第一話
「…… またか」
朝一番、戸口を開いた朱王の口から眠気を纏った呟きがこぼれる。
寝癖のついた髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜ、欠伸を一つ放った朱王の足元には、きちんと折り畳まれた二通の文が落ちていた。
清らかな朝の光に照らされ、白く光るそれらを無造作に拾い上げた朱王は、中身を確かめもせずに作業机の上に放り出す。
カシャ、と乾いた音を立てて机に落ちた文、その一つから、一輪の紅い花が飛び出した。
このところ、毎日のように戸口に挟まれている二通の文、そのうち一通の差出人が誰かは、もうわかっていた。
中西長屋から半丁ほど離れた場所にある小間物問屋の一人娘だ。
年は十七になったばかりだというその娘は、以前、人形問屋で朱王を見掛けてすっかり彼に熱を上げてしまった。
つまりは一目惚れだ。
それからというもの、三日とおかずに部屋へ恋文が届けられるようになった。
それ自体は娘の世話係りだろう少女が届けていたのだが、一向に返事をしない朱王に痺れを切らしたのか、数日前にはとうとう娘自身がこの部屋に押し掛けてきたのだ。
好きですお慕いしていますと泣いて喚いて告白されても、朱王には彼女を受け入れる気は更々ない。
なだめすかして娘の両親や店の者を呼び、なんとかお引き取り頂いたのだが、それからも娘は飽きずに恋文を送り付けてくるのだ。
自分の意思とは関係なしに、惚れた腫れたの色恋沙汰に巻き込まれる事が日常茶飯事である朱王。
数えきれぬほど送られた恋文や怨み文は、ことごとく竈の焚き付けへと変わる。
海華には『女泣かせ』と散々言われてきたが、冗談ではない、勝手に惚れて勝手に泣いているのはあっちであり、こちらは厄介事に巻き込まれる、謂わば被害者だ。
「全く……あの女もしつこいもんだ」
ぶつくさと口のなかで文句を言いつつ寝巻きから着流しに着替える朱王。
と、慣れた様子で帯を結んでいたその手が、ピタリと止まった。
「―― それはそうとして……もう一通は誰からなんだ?」
そう呟いて無意識に首を傾げた朱王の目が、文机の上、文からはみ出るように姿を覗かせた一輪の花に向けられる。
いつも熱烈な愛の言葉を羅列した文と共に、この深紅の花が贈られてくるのだが、どうした事かその文には差出人の名前はなく、誰からの物かさっぱりわからないのだ。
普通ならば、恋文には書いた女の名前が認められているものである。
しかし、今まで五通ほど送られてきたこの文には、どれ一つとして差出人の名は書かれていない。
ただ同じ花が添えられており、そして読んでいるこちらが赤面してしまうほど熱い愛の告白の最後には『いつも、いつでも貴方様を見ております。私の愛は未来永劫変わりませぬ』と書かれているのだ。
どこの誰が書いたのかわからぬそれは、不可解でもあり、同時に薄気味悪くも感じてしまう。
一緒に贈られてくる花が何を意味しているのかもわからないため、朱王は文と一緒に花も焼き捨てるよう、海華に言い付けていた。
最近はろくに中身に目も通さず、文と花は灰燼と帰している。
「ま、そのうち飽きるだろう」
誰に言うでもなく、己に言い聞かせるように言った朱王は、手拭いを片手に土間へと降り、顔を洗うため井戸端へと向かう。
戸を開け放ったと同時に室内へと射し込む真っ白な太陽の光。
空間を放射状に切り裂いたそれは、机の上で深紅の花弁を揺らす可憐な花を鋭く射抜いた。
「ねぇ兄様、これ本当に燃やしちゃってもいいの?」
襷掛けをした海華は二通の文と一輪の花を手にしたまま、戸惑いがちに朱王を見る。
作業机の前に胡座をかいて仕事に没頭していた朱王は、『あぁ』と気のない返事をしただけで彼女に見向きもしなかった。
部屋の掃除と夕飯の支度をしに長屋を訪れた海華へ手渡された恋文。
中を確かめた気配すらないそれを燃やしてしまうのは、やはり女である海華にとって、申し訳ない気持ちとなるのだ。
「中身くらい少し見たらいいじゃない」
