視線を落としながら朱王が言う。
その台詞に、海華は『えっ!』と小さく叫んで志狼の手から己の手を離してしまう。
「だって兄様、その間のご飯はどうするの? お掃除もお洗濯も……」
朱王にそんな不自由をさせる訳にはいかない、そんな気持ちから朱王に向かい身を乗り出した海華を片手で制して、 彼は煙草盆をもとあった場所へと押し戻した。
「それくらい、俺にもなんとかできるさ。お前が嫁に行ってから、これでも少し家事を覚えたんだぜ? 二人とも、しばらくあの二人とは関わるな。あいつらの事は、俺が調べておく。何か掴めるまで待て」
そう言って、朱王は顔にかかる前髪を掻き上げて、意味ありげな微笑みを二人へと投げ掛けた。
翌日から、志狼と海華の姿は中西長屋から消えた。
いつもなら朝も早くに海華が、または志狼が朱王の部屋を訪れて食事の支度に洗濯にと忙しく働いているのだが、この頃はどうした事だろう、朱王が一人慣れぬ手付きで米を洗って飯を炊き、井戸端で山のように溜まった洗濯物を真剣な眼差しで片付け、挙句に箒片手に部屋の掃き掃除をしている。
この世の中で一番の苦手は家事だ、と言い切っていた彼のあまりの変わりように、長屋の住人達はこれは天変地異のまえぶれだ、やれ嵐が来るの大地震が来るのと朱王の知らない所で大騒ぎ、きっと海華か志狼と喧嘩でもしたのだろう、きっと二、三日も経てば二人はまたここにやって来る、と大方の者はタカを括っていたが、三日経っても七日経っても二人は一向に姿を見せなかった。
「ねぇ、朱王さん。アンタ何を言って海華ちゃんを怒らせたのさ?」
井戸端で芋を洗う襷掛け姿の朱王の横に立ち、大家の女房であるお石が眉間に皺を寄せて朱王を見下ろす。
そんな彼女へ顔を向けるでもなく、朱王は芋の泥を落とすための束子を握る手をピタリと止めた。
「別に、何も言ってはいないし怒らせてもいませんよ。あいつらは、ちょっとした用事があってここに来られないだけです」
「本当かねぇ? あたしゃとうとうアンタが海華ちゃんに愛想を尽かされたかと……」
「とうとうってなんですか、とうとうって。 俺だって、いつまでも海華に頼ってばかりはいられないんですよ。飯焚きや洗濯くらい、独りで……」
「肌着に穴開けるわ、鍋真っ黒に焦がすわで? ちゃんとできてるとは言えないよアンタ。 ここは恥を忍んでさ、海華ちゃんに謝ったらどうだね? なんならあたしもついてってやるからさぁ」
朱王の言葉をまるっきり信用していないお石は、苦笑いを浮かべて彼の肩をポンポン叩く。
もうどうとでも言え、と半ば自暴自棄になった朱王は洗い終わった芋と束子を小桶に入れて、ノソリとその場から立ち上がった。
「あぁ……そうだお石さん、実はちょっと聞きたい事があったんですが」
「ん? なんだい、あ~わかった、詫びの品に何を持って行ったらいいかだろう?」
ポン、と一つ手を打ったお石が欠けた前歯を覗かせて笑う。
湿気の立ち込める井戸端には、まだ夕餉の支度には早い事が幸いしたのか、朱王とお石の姿しかなかった。
「実は、幸太郎さんとお琴さんの事なんだ」
視線を井戸の斜向かいにある二人の部屋に投げ、声を潜めてお石に尋ねる。
すると彼女は小さな目をパチパチ瞬かせ、朱王を見上げた。
「幸太郎さんとお琴さんの? 一体何を聞きたいんだね?」
「どうしてこの長屋に越してきたのか、だ。 誰かの紹介か?」
