第三話
さて、翌日から海華は純香院の信者となり、寺へ住み込むこととなった。
勿論、桐野や修一郎には既に知らせてあり、彼女が寺にいる間に修一郎が寺社奉行に話を付けてくれる手筈となっている。
寺社奉行が首を縦に降れば、何あった場合は桐野でも都筑でも奉行所の者なら臆することなく寺へ踏み込めるのだ。
朝一番で寺へ向かった海華。
風呂敷包みを一つ携えただけの彼女を寺門の前で出迎えてくれたのは、やはりお登代だった。
「海華ちゃんなら、きっとここの良さがわかってくれると思ってたわ」
心底嬉しそうに笑いながら海華を信者が寝起きする居室へと案内するお登代。
今しがた、恋幸に挨拶を終えた海華は今、お登代に寺の中を案内してもらっているのだ。
「ここにはね、あたし達くらいの年代が寝起きしてるのよ。それより上は、外の離れにいるわ」
「あら、そうなの。全員で何人くらいいるのかしら?」
「そうねぇ、三十人と少し、くらいかな。この頃は毎日一人や二人信者さんが増えるから、わからなくなっちゃった」
パタパタと小気味良い音を立てて廊下を行くお登代の後ろ姿を眺めながら、海華は自分達の隣を通り過ぎていく信者達へチラリと視線を投げる。
年の頃、十代から五十は過ぎているだろうと思われる年増まで、様々な年代の女達が共に寝起きしているこの建物には、海華が普段嗅ぐことのない化粧や匂袋、そして線香の臭いが入り交じった、甘いような抹香臭いような、なんとも形容しがたい匂いで溢れている。
「海華ちゃんは幸せよ? こうやって、恋幸様のお側で過ごせるんだから。ここはね、外の世界とは違うの。余計な事はなんにも考えないで、ただ恋幸様に従っていればいいのよ」
海華に背を向けたまま、お登代が抑揚のない声で言う。
彼女の言葉を聞きながら、海華は無意識に小首を傾げた。
男である恋幸さえいなければ、完全なる女の園だろう。
しかし、その『女の園』も恋幸がいなければ成立しない、それもまた確かだ。
意地悪な舅姑や手のかかる夫、煩わしい近所付き合い……。
その全てから解放されるのだとしたら、『貴女はよくやっている』そんな労りの言葉を見目麗しい男から始終掛けられて過ごせるのだとしたら……。
まさに、ここは極楽だ。
「そう、ね……。あたし、ここで上手くやっていけるかしら?」
お登代の言葉に何か引っ掛かるものを感じて、思わずそうこぼす海華。
するとお登代はクルリと踵を返し、真っ直ぐに海華を見詰めて唇を笑みの形に歪めた。
「大丈夫よ。そんな心配しなくていいのよ。 海華ちゃんは、何も難しく考える事ないの。恋幸様のお言葉だけを聞いていればいいの」
『次はお台所を案内するわ』そう言いながら、お登代は再び海華に背を向け先を行ってしまう。
あえて口を返さぬまま、海華は彼女の後に従い先を急いだ。
海華が寺で生活を始めてから、早くも十日以上が過ぎようとしていた。
毎朝日の出る前に起床し、掃除に洗濯掃除、そして全員揃って朝のお勤め……つまりお経を読む、それが日々繰り返されるだけ。
なんとも単調な日々が過ぎていく。
お登代以下、同じ年代の女達との共同生活に最初は気持ちが落ち着かなかった海華だが、恋幸は勿論、信者の女達はみな親切に接してくれ、生活にはなんの不自由もしなかった。
だが、海華がここに来たのは男がいない生活を満喫するためではない。
怪しまれぬように恋幸の言動を監視し、信者らの同行も、それとはなく観察していた。
しかし、恋幸にも信者にも怪しいところは何一つ見付からない。
それどころか先日お登代が話していたように、ほぼ毎日信者が増えていく始末だ。
このまま何も掴めぬままでは帰るに帰れない。
さすがに焦り始めた海華だったが、ここで下手に動いて馬脚を現す訳にもいかなかった。
