第一章
川縁に生えた薄が灰色の穂をサワサワ揺らす。
天高く馬肥ゆる秋、抜けるような青空に赤蜻蛉の群れが飛び交い、足元には白い野菊の花が可憐な姿で人々の目を楽しませていた。
茹だるような暑さを過ぎて訪れた過ごしやすい季節、中西長屋の住人達も、天気が良いとなれば井戸端に集まり、なんやかんやと世間話に花を咲かせている。
この辺りでは古く、言ってしまえばボロだろう長屋に、新しい住人がやって来たのは十日ほど前の事だった。
大家の女房であるお石が、『新しく越してきた人だよ』と言って一組の若い男女を朱王の部屋へ連れてきたのだ。
「今日から、奥の部屋に住むことになった幸太郎さんと、妹のお琴ちゃんだよ。大中村から出てきたばっかりなんだって、朱王さん、よろしくね」
かけた前歯を覗かせ、ニコニコ顔で二人を紹介しに来たのは、ここの大家の女房であるお石だ。
奥の部屋はこの名が嫌でも一番日当たりが悪く、なかなか借り手が付かない場所、そこがようやく塞がったのだ、お石が笑顔の理由もわかるというものである。
幸太郎とお琴と紹介された二人は、朱王に向かい『よろしくお願いします』と丁寧な挨拶と共に深く頭を下げて、自分らが住まう部屋へと戻って行く。
お石の話しでは、二人は江戸から数里離れた所にある大中村に両親と住んでいたが、相次いで両親が他界し、このまま一生百姓で過ごすよりは、と、一念発起し江戸へ出てきたそうである。
勿論ここに親戚などはおらず、田畑も売り払ったため村にも帰れない、近しい肉親もいないため兄妹二人きりだそうだ。
『朱王さんとこと似たような境遇だから、何かと面倒見てやっておくれよね』そう朱王に一言頼み、お石は部屋へと帰って行ったのだ。
長屋に越してきた兄妹、幸太郎とお琴は、朱王が面倒を見るまでもなくスンナリと長屋の雰囲気に溶け込んで行った。
荷揚げ人足としての職を得た幸太郎は毎朝早くから出掛け、お琴はお針子として部屋で仕立物や繕い物などの仕事を請け負っている。
毎日彼らの部屋訪れる海華は、あっという間に二人と意気投合したようだ。
朝餉の支度や洗濯で幸太郎やお琴と顔を合わせると、何やら楽しげに話し込んでいる。
この日も、夕飯に使う野菜を洗いに出掛けたまま、海華はなかなか戻ってこなかった。
「ただいまぁ、あー、お腹の皮がよじれちゃいそう」
水の滴る大根を抱え、目尻に涙を滲ませケラケラ笑いながら部屋に戻ってきた海華は未だ笑いが止まらぬ様子で口元を手で押さえ、小刻みに肩を震わせる。
「随分と楽しそうだな? またお琴さんか? それとも幸太郎さんか?」
顔を薄ら紅潮させて包丁を握る海華に、作業机の前で写生道具の手入れを行っていた朱王が顔だけを向ける。
まな板の上に大根を置き、包丁を入れようと構えた海華は一度その手を止め、朱王の方を見るなりニヤ、と口角をつり上げた。
「お琴さんよ、お琴さん。あの人、本当に話が上手よ。まるで噺家みたい。あたしもさっき聞いたんだけどね、お琴さんってあたしより年下なんですって。見えないわよねぇ、なんだかこう……色っぽい人だから」
「色っぽい、か?まぁ、 俺も間近で顔を見た訳じゃないからな。兄貴の方は、二、三度挨拶したっきりだ」
ペラペラと舌も滑らかに話し続ける海華に苦笑して一度手を止めた朱王に、海華は手にしていた包丁をまな板に置き、濡れた手を拭きつつ、前掛けで手を拭い室内へと上がった。