「いやぁ、違うよ。あの二人に身寄りはいないさ。あちこちの長屋を巡ったけど、軒並み断られちまったんだって。 まぁ、身元を引き受けてくれる人もいないし、その時は二人とも職が無かったからね。で、 廻った中で一番ぼろくて賃料の安いここに辿り着いたってぇ訳さ」
『あたしも、二人の境遇を聞いたら断れなくてね』そう言って白髪の混じり始めた頭を掻くお石。
どうやら、海華の推測は見事当たったようだ。
「心根の優しいところがお石さんのいい所だ。ところで最近はお琴さん……予知だ予言だで忙しいようだね? 幸太郎さんはどうなんだい?」
「幸太郎さんねぇ、大川の荷揚げ場にいるようだよ。日中は殆ど姿見せないし……」
頬に右手を当てて小首を傾げるお石。
と、彼女の後ろに目る長屋門を潜り、この長屋に住まう笊職人の男がひどく怠そうに生欠伸を連発しながら姿を現した。
「あれ、源吉さんお帰り」
「おぅ、お石さん……おっと、朱王さんも、こりゃぁ珍しい組み合わせだなぁ」
四十にして男寡の源吉は、薄らと無精髭の生えた顔に笑みを浮かべ、ひょいと片手を上げてこちらに近付いてくる。
「どうしたぃ、二人してヒソヒソとよ、なんかイイ儲け話か?」
「そんなんじゃないよ、そこに住んでる幸太郎さんの事さ」
幸太郎、その名を聞いた刹那、源吉の顔から笑みが消え失せ、一文銭のように真ん丸の目がわずかに細められたのを、朱王は見逃さなかった。
「あぁん……幸太郎さんねぇ……」
「源さん、幸太郎さんの事、何か知ってるのか?」
思わず源吉の方に身を乗り出した朱王、源吉は微かに頷いてじっと幸太郎の部屋の戸口を見詰めた。
「大丈夫だよ源吉さん、幸太郎さんも、お琴さんも今は留守だから」
お石の言葉に、源吉はバツが悪そうな笑みを浮かべて一つ咳払いをする。
「そうかい? なら……ここだけの話しだぜ? 俺、幸太郎って男はどうも胡散臭く思えて仕方ねぇんだ。朱王さん知ってるか? あいつな、ここから三丁も離れたとこにある湯屋に行くんだぜ。毎日毎日、独りテクテク歩いてよ。なんでそんな面倒なことすると思う?」
興味津々にこちらを見詰めるお石と朱王を交互に見遣り、源吉は更に声を潜ませる。
「俺の仕事仲間から聞いたんだけどよ、そいつ一度幸太郎と一緒の風呂に入った時にな、あいつの背中や足や腕に、刃物で切っただの突いただのした傷があちこちにあったんだと。そいつ、てっきりヤクザ者と一緒になっちまったって、肝冷やしたらしいんだ」
『あいつ、絶対に堅気じゃねぇぜ』そう最後に囁いて源吉はじっと朱王の目を見詰めた……。
幸太郎の身体にたくさんの傷がある、しかしそれだけで彼に不審な所があるとは断定できない。
なにしろ、海華が手を捻ったり志狼が茶をこぼした際、あの兄妹は傍にいなかったのだ。
ただの事故と思っていたが、どうも間がよすぎる。
独り部屋で酒を飲み飲み一晩掛けて考えた朱王。
翌日、いつもより早く起床し身の周りの支度を整えた彼は、まだ周りが朝餉の片付けも終わらないうちに自室を出た。
向かったのは、すぐ近くにある稲荷の社である。
ここは毎朝、幸太郎が仕事場に向かうために通る道であり、同時に妹のお琴が水や油揚げを供えるために訪れる場所でもあるのだ。
道の端に遠慮がちに立てられた小さな社は、風雨に曝され元は黒に塗られていた社の屋根もあちこちが剥がれ、鼠色に変色しており、切り花や油揚げがちんまりと供えられた格子状の扉の両端には、石彫りの狐が二匹祀られている。