これからどうしよう、そんな思いを胸の中に溜め込んだまま、盥に山となった洗濯物を抱えて寺の裏手にある井戸へ向かう、いつも炊事や洗濯は当番制であり、二、三人が共同で行っている。
重い盥を抱えてよろめきながら井戸端へ着いてみたが、なぜだろう、自分と同じ当番の人間が誰一人として来ていないのだ。
「やだ、あたしだけ? 」
仕事を押し付けられた、そう憤慨しながら盥を井戸端へ放るように置くと、何やら廊下の奥からバタバタ慌ただしい足音が響き、お登代と同室の女が慌てた様子で姿を現した。
「海華ちゃん、やっぱりここだったのね」
「お登代さん! ねぇ聞いてよ、お咲さんったらね……」
「違うのよ海華ちゃん、お咲さんはいないの。なんだか身体の具合が悪くてね、別のところで休んでるわ。だから、今日はお牧ちゃんとお願い」
不満を露に眉根を寄せてお登代に文句を言いかけた海華は、彼女の口から飛び出た台詞にキョトンと目を瞬かせる。
同室のお咲は昨夜までケロリとしており、具合が悪そうな様子は微塵もなかったのだ。
「お咲さん……大丈夫なの? そんな急に体調崩すなんて」
「平気よ。今はぐっすり寝てるから。何も心配しないで。それじゃぁお牧ちゃん、お願いね」
隣に立つ若い娘の肩をポンと叩き、お登代はその場を後にする。
釈然としない表情を見せる海華は、お登代の姿が見えなくなるまでずっと、その背中を目で追い続けていた。
「……それで、その寝込んだ女にはその後会ってないのか?」
寺の北側、ちょうど厠のある辺りからくぐもった男の声が響く。
渡り廊下の先にある厠、携えた蝋燭の灯りに浮かぶ海華は、固い表情のままコクリと一度頷いた。
「ええ、一度も会ってないわ。他の人にもそれとなく聞いてみたけど、誰も見ていないって。食事もお登代さんが運んでるみたいなの。 ―― 確証はないけれど、なんだかおかしいのよ、志狼さん」
ふぅ、と小さな溜め息をつきつつ蝋燭を厠の扉側へと差し出す海華。
ぼんやりと闇に散る橙色の光の向こうで、漆黒の人影が一つ、揺らぐ。
「おかしいついでにもう一つおかしな話をしてやるぜ。こないだ旦那様の墓参りにお供したんだ、その時に寺男から聞いたんだが、最近、妙な葬式が続いているらしいんだ」
「妙な葬式? なによ、それ」
キョトンとした面持ちで問い掛ける海華に、 闇の中から姿を現した志狼は厠の壁に凭れながら顔だけをこちらに向ける。
「なんでも、骸はみんな女だそうだ。歳は十代から五十までの間、商家の女房から水呑百姓の娘まで、身分はバラバラらしい。共通点があるとしたら……女達はみな、骸骨みてぇに痩せこけて、身体中が傷だらけだ、って事だな」
布で吊った左腕、その肘に爪を立てて、志狼が眉をひそめる。
怪訝な面持ちでもう一度小首を傾げながら、海華は志狼を見詰めた。
「痩せこけて、傷だらけ? それって折檻を受けてた、って事?」
「あぁ……だが、殴る蹴るで出来た傷ではなかったらしい。そうだな、爪でメチャクチャに引っ掻いたような傷だった、と寺男は言っていた。どうも気になって家族にも尋ねたらしいんだが、どいつもこいつもお茶を濁すか、ダンマリ決め込むだけだとさ」
『なんだか気味が悪りぃ』そう吐き捨てるように呟いて、志狼は癖のある髪をガシガシ掻きむしる。
天を流れていた厚い雲から、鏡のような満月が顔を覗かせ、真っ直ぐに伸びる白い月光が二人を照らした。
「まぁ……ここと関係あるかどうかは、まだわからねぇ。ただ、ちぃっとばかり気になってな。―― それより、お前変わりはねぇか?」
「うん、元気でやってるわ。志狼さんも変わり無さそうで良かった。旦那様も、兄様も元気?」