「このくそ暑い時に、そんな暑苦しい文なんざ読めるか。幾度も止めろと言っているのに……人の迷惑省みない奴の寄越した物なんざ、さっさと捨ててしまえ」
むっつりと眉間に皺を刻ませて言った朱王に、それ以上反論せず土間に降りた海華は、文を二通、竈へと放り込む。
メラメラ燃える紅蓮の焔に舐められ、文はあっという間に漆黒の燃えかすへと姿を変える。
彼女はそれを確認し、やおら竈の前から立ち上がり室内へ飛び上がった。
「兄様、このお花は貰っていいでしょう? こんなに綺麗なのに、燃やしちゃうなんて可哀想」
「好きにしろ……。―― ところでお前、その花の名前はわかるのか?」
草花に特別興味がない朱王は、贈られてくるそれの名前も調べずにいた。
蝋燭の炎によく似た形、赤く小さな花弁が卵形に密集したそれは、枯れても色褪せる事がない。
特別よい香りなどはしないが、その色鮮やかさが女子供の気を引くのだろう、海華は『燃やせ』と命じたその花を、時々内緒で持ち帰っていたようである。
「あたしも最初はわからなかったんだけどね、志狼さんが知ってたの。千日紅っていうんだって。カラカラに乾かしても、色はそのままらしいわ」
「ふぅん……千日紅、ね。どうしてこんな物を文に入れて寄越すんだろうな? さっぱりわからん」
一度作業の手を止めて、彫刻刀を持ったまま大きな伸びをする朱王。
それを横目に千日紅を指先で挟みクルクル回す海華は、擦り切れた畳に座り、ニッコリ微笑みながら紅い花を彼へと差し出した。
「千日経っても兄様を愛してます、って事よ」
にこやかな笑顔と共に放たれた台詞に、朱王はあからさまに嫌な顔をして机に肘をつく。
「止めろよ、気持ちの悪い」
「だって、それしかないじゃない。前の文にも書いてあったでしょ? 『変わらぬ愛を貴方に』って。なかなか熱烈な女よね」
「だから止めろって。熱烈を通り越して気持ちが悪いだけだ。―― おっと、こんな話をしている場合じゃなかった」
何かを思い出したように慌てて立ち上がった朱王は、着流しにくっつく木屑をバンバン払い落として写生道具を纏め、風呂敷に包み始める。
「あら、これから出掛けるの?」
「あぁ。先日のお客がまた人形を頼みたいってな。姪っ子の生人形を造って欲しいらしい。 多分、夜には帰ってこれると思うんだが……」
「あら、いいお客様ね。わかりました、お食事はすぐ食べられるようにしておきます」
そう言いながら再び土間に降りた海華は、グツグツ煮えたぎる鍋の蓋を開ける。
入道雲のように立ち上る湯気を軽く身を仰け反らせてかわす彼女の横顔をチラと見て、朱王は心中で溜め息をついた。
もしも自分が思い切って嫁を貰ったならば、海華はここへ来て自分の世話をする必要はなくなる。
少しでも負担を減らしてやれるだろう。
だが、元よりの女嫌いも手伝ってどうしても所帯を持つ決心は着かないのだ。
「―― いつも手間かけさせて、すまないな」
思わずポツリとこぼれた台詞。
一瞬驚いたような面持ちでこちらを振り向いた海華だが、すぐに苦笑いを浮かべて煮える鍋をお玉で掻き混ぜ始めた。
「何よ、いきなり。今さら水臭いじゃない」
「いや……もしも、俺に女房がいたら、お前にこんな面倒掛けさせないですんだろうな、と思ってな」
帯をきっちり結び、畳に胡座をかいた朱王は自気味に呟く。
そんな彼に、海華はゆっくり左右に首を振って小さく笑った。
「何を言ってるのよ兄様、女房は小間使いでも女中でもないのよ? 飯炊き洗濯させるために一緒になって、長く続く訳ないわ。相手にも失礼よ」
確かに海華の言う通りだ、とばかりに朱王も首を縦に振る。
鍋の蓋を閉じ、お玉を傍らに置いた彼女は、襷を外しながら室内へと上がる。
「あたしは志狼さんと一緒になったけど、兄様の妹なんだから。面倒を見るのは当たり前よ」
「そうか……。なら、甘えさせてもらうか」
穏やかな笑みを唇に浮かべて、長い髪を掻き上げる朱王。
早くしないと遅れるわ、と彼を急き立て準備をさせる海華は、彼が脱いだ部屋着や部屋の隅に放られていた肌着を纏めて盥に放り入れる。