「そうよね、兄様この頃ほとんど外に出ないものね。それで……お琴さんから、ちょっとお願いがあるって言われたんだけど」
「お願い? 俺にか?」
目の前に座る海華へ向けて少々驚きの表情を見せた朱王、そんな彼へ、海華はコクリと首を縦に振る。
「そう、兄様にお願い。お琴さんと幸太郎さんがね、ぜひ兄様とも一度話がしてみたい、って言うのよ。兄様の名前をね、大中村でも聞いていたんですって。あの有名な人形師の先生と同じ長屋に住めるなんて夢みたい、是非とも一度ゆっくりお話がしたい、って言うのよ。どうかしら?」
上目遣いで尋ねる海華に、しばし考える仕草を作った朱王は、今まで手入れしていた絵筆を徐に手に取った。
「……今は、急ぎの仕事もないからな。少しくらいならいいぞ」
「本当? ありがとう! せっかくだから、志狼さんも誘おうと思ってるの。明日にでもお琴さんに話してみるわね」
ニコニコ笑いながら土間へと戻る海華は、鼻歌混じりに大根へ包丁を入れる。
トントントン…… と軽やかに響く包丁の音を聞きながら、朱王は再び作業机へと向き直った。
さて、朱王と幸太郎、お琴兄妹との対面は海華が話を持ち込んでから三日後に行われた。
こう書くとなんだかお見合いのようにも思えるが、何の事はない、同じ長屋に住む住人同士のお茶飲み会である。
この日は、海華の夫である志狼も八丁堀にある屋敷の仕事を早くやり終え、海華と共に朱王の部屋を訪れていた。
海華が買い求めた菓子と茶の支度をし、桐野の屋敷から拝借した数枚の座布団を並べて楽しげに海華が支度を整えていると、『ごめんください』と軽やかな声色と共に、ガタピシと軋む音を立てて戸口が開かれ、薄い桃色の着物を纏った女と、藍色に白の縦縞模様の着流しを纏う体格の良い男が姿を現した。
「幸太郎さん、お琴さんいらっしゃい! さ、どうぞ上がって」
細面に満面の笑みを浮かべて小さく会釈するお琴と、日に焼けた顔を少々緊張気味に強張らせる幸太郎は、海華に促されるまま部屋へと上がる。
朗らかな、そして人好きのする笑顔を始終崩さないお琴と、人見知りだろうか、どこかそわそわした様子で座布団に正座する幸太郎。
寡黙な兄に賑やかな妹とは、まるで朱王兄妹と同じようなものだ、と内心で志狼は思った。
「今日はお招き頂いて、ありがとうございます。こっちが兄さんの幸太郎で、私は妹のお琴と申します」
そう自己紹介しながら、お琴は朱王と志狼に向かって三つ指をつきつつ頭を下げる。
慌てて居住まいを正した朱王と志狼も、二人に向かい小さく頭を下げた。
「こちらこそ、いつも妹がお世話になっております。海華の兄の朱王と……」
「海華の亭主の志狼です、どうぞよろしく」
「よろしくお願いいたします、あぁ、あの有名な朱王先生にお会いできるなんて、感激だわ、ねぇ、兄さん」
興奮ぎみに頬を赤らめ、お琴は高鳴る鼓動を押さえるかのように胸へ手を当てる。
海華は、彼女が自分より年下だと言っていたが、パッと見ると海華より年上に見え、そして話をすれば年下にも思えてしまう。
それは彼女言ったすらりとした体つきに細面の整った顔立ち、一重の涼やかな目に薄めの唇、そして折れそうに細い首筋等々、『見た目の色っぽさ』のせいもあるだろうし、口を開けば声の張りと初々しい反応が彼女を少女のようにも見せるのだろう。
どちらにしても、掴み所のない不思議な雰囲気を醸し出す女だった。