先ほどの難しい表情から一変、視線を交わらせる二人の顔に小さな笑みが浮かぶ。
こうして顔を合わせて会話するのは何日ぶりか。
恋幸や女達の目を盗み、夜中にこうして志狼と会う。
この胸の高鳴りは緊張のためか、はたまた志狼に会えた嬉しさからくるものか……。
「ずっと会いたかったのよ」
はにかみながら言った海華に、志狼は満更でもなさそうな表情で口許を緩め、白い歯を覗かせる。
「そりゃぁ、俺もだ。お前がいねぇと……屋敷ん中が静かすぎてよ。―― 独り寝も寂しいもんだぜ」
志狼らしからぬ台詞に、海華は思わず噴き出してしまった。
「いやぁね、もう。でも……あたしも早く帰りたいわ。こんな女ばっかりの所なんて気疲れしちゃうの。お化粧とお香の匂いで息も詰まりそう。志狼さんがいないのも、寂しいわ」
いかにも寂しげにうつ向いてしまう海華。
今すぐ彼女を連れて帰りたい、そんな衝動を必死で抑えるように右手を固く握り締めた刹那、渡り廊下の向こう側から、ヒタヒタと微かな足音が聞こえる。
二人の顔が、一瞬で引き締まった。
「じゃぁ、俺は行くぜ。海華、気を付けろよ」
「わかったわ。志狼さんもね」
互いに短く言葉を交わした次の瞬間には、既に志狼の姿は漆のような闇に同化する。
それを確認した海華は、蝋燭を持ったまま厠の戸を開け、中へとその身を滑らせた。
「海華ちゃん、今日からあたし達の部屋に移ってもらえない?」
広々とした勝手で朝餉の後片付けをしていた海華は、背後からそう声を掛けられ、真ん丸な目をパチパチ瞬かせながら後ろを振り返る。
「あたし達の部屋って……一番奥の部屋? だって、あそこはお咲さんがいるんじゃ……」
「お咲さんね、身体がなかなか良くならなくて、恋幸様が、一度実家へ帰らせたの。そのうち戻ってくると思うんだけど、それまでは海華ちゃんに来てもらいたいの。ほら、今日も新しい人が来る予定だから……部屋がね、手狭になるじゃない?」
つまりはトコロテン式に部屋を移れ、と言いたいのだ。
確かに今寝起きしている大部屋は、これ以上人は入れないし、お登代らがいる部屋は彼女を含めて三人程度しかいない。
大勢と雑魚寝するよりゆっくりできるだろう。
お咲の事は心配だが、海華にとって悪い話ではないのも確かだ。
「わかったわ、ここが終わったら荷物まとめてそっちに行くから」
「ええ、お願いね」
前掛けで手を拭きながら答える海華に、お登代は唇だけを笑みの形に変えて一度頷き、お勝手を出ていく。
ゆらゆらと、若干ふらつきながら立ち去っていく彼女の後ろ姿を眺めていた海華。
と、彼女の隣で茶碗をすすいでいた若い娘が、ニヤ、と意味ありげな笑みを浮かべてこちらを向いた。
「ねぇ海華さん、最近のお登代さん、いやにお化粧が濃いと思いません?」
「お化粧? そうかしら? 元々あんな感じじゃ……」
怪訝そうな顔を娘に向けると、娘はニヤニヤしながら首を横に振り、内緒話をするように耳許へ口を寄せてくる。
「絶対違いますよ。白粉も、紅も前より濃くなってきてますもの。それに見ました? あの目尻の皺。目の下の隈も、白粉だけじゃ隠しきれないものですね」
『まるでおばぁちゃんみたい』そう声をひそめて言った娘を前に、海華はしばし考えるように口を閉じる。
お登代は元より派手な顔立ちであり、化粧ばえはする方だ。
いつもより濃く見えるのは、化粧の仕方を変えたからかもしれない。
「お登代さんがおばぁちゃんなら、年上のあたしは姥桜よ」
「そんな事ないですよ。海華さんの方がずっと若く見えますから。―― 皺だらけの顔に白粉塗りたくって、派手な着物着て恋幸様に猫なで声出すんだから……お登代さんには呆れちゃいますよ。あ、あたしが言ったって言わないで下さいね」