社の裏手に広がる鬱蒼とした藪に身を隠し、息をひそめて幸太郎を待つ朱王、彼がここにきてさほど時は過ぎてはいない。
しかし、彼の待ち人は意外にも早くその姿を現したのだ。
足元から立ち昇る湿った土と長身を覆い隠す緑の簾、名前も知らぬ草花から生まれる青臭い匂いに包まれた朱王の視界に、中西長屋の方向から歩いてくる大柄な男の姿が飛び込んでくる。
ノソリノソリと隈のように体躯をゆっくり左右に揺らす独特の歩き方でこちらに近付いてくる濃い藍色の着物を纏った男は、間違いない、幸太郎だった。
これから仕事に向かうのだろう彼は、いつも長屋で見るのと同じあまり感情の見えない表情で真っ直ぐこちら…… 朱王が身を隠す社へと向かってくる。
今まで朱王の耳に届いていた朝の賑やかな喧騒、社の前を通り過ぎで行く数多の人々の足音やさざめきが、幸太郎が社の前に屈んだ途端、一気に消え去り朱王の全身を髪の毛が逆立つほどの緊張と静寂が包み込んだ。
社の後ろに広がる藪は思ったより深い。
自然の盾に守られる朱王に全く気付くことなく、幸太郎は首を左右に軽く振って辺りを確認するような素振りを見せると、おもむろに格子状となった社の扉に手を掛ける。
ギィィ……と微かに古びた木が軋む音が立ち、息を殺して幸太郎を見下ろす朱王の目の前で幸太郎は社の扉を開き中から何かを取り出す。
幸太郎が取り出したものが何か、朱王の位置からでは見えない。
しかし、幸太郎はじっと己の手元に視線を落としている。
やがて彼は、手にしたそれを己の懐へ捻じ込むと、それの代わりのように袂から取り出した何かを社の中に置き、静かに扉を閉めるとその場から立ち上がる。
ふぅ、と小さく息を吐き、酷く冷たい眼差しで社を見下ろす。
以前、自分の部屋で見せた人懐っこい笑顔はどこへいってしまったのだろう。
これではまるで別人のようだ。
緊張に高鳴る鼓動を押さえつつ身を隠す朱王は、心の中でそう呟いていた。
着物の裾を軽く払った幸太郎は、すぐ足早にその場から立ち去って行く。
彼の姿が小さくなったのを確認して藪から抜け出た朱王を、ちょうど目の前を通り過ぎようとした白髪の、腰が海老の如く曲がった老婆が、ギョッとした眼差しを向けて過ぎて行く。
バツが悪そうに視線を彷徨わせ、髪や着流しに着いた木の葉を払い除けた朱王は、コホンと一つ咳払いをして、先ほどの幸太郎と同じく社の前に膝を着く。
そして、白っ茶けた格子扉に手を掛けゆっくりと扉を引き開いた。
ギィ、と小さな文句を言いつつ開いた扉の向こうには、小さな幼児が身体を丸めてやっと入れるほどの空間がある。
四つの隅に埃が溜まったその中には、乱雑に折りたたんだ一枚の紙が入っていた。
先ほど、幸太郎が残した物に間違いはない。
しかしそれが何なのかを考えるより早く朱王の手はその紙を掴み、細い指先は畳まれた紙を素早く開く。
そこには、まるで殴り書きのような字体で『明後日、小高橋の下』と書かれていた。
明後日、小高橋の下。
そんな短い文章がしたためられただけの紙切れ。
それを再び折り畳み、社の中へと置いた朱王は、すぐさまその場から立ち去った。
あまり、のんびりしていてはどこで誰に……例えばお琴に見られているかもしれないのだ。
この日はそのまま長屋へと戻った朱王。
三日後、彼の姿は大川の支流の上に掛かる小さな橋の下にあった。
支流と言っても大川から流れる清水を滔々と湛えたその川は、大人が歩いて渡るのも難儀だろう。