「素晴らしいお人形をお造りになるのは前々から存じてましたの、それよりも本当、噂に違わずお綺麗だわ。ねぇ、兄さん?」
「あぁ、そうだな、その……」
「あらやだ、この人緊張してるわ、そんなに小さな声じゃ朱王さんに聞こえないわよ?」
大きな背中を丸め、ゴニョゴニョ口ごもる幸太郎の膝を軽く叩いてお琴が笑う。
この幸太郎という男を一言で表すのならば、『寡黙』そして『素朴』がぴったりだろう。
木箱のようにがっしりとした体つき、雄牛よろしく太い首の上には、日焼けした丸顔が乗っかっている。
太く大きな眉毛の下には、くっきり二重の大きく円らな瞳、そして丸っこい鼻に厚めの唇、全て妹と正反対の顔立ちをした『田舎百姓』そのものの彼は、お琴の言う通り緊張しているのだろう、視線は忙しなく周囲をさ迷い、分厚く大きな手、その節くれだった指は膝の上で何度も握り締められていた。
「幸太郎さん、どうぞお楽にしてください、なにも難しい事を伺おうという訳ではありませんので」
あまりにも堅苦しい彼の様子に、さすがの朱王もそう言葉を掛けてしまう。
はぁ、とどこか気の抜けた返事を返した幸太郎は、引き攣ったような笑みを朱王へと向けた。
幸太郎兄妹との顔合わせは、普段深い人付き合いが苦手な朱王にも楽しい一時となった。
海華から聞いていた通り、お琴は明るく社交的で、初対面の志狼ともあっという間に意気投合し、今まで暮らしていた村の話や江戸に来てからの事などを面白おかしく話し始める。
ただ明るいと言うだけでなく、どこかひょうきんな彼女が身ぶり手振りを交えて話す内容は下手な落語や太鼓持ち芸より面白く、海華は腹を抱えて笑い転げ、普段は無愛想な志狼や楽しい、との感情を表に出さない朱王までもが二人がいる間は始終笑みを絶やさなかった。
遂に朱王は作業机の下から酒瓶を引っ張り出して幸太郎や志狼と酒宴を始める始末だ。
もはや宴会と化した集まりが解散したのは昼をだいぶ過ぎた辺りだ。
最初は緊張の面持ちを崩さなかった幸太郎も、酒精が廻ったのだろう、帰りがけには真っ赤な顔で頬を緩め、朱王や志狼と仕事の話で笑い、亡くなった両親の事を話し出すと両目を潤ませるなど、涙脆い一面も覗かせた。
「今日は、本当にお世話になりました」
ヘロヘロに酔っ払い、お琴に肩を貸されて土間に立った幸太郎は朱王達に向かってぺこりと頭を下げる。
大柄な彼を華奢な身体で支えなければならないお琴は、わずかにふらつきながら海華に向かって苦笑いを浮かべた。
「すっかり御馳走になってしまって、ごめんなさい」
「いいのよお琴さん、今日は楽しかったわ、またいらしてね」
ふらつくお琴を心配そうに見ながらも笑みを絶やさない海華。
その横では、しこたま飲んだはずが顔色一つ変えない朱王と志狼が立っている。
酒精で濁った眼を右手で擦りながら朱王らを見ていた幸太郎は、突如何かを思い出したようにニンマリと唇を吊り上げた。
「なぁお琴、こんだけお世話になったんだ、お礼にお前、『いつもの』やって差し上げろぃ」
「いつもの? 嫌よ、あんな事しちゃ皆さん気味悪がるじゃないの。変な事を言わないで」
にやけ顔の幸太郎とは正反対に、お琴は細く整えた眉を思い切り顰めて彼を睨む。
そんな二人を見て、朱王と志狼は互いの顔を見合わせ、海華の首が無意識に傾げられた。
「いつもの? ねぇ、お琴さん、いつものってなぁに?」
海華の問い掛けに、最初に答えたのはニヤニヤと意味ありげに笑う幸太郎だった。