パチリと片目を瞬かせた娘は、汚れた茶碗を取りにその場から離れていく。
彼女も恋幸に少なからず心を寄せているのだろう。
側付女中のように常時側にいて、かいがいしく恋幸の世話をするお登代に嫉妬しているのだろうか。
女の嫉妬はどうにもならない、と、苦笑いをこぼしつつ海華は仕事へと戻る。
そして彼女は、この日の夜からお登代ら、そしてお登代より二つばかり年下であるお牧と枕を並べる事となったのだ……。
「あぁ、今日も一日終わったわねぇ」
鏡台の前で髪を梳かしながら海華が何気無く口にする。
彼女の後ろで床の支度をしているお牧は、静かに微笑みながら頷いた。
十畳余りの室内には、鏡台の他には箪笥が二竿に枕屏風が一つ、ひび割れた壁に飾り棚が誂えてあるだけの質素な空間だ。
女達でほぼ満員、寝返りを打つのも気を使うあの大部屋から比べると、随分贅沢な空間に思える。
さぁ、後は明日に備えてしっかり休むだけ。
大きな欠伸を一つ放った海華が布団に潜り込もうとした、その時だった。
障子の向こうからパタパタと軽い足音が聞こえ、すぐに廊下と室内を隔てる障子が開けられる。
そこに立っていたのは、先ほど恋幸の所へ茶を運んでいったお登代だった。
「あ、お登代さんお疲れさま」
布団の上に座った海華はそう彼女へ声を掛け、お牧は軽く会釈する。
二人を無表情で一瞥したお登代は、海華へと顔を向け、ニコリと小さく微笑んだ。
「海華ちゃん、恋幸様がお呼びよ。今すぐ部屋に来て欲しいって」
「え、っ? あたしに? どんなご用なの?」
仕事は全て片付けた、夜になってから呼ばれる覚えはない。
一瞬不審そうな表情を作った海華に、お登代は微笑みを崩さぬまま小さく首を傾げた。
「どんなご用かはわからないわ。とにかく、すぐに来て欲しいとおっしゃってるのよ」
「そう……わかりました、すぐに着替えて……」
「着替えなんていいのよ、そのままでも大丈夫だから」
寝巻きの紐に手を掛けた瞬間掛けられたお登代の台詞に、海華は驚きを隠せないまま彼女を凝視する。 夜に、寝巻き姿で、しかも男が待つ部屋に女一人で行くなぞ考えられない。
ましてや海華は志狼という亭主がいるのだ、いくら住職とはいえ、赤の他人に寝巻き姿を見せるなんて、そんなはしたない真似はしたくなかった。
「ちょ……っと待ってよお登代さん、それはあんまり……」
「海華ちゃん、恋幸様が疚しい事をするとでも思ってるの? あたしだって、ほら、こうしてお寝巻きで行ったのよ? おかしな事は考えないで、早く行かなきゃ」
『恋幸様がすぐに、と仰ってるのよ』低く、微かにドスまで利かせた声で海華を急き立てるお登代と、それを傍観するお牧。
オロオロとその場から立ち上がった海華の背中を強引に押して、お登代は彼女を廊下へと押し出す。
よたつきながら部屋の外へ出た海華、その背中で、パシンと乾いた音を立てて障子が閉め切られた。
強引に廊下へ叩き出されてしまった海華は、このまま突っ立っていても埒があかない、と仕方なく恋幸の部屋へと向かう。
女らが寝起きする部屋から廊下を隔てて一番離れた場所にある部屋は、ちょうど敷地の一番奥にあり、人目に触れにくい場所にあるのだ。
ひんやり冷たい廊下を渡り、突き当たりを曲がってさらに進む。
ようやく見えた恋幸の部屋、閉じられた障子からは蝋燭の灯りがぼんやり透けて見えた。
志狼に申し訳無い、できるならここから逃げ出したい……。
そんな千々に乱れる気持ちをなんとか落ち着かせるように大きく深呼吸した海華は、キッと睨むような目付きで障子の、いや、その向こうにいるであろう恋幸を睨む。
「―― 失礼致します恋幸様。あの……」
「ああ、海華さんですね?」