料理が終われば洗濯だ。
休む暇なく働く海華に見送られ、朱王は長屋を後にして依頼人の元へと向かった。
桜の花が跡形もなく散り落ち、熱気を纏う風と共に夏が訪れる。
初夏にしてはきつい陽射しに曝される朱王の白い首筋には玉の汗がいくつも浮かび、道の向こうに浮かぶ陽炎はゆらゆら揺れて世界を、そして道行く人々を妙な形に歪ませた。
日焼けした顔に深い皺を刻ませるぼて振り、道端で商品を並べ小気味良い売り口上で客を呼び集める小間物屋。
草木が繁り花が咲き乱れる極彩色の世界の中を通り過ぎ、彼が辿り着いたのは、銀座の中心部に暖簾を構える両替商、『田澤屋』だ。
両替商の名の通り、金銀を扱い江戸の経済を司るといっても過言ではない場所であるそこは、数ある両替商の中でも老舗であり、一際大きな店構え、そして数多くの使用人を使う店である。
朱王が到着した時も年若い使用人らや、数多の客だろう男らが忙しそうに暖簾をくぐり抜け店を出入りしており、商売の邪魔をしてはいけないと、彼は店の裏手にある裏門から敷地の中へと足を踏みいれた。
綺麗に手入れされた裏庭を抜け、裏口……と言っても他家の玄関と同じくらいに大きなそこへ入った朱王は、大きな声で中へと声を掛ける。
すぐに使用人だと思われる中年女が姿を現し、朱王が依頼人のであるここの若旦那の名前を告げると、すんなり中へ案内してくれた。
黒光りするくらい徹底的に磨き上げられた廊下を渡り、迷子になりそうなほど広い屋敷を女に案内され進む。
やがて客間と思われる一室に案内され、茶菓で持て成しを受けて、一人静かに依頼人を待った。
青畳の匂いも清々しい客間には、一体いくらするのか想像もつかない鮮やかな色彩の大皿や、恐らく舶来物だろう硝子の花瓶などが並べられている。
金持ちの道楽だろうそれを何気無く眺めつつ、出された茶を啜る朱王の耳にドタドタと些か重ための足音が聞こえ、横の障子に大柄な人物の影が浮かぶ。
「朱王先生、お待たせいたしました! 」
興奮の色を隠し切れない声色と共に、勢いよく障子が開かれる。
そこには。亀甲柄の着流しを纏う、大木のような男が立っていた。
「遠いところをわざわざお越し頂いて、申し訳ありません」
相撲取りのような大柄な体躯、大きな背中を丸めるようにペコペコ頭を下げて朱王の正面に座ったこの男が、今回の依頼人である雅吉だ。
ここ田澤屋の跡取り息子である彼は、家族の誰に似たのかわからぬ熊のような身体つきとは裏腹に、心根の優しい好人物として、この辺りでは有名である。
ぽってりと肉のついた丸い顔には小さな二重瞼の瞳に丸い鼻、そして薄い唇からは、細やかで微かに高い女のような声が生まれる。
ついたばかりの餅と見間違う艶やかで真っ白な肌を持つこの男は、もしも女にしたらさぞかし色っぽくなるだろう。
年は朱王とそう変わりはないが、はにかんだ顔はあどけない少年を思わせる。
そんな彼を前に、朱王も思わず白い歯を覗かせ頭を下げた。
「とんでもない、こちらこそご贔屓にして頂きありがとうございます。今回は、姪御様の生き人形を、と窺っておりますが……」
「は、い……。それがその、なんと申しますか……」
先ほどの愛想の良い笑顔はどこへやら、急に顔を伏せてしどろもどろとなる雅吉をじっと見詰めて、朱王はコホンと小さく咳払いをした。
「―― 恐れ入りますが、田澤屋さんにはお子様は御一人、雅吉様のみと窺っております」
「はい……はい、その通りでございます。朱王先生申し訳ありません、本当に、本当に申し訳ありません、この通りです、どうかお許し下さい」
真ん丸の顔から汗を吹き出して、雅吉は畳に額を擦り付け、ひたすら『申し訳ありません』と謝り続ける。
姪もいない彼が、なぜこんな嘘をついたのかさっぱりわからない。
「雅吉様、どうぞ頭を上げてください。どうして姪御様の人形などと? 」
彼の目的は何なのかはわからぬ。
だが、彼に仕事を依頼する物のなかには、目的をはっきりさせたがらない者も多くいるのだ。
例えば妾や馴染みの遊女、そして隠し子。