「ほら見ろぃ、皆さん聞きたがってるじゃねぇか。海華さん、こいつぁね、お狐様が…… 稲荷台明神様が憑いてるんですよ」
『稲荷台明神が憑いている』
幸太郎が発した台詞に、もう三人は呆気にとられて様子で目を瞬かせる。
そんな彼らに構わず、幸太郎はペラペラとさっきの言葉の意味を話し始めた。
お琴はまだ幼い頃、風邪をこじらせ高熱を出し生死の境を彷徨った事がある。
奇跡的に一命は取り留めたが、それからというもの彼らの家で祀っていた稲荷が彼女の身体を借りて現 れ、これから起こる災いなどを予言するようになったという。
そして、彼女は成長するにつれ狐の力を借りずとも予言が可能になったというのだ。
「こいつの予言はねぇ、明日の天気から、どこの誰がいつ結婚するとか、子供が産まれるとか……とにかく本当によく当たるんですよ。それ、お琴、朱王さん達にこれから何があるのか、しっかり視て差し上げろ」
酔っぱらった幸太郎に押し切られ、お琴は渋々といった様子で彼を支える腕を外し、胸の前で両手を合わせて目を閉じて口の中で何やらブツブツ呟き出す。
急に静かになってしまった二人を前に、朱王は困ったようにこめかみを掻き、志狼は胡散臭げな眼差しをお琴へ向ける。
唯一、海華だけは興味津々にお琴を見詰めた。
「……朱王さんと志狼さんは、これからひと月特に大きな怪我や病気をする事は無いでしょう。いつもと変わらぬ毎日です。 でも、海華さんは……ごめんなさい、水難の相が出ています。井戸や川、とにかく水に関するものには気を付けて」
ボソボソと、うまく聞き取れないような小さな声で早口に言い終えたお琴は、ゆっくり目を開けると一度溜息をついて三人に向かい一礼した。
『変な事を言ってしまって、ごめんなさい』そう何度も謝りながら、お琴は兄を連れて足早に部屋を後にする。
『水難の相がある』そう面と向かって告げられてしまった海華は、返す言葉もなくただ困ったように眉を寄せて二人を土間に降りて見送り、そのままの表情で朱王と志狼へ振り返った。
「ねぇ、あんな事言われちゃったけど、どうしよう……」
「どうしようったってなぁ……」
意見を求められるも、どう返答してよいかわからない志狼は指先でこめかみを掻きつつ誤魔化すように小さく笑う。
その隣で、わずかに目を細める朱王は、『くだらない』とでも言いたげにフン、と軽く息を吐いた。
「ばかばかしい、そう気にするな。水難の相? 帰りに雨にでも当たる程度じゃないのか? まさか、洪水に巻き込まれる訳でもないだろう。ただの戯言さ」
そう言い放ち、背筋を伸ばすように大きく伸びをした朱王はそのまま踵を返し、畳に置かれたままの湯飲みを片付けだす。
「もう。兄様ったら。あたしの事が心配じゃないの?」
些か冷たい兄の態度に海華は腰の両側に手を当て、彼の背中をキッと睨み付ける。
湯飲みを上がり框の方へと押しやり、こちらに向かい胡坐をかいた朱王はわずかに目を細めて海華を見遣った。
「心配さ。心配だから早く帰らそうと思っているんじゃないか」
「なによ、そんなに早く帰って欲しいわけ?」
「まぁな、ぼさぼさしてると途中で雨に当たるぞ? 表へ出て空を見てみろ」
そう言って戸口を指差す朱王をジロリと睨みながらも、海華は戸口を少しばかり開いてそこから顔を突き出す。
仰ぎ見た空には分厚い鼠色の雨雲が低く立ち込め、髪を撫でて行く生暖かい空気は雷の訪れを予感させる。