すぐに微かにくぐもった声が返り、海華の心臓が一つ、大きな脈を打つ。
「どうぞ、お入りください」
いつもと変わらぬ穏やかな声色。
覚悟を決め、ソロソロと商事を開けた海華の鼻先を、甘い匂いが掠めていく。
それは前月、街中で志狼が感じた匂いと同じだった。
「夜分にお呼び立てして申し訳ありません。 どうぞ、こちらに」
いつもの袈裟姿から薄い藍色の着流しに着替えた恋幸は、いつもと変わらぬ慈愛を含ませた笑みで海華を出迎える。
言われるがままに彼の正面へと正座した海華は、どこか落ち着きがない様子で寝巻きの襟元を指先でいじくった。
「もしかして、もうお休みでしたか?」
「いえ、まだ……。それより、私に用事というのは……?」
とにかく早くここから出たい、そんな思いが頭の中に充満している海華は、ろくに恋幸と目も合わせられない。
そんな彼女ににこやかな笑みを絶やさぬまま、彼女を覗き込むように上体をわずかに倒した。
「いえ、急ぎの用ではないのです。ただ、貴女がここへ来られてから、何か不自由されていることはないかと思いましてね。どうですか、皆さんは良くして下さいますか?」
ここでの暮らしはどうか、困っている事など無いか、そう恋幸は細かく……いや、丁寧に訊ねて来る。
不自由している事など何もない、そう愛想笑いを作り答える海華、そんな彼女の思考へ徐々に薄い靄がかかり出す。
眠いのではない、ただ、目の前がボンヤリ霞み、恋幸の声が頭の中で何重にも反響するようだ。
一体どうしたのだろう? そう不思議に思いながら、両目を擦り意識を保とうと懸命に目を瞬かせる。
と、彼女の前で恋幸はおもむろにその場から立ち上がり、枕屏風の陰へ屈み込む。
彼が再び戻ってきた時、その手には小さな煙草盆があった。
「恋、幸……さま? それは……」
「これですか? これは……『幸せになれる秘薬』です」
ニコリと笑った恋幸は、煙草盆の中にある小さな壺から何かを摘まみ出し、煙管に詰めるとそのまま先端を火種に翳す。
ジリリ……と、油が焦げるような音と共に、鼻をつく苦い臭いが辺りに漂った。
吸い口を口に含み、深々と息を吸い込んだ恋幸の頬が見るまに上気していく。
桜色に染まる頬、ゆっくりと開かれた円らな瞳は煮詰めた蜜のようにトロリと蕩け、赤い唇から細く吐き出される白煙は、あっと言う間に空気に溶ける。
自身の前で僧侶が旨そうに煙草を吸う姿を、海華は夢を見るような眼差しで見詰めていた。
揺らぐ思考の中で、恋幸の『幸せになれる秘薬』という台詞だけが何度も何度も再生される。
「―― これはね、海華さん。つらい事や苦しい事、嫌な事全てを忘れられる薬です。私が御仏から授かった、特別な薬なのですよ」
「……仏、さま、から?」
まるで妖術にでも掛かったかのように、虚ろな瞳のままで海華が問う。
男とは思えぬ妖艶な笑みを浮かべて、恋幸が頷いた。
「そうです。全て御仏から賜った物です。 ……海華さん、私も貴女も、ここにいる方々は皆、仏様に選ばれたのです。特別な存在……いえ、至高の存在とも言えるでしょう」
一度言葉を切り、また深く煙を吸い込んだ恋幸。
神に選ばれた者、特別な存在……。
普段聞き慣れない、そして考えた事もない台詞が頭に染み込んでいく。
「私達は凡人とは違う。亭主や、姑や、他の俗物共とは根本的なものが違うのです。
何にも押さえ付けられる必要はない、我慢する必要はない、貴女は、ここで真の自由を手に入れられるのです」
―― 私の元で、この薬を使って、人として女としての喜びと、自由を手に入れなさい…… ――
白煙の向こうに揺れる恋幸の顔は、いつもと同じ慈愛に満ちていて……。
夢現の間をさ迷う海華が恋幸の部屋を出たのは、月が西に傾き掛けた頃だった。