表沙汰にはしたくない依頼もある。
だから、彼がこれ以上話したくないのならば、無理に聞き出すのは止めよう。
そう朱王は思っていたのだ。
「はい……本当の事を申してしまえば、朱王 先生は依頼を受けてくださらないと思って……。作って頂きたい人形があるのです。お願いします先生、どうか……」
すがる眼差しを向けて再び深く頭を下げる雅吉。
大きな身体を縮めに縮める彼の姿を気の毒に感じた朱王は、その場から立ち上がり雅吉の隣へ片膝をつき、彼を覗き込んだ。
「どうぞ落ち着いてください。依頼を受けるか断るかは、まずお話を伺ってからでないと決めることは出来ません。雅吉様、どのような人形をご所望ですか?」
あくまでも穏やかな口調で問う朱王へそろそろと顔を上げ、雅吉は円らな目を瞬かす。
うっすらと上気した柔らかな頬、なだらかな丸みを帯びたそこから透明な雫が滴り、亀甲柄の着流しへと染み込んでいった。
「えぇ? 猫の人形を作るの?」
田澤屋に行った翌朝、朝飯の支度をしに来た海華は朱王の話を聞いた途端、驚きのあまり茶碗を取り落としそうになった。
「そうだ。猫の人形だ。しかも三匹ぶんさ。 こりゃなかなかの大仕事になるぞ」
海華から飯を盛った茶碗を受け取り、お膳に置いた朱王は『いただきます』と小さく言って、まずは大根の味噌汁を美味そうに啜る。
そんな彼を怪訝な眼差しで見詰める海華は掛けていた襷を外して傍らへと置いた。
「兄様、そんな仕事を受けたの? それに、どうして田澤屋さんに子供が一人だって教えてくれなかったのよ?」
「別に隠してた訳じゃない、あの家についた時に思い出しただけさ。仕事は……まぁ受けたよ。こっちが気の毒になるくらいお願いしますと頭を下げられるんだ」
「そう、でも珍しいじゃない。昔だったら受けてないわよ、きっと。兄様、なんだか丸くなったわね」
クス、と唇を綻ばせる海華を軽く睨んで飯を掻き込む朱王。
昨日、雅吉から聞いた話では、自分が飼っている愛猫の人形をどうしても朱王に作って欲しかったが、人形問屋では『朱王さんは動物の人形なんて作らない』と笑われてしまったと言うのだ。
「それで、姪っ子の人形だなんて嘘ついたのね? 」
「まぁ、そういう事だな。最初は俺も迷ったが……前も仕事を貰っているから、無下にも出来ないだろう? 今日も、これから猫の写生だ」
人の言うことなど聞く筈もない気紛れな猫共が三匹、写生するのも骨が折れる。
ここ何日かは通わねばならないだろう。
「夕方までには帰ってくる」
「なら、ご飯はいつも通りね。忙しいのは良いことだけど、身体には気を付けて。あ、っと……それから、これ。飽きずにまた来てたわよ」
そう言いながら突然袂をまさぐった海華は、そこから二通の文と一本の千日紅を取り出す。
葉物のお浸しを摘まんだ朱王の表情が、みるみるうちに曇り始めた。
「またか。お前、中は読んだのか?」
「うん、兄様に黙っては悪いかと思ったんだけど、どうせ燃やしちゃう物だしね。お花が入っていた方は、いつもと同じ内容よ。いつも貴方を見ています、って。それとね、小間物屋のお嬢さんの方は、なんだかキナ臭い感じがするわ」
軽く眉を潜めて一通の手紙を差し出す海華。
ひどく嫌そうな面持ちでそれを受け取り中を確かめた朱王の眉間にも、深い皺が刻まれていく。
そこには、『これ以上無視をするなら長屋の前で死んでやる』『貴方を殺して私も死ぬ』と物騒な言葉が書き殴られていた。
「随分と物騒な恋文だな?」
心底呆れ果てたと言いたげな面持ちで文に目を通していた朱王は、それをクチャクチャ丸めて机の横へと置いた屑籠に放り込む。
「好きです好きですの次は、殺してやる!か。これからあの女に惚れられた奴は堪ったものじゃないな」
「なに他人事みたいに言ってるのよ。その『惚れられた奴』ってのは、兄様の事じゃな い」
ブツブツ文句を言いながらも飯を平らげていく朱王。
彼に食後の茶をいれようと茶筒を手にした海華は、わずかに顔をしかめ、横目で彼を睨む。