特に大木を荒削りして造られた橋の向こう、下流に当たる部分は緩やかな曲線を描き水量が集中するのだろう、水は透明な蛇のようにのたうち、渦を巻いて流れる木葉を水底深く引き込んで行く。
朝一番に仕事のため長屋を後にした幸太郎の後を朱王は足音を忍ばせ人混みに身を隠して追い掛けた。 すると彼は、先日社の中で見付けた紙に書かれていた通り、この小高橋の下、青々とした雑草が生い茂る川縁へ向かったのだ。
ここは大通りからも離れているゆえ、橋を通る者もそう多くはない。
時折頭上から聞こえる人の足音や荷車が立てるガタゴトと重い響きを聞きながら大人の背丈を遥かに超える雑草の中に身を隠し、橋の橋脚の傍にしゃがみ込んだ朱王は、ザァザァとさざめき流れる川べりに立ち、じっと煌めく川面を見詰める幸太郎、その藍色の着物を着た背中へ視線を向ける朱王の隣で彼より頭一つ小さな影が音もなく蠢く。
「なぁ、幸太郎さんはなにやってんだ?」
そんな台詞が影の口からポツリとこぼれ、頭の後ろで結い束ねられた癖のある髪が青草に擦れる。
自分の傍らに屈み込む影、志狼を横目で見た朱王は、己が唇に一指し指を押し付けて志狼の小脇を軽く小突く。
どうやら、『喋るな』と言いたいようだ。
厳しい眼差しを向けてくる朱王にちょぃと肩をそびやかして、志狼は再び幸太郎の背中へと視線を戻す。
なぜ、彼がここにいるのか、その答えは簡単、昨夜のうちに朱王が八丁堀まで出掛け、今日早くに幸太郎を尾行るから、お前も一緒に来いと志狼に告げたからだ。
今回の件に幸太郎兄妹が関係している、そう言い出した張本人である朱王は、そう思う証拠を志狼に示さなければと考え、今日この場に彼を呼んだのである。
その間、海華を一人で屋敷に残しておくのは心配だ、しかし長屋にはお琴がいる、万が一何かあっては大変だ、として彼女は今、朱王が贔屓にしている反物問屋、錦屋の女将に頼んで店に置いてもらっている。
一体、あの兄妹はこれからどう動くのか?
そんな事を考えていた志狼の目の前、ちょうど川縁に佇む幸太郎の左側から背中に大きく縦長の箱を背負った一人の若い男が近付いてくる。
箱の横に括り付けられた幟には崩し文字で『薬』と書かれていた。
黒い脚絆に着物を端折り、大小の丸みを帯びた石の上を滑るようにヒョイヒョイと歩き寄ってくる男は、どうやら富山くんだりの薬売りのようだ。
彼は足音も立てずに幸太郎の傍までくる、すると幸太郎は当たり前にように薬売りへと振り向き、小さく首を縦に振った。
互いに言葉を交わした訳ではない、ただ静かに視線を交わらせたのみの二人は川縁に並んで立つ。
薬売りは懐から取り出した手拭いで首筋や日焼けした顔に滲んだ汗を拭きとると、幸太郎に顔だけを向けて何やら小さく唇を蠢かす。
幸太郎は彼の方を見向きもしない、朱王達には背中を向けている状態のため、なんと答えたのかはわからなかった。
「なぁ、朱王さん……」
小さな、本当に小さな蚊の鳴くような声で朱王に尋ねる。
『なんだ』そうぶっきら棒に答えた朱王は、じっと青草の間からのぞく二人の背中を見詰めて答える。
「あの男、幸太郎の仲間か?」
「わからん……。もしかしたら、あいつが社に置いてあった手紙の主かもしれない」
そう朱王が答えた次の瞬間には、もう薬売りの男は幸太郎を追い越しスタスタと右手側、つまり橋脚の向こうへと歩き去って行く。
彼の姿が消えたのを合図としたかのように、幸太郎は今しがた薬売りが歩いてきた方向へと向かって行った。