怒りを浮かべていた目をパチパチ瞬かせて、海華は勢いよく突き出していた首を室内へと引っ込めた。
「やだ、ほんとだわ。空が真っ黒よ志狼さん」
「え? そりゃいけねぇ、洗濯物干したまんまだ、早く帰らねぇと……!」
海華の言葉に慌てだす志狼は、さっさと土間に飛び降り戸口を開けて表へ姿を消してしまう。
彼の後を追い掛けようと足を踏み出した海華、しかし彼女は一度その足を止めて、再び朱王の方へと振り返った。
「な? 水難の相なんて、こんなもんだ」
ニヤッと唇を吊り上げて悪戯っぽく笑う朱王に海華の眉間に微かに皺が寄った。
「もぅっ! ……でも、雨が降りそうなんてよくわかったわね?」
「さっき、お琴さんが戸を開けた時に空が見えた、ただそれだけだ。 ほら、志狼が待ってるぞ、早く行け。今日の夕飯は……どこかで適当に食うから心配するな」
「そう? ごめんなさいね。じゃぁ、また明日!」
そう一言叫んで部屋を出た海華は、朱王に向かいニコリと微笑み戸口を閉める。
次第に遠ざかって行く二人分の足音を聞きながら、朱王は殆ど空となった酒瓶を作業机の下に押し込んだ。
志狼と海華が八丁堀の屋敷に駆け込んだ、それを見計らったかのように暗雲の立ち込める天空から大粒の雨が降り始めた。
二人が大慌てで洗濯物を取り込んでいる間にも、雨はザァザァと激しい音を立てて屋根を、大地を打ち付け二人を取り巻く世界は白く煙だす。
足元を雨水と泥で汚し、肌着や着流しを抱えて縁側に飛び上がった二人は荒い息をつきつつその場に座り込んでしまう。
「いや、間に合ってよかったぜ」
「ほんと、この量をまた洗い直すなんて真っ平ごめんだわ。 それこそ水難よ。お琴さんと……兄様にも感謝しなくちゃね」
そう言いながら湿り気を帯びた縁側にゴロリと寝転ぶ海華の横で、手拭いを取り出し足を拭いていた志狼が小さく微笑みながら頷く。
湿った空気の中に立ち込める土の匂い、遠くで聞こえる雷鳴が二人の鼓膜を静かに震わせる。
ひんやり冷たい空気に包まれる二人はようやくそこから腰を上げ、山となった洗濯物を抱えて自室へと戻っていった。
海華達の思いとは裏腹に、雨は夕方を過ぎてから一段と激しさを増した。
屋根瓦を打ち付ける大きな雨粒は、ゴォゴォと低い轟音を上げて世界を震わせ、それは恐怖すらも覚える、まさに豪雨だ。
夕餉の支度をしながら不安げな眼差しを窓の外に向ける海華は、天井を突き破らんばかりに激しくなる雨音に小さく肩を震わせ、煮物の味見をする志狼へ身を寄せた。
「ねぇ、志狼さん」
「どうした? あぁ、雨なら大丈夫だ。風も付いてねぇしな、それに天井は抜けやしねぇよ」
「違うわよ、旦那様の事だってば。こんな雨の中をお一人で大丈夫かしら?」
最近にない大雨だ、桐野が危険な目に遭わないだろうか、そんな心配で頭が一杯になる海華へ志狼は左手で鍋の蓋を右手で菜箸を持ったまま表情を緩めて首を振る。
「心配するな、こんな時は籠でお帰りになるさ」
そう言いながら震える左手で鍋の蓋を戻した志狼の横顔を見ながら、海華は『そうね』と小さく呟いた。
与力ともなれば、普段より籠を使用しての出勤となるのが普通だが、桐野の場合は『籠などいちいち面倒臭い』と今でも徒歩で出勤している。
こんな天気だ、彼とて面倒臭いなど言ってはいられないだろう。
とにかく着替えの用意と温かな茶をすぐ出せるよう用意を、と海華は鉄瓶で湯を沸かし始めた。