「女の悋気は恐いわよ? 道歩いてて、いきなり後ろからブスリ、なんて事になったらどうするの?」
「俺が易々と殺られると思ってるのか? だいたい、どうすりゃいいってんだ。お前、あんな女を嫁に貰えとでも言いたいのか?」
「冗談じゃないわ、人の家に乗り込んで大騒ぎするような女を、誰が……。それに、兄様はどんな女でも嫁にするのはお断りなんでしょう?」
急須から白い湯気の立つ茶を湯飲みへ注ぎ、海華はフンと鼻を鳴らす。
女の悋気は恐い、それは朱王も見に染みてわかっているのだが、こればかりはどうしようもない、逃げるものは追い掛けたくなる、それが女の性……いや、生物の性なのだろう。
「とにかく、身の回りには気を付けなきゃ駄目よ。切った張ったの騒ぎになったら大変なんだから」
相手にするのも面倒くさい、そんな様子で茶を飲む朱王にチクリと釘を刺し、空になったお膳をもって海華はその場をから立ち上がる。
これ以上酷くなるようなら、また向こうの親を交えて話し合わなければならないだろう。
「ねぇ、一度旦那様にご相談した方が……」
「止めろよみっともない。桐野様を煩わせるほどの事でもないだろう、余計な事は言うな」
色恋の揉め事を相談するなど恥ずかしいことこの上ない。
今までもこんな騒ぎは何度かあったが、ある一例を除いて、ほとんど自分で解決してきた。
「もし、俺がいない時にあの女が押し掛けてきたら、後で兄がご自宅に窺いますと言って追い返せ。騒ぐようなら、忠五郎の旦那を呼んでもらえ、『危ない物』振り回すようなら、無理をしないでお前は逃げろ、いいな?」
「わかりました、あたしも女絡みで命落としたくないもの。危ない時はさっさと逃げさせてもらいます」
そう言い置き、意味深な微笑みを残して彼女は部屋を出ていく。
残り少なくなった茶を飲み干して出掛ける支度をするべく立ち上がり、作業机に歩み寄った朱王の足元で、屑籠に放られた皺だらけの文が、カサリと乾いた音を立てた。
さて、この日から朱王は猫の写生をするために田澤屋へ通うこととなる。
雅吉の飼っている愛描は全部で三匹、全てが雄である。
野良猫ではなく大枚叩いて買い求めた、人で例えるなら『大層なお家柄』の猫達であり、たいして動物が好きではない朱王と言えども粗末に扱えない。
綺麗に手入れされ、陽光にキラキラ輝く毛並みを持つ猫達は、それぞれ白黒三毛の色柄で、瞳は全て黄金色だ。
雅吉に案内され彼の自室へ通された朱王を見て、縁側でグデン、と寝そべっていた白毛が素早くこちらへと顔を向け、床の間で毛繕いをしていた三毛は緩慢な動作で延びをする。
「雪松、三野吉、こっちにおいで。朱王先生がいらしたよ。黒瀧はどこに行ったんだろうねぇ?」
まるで遊女のような名前のついた猫達をニコニコ顔で呼び集め、白猫……雪松を抱き上げた雅吉は、朱王に座布団を勧めると、なぜかそのまま部屋を出て行ってしまう。
お前は誰だ? 人間ならばそう言いたいのだろう、怪訝そうな三野吉の視線を横から受けつつ座布団に座った朱王は、写生道具を準備しながら何気無く部屋の中に視線を走らせる。
自室、と言っても十畳ばかりはある広い部屋には男の部屋には珍しく大きな箪笥が三棹と、その隣には立派な鏡台が置かれており、小綺麗に整頓されている様は女の部屋と言っても疑う者はいないだろう。
燦々と日の降り注ぐ縁側には、猫の寝床だと思われる分厚い座布団が三枚敷かれ、その上には美しい光沢を放つ絹糸で作られた藍色の小さな毬がちょこんと鎮座している。
「―― 三食昼寝に玩具付きか……。良い所に飼われたもんだ」
ここまで動物を溺愛する者の気持ちがわからず、苦笑いを漏らした朱王は離れた場所で真一文字に寝そべる三野吉を眺める。
ここまで良い待遇がなされるのならば、一度猫に生まれてみるのも良いかもしれない。
そんな馬鹿げた事を考える朱王。
と、先ほど雅吉が出て行った襖がガラリと開け放たれ、 大きな木の盆に徳利や酒の肴を山ほど乗せた雅吉が、黒猫、そして雪松と呼ばれていた白猫を従えて、朱王の前に姿を現した。