そんな彼女の目が、戸棚から食器を出し始める志狼の左手へと向けられる。
「志狼さん、手の調子はどう?」
「うん、まだしっかり握れないし、指の感覚も鈍いが、だいぶ動くようになったな」
「良かったわ、お皿も前より落とさなくなったしね、だんだんよくなっているのね」
自分の事のように嬉しがる彼女を見て、志狼はどこか気恥ずかしそうに小さく鼻を啜る。
だが、その表情は緩み、口許からは白い歯が覗いている。
そんなこんなをしているうちに夕餉は出来上がり、志狼の言葉通り桐野は籠で帰宅した。
足元や袴の裾を濡らした彼の足を玄関先で拭き清めた志狼は桐野の後について彼の自室へと向かう。
海華はと言うと、鉄瓶を火から下ろすため玄関から一度台所へと戻っていった。
「やれやれ、ここまで酷くなるとは思わなかった。これでは小さな川の一つや二つ、溢れるかもしれん」
濡れてしまった袴の裾を軽く持ち上げて、桐野が溜め息混じりに呟く。
縁側の屋根から滝の如く流れ落ちる雨水は地面に当たって跳ね上がり、黒光りする縁側の縁を更に暗く濡らした。
「はい、この調子なら、明日もどうなるかわかりません。あぁ、川が溢れると言えば、今日朱王さんのところで……」
昼間、長屋であった出来事を志狼が話し出そうとした、その時だった。
廊下の奥、台所に近い場所から『きゃあっ!』と女の甲高い悲鳴と共に何かが落ちる重たい衝撃音が響き、桐野と志狼の足に微かな振動が伝わってくる。
「どうした!? 何事だ!」
顔一杯に驚きの表情を浮かべた桐野が叫び、志狼は反射的に音のした方向へと脱兎の如く駆けて行く。 薄い闇が満ちる廊下、台所と廊下の境目で尻餅をつき顔をしかめて腰を擦る海華の姿を目にした途端、志狼の口から『アッ!』と小さな叫びが漏れた。
「お前、どうしたんだ!?」
素っ頓狂な声を張り上げる志狼、彼の声に海華は顔を顰めたまま『転んじゃった……』と小さく口にし、立ち上がろうとわずかに腰を浮かす。
すぐさま彼女の傍に屈み込んだ志狼は、その背中に手を添えゆっくりと助け起こした。
「海華、どうした? 怪我はないか?」
廊下の向こうから小走りに駆けてきた桐野が、心配そうな面持ちで彼女を見下ろす。
志狼に抱えられたまま、海華は痛みを堪えて弱々しい笑みを返した。
「はい、大丈夫です……。ちょっと、手を捻っただけで……」
「手を? どっちだ、ちょっと見せてみろ」
わずかに眉を顰めた志狼は海華が差し出した右手の手首をそっと手に取る。 志狼が一掴み出来てしまう細く華奢な手首には、特に腫れや痣はみられない。
「折れてはいねぇみたいだな。どこかに足でも引っ掛けたか?」
「ううん、そこが濡れていたの。それで、足を滑らせちゃって」
右手を擦りながら背後を振り返り、ある一点を指し示す海華の指先に桐野と志狼の視線が集中する。
彼女の言う通り、そこには大人の手のひらほどもある水溜まりができていた。
「なんだこれは? まさか雨漏りか?」
一言呟き桐野は天井を見上げる。
しかし、天井には雨漏りの跡もなく水が滴る様子もない。
「さっき通った時は、こんなものなかった筈だが……」
突然現れた水溜まりに、志狼も不思議そうな面持ちで首を傾げてしまった。
『水難の相って、これの事だったのね……』 痛みに言葉を詰まらせながら、強かに打ち付けた腰や手を擦る海華は、二人に聞こえないような小声でポツリと呟いた。




