第二話
海華が純香院へ行ってから、はや十日あまりが過ぎた。
ほぼ毎日のように長屋へ向かい、朱王の世話をやいていた海華。
もう一度お登代から誘われたらどうしよう、と半ばドキドキしながら通っていたが、あの日から彼女が姿を現すことはなかった。
移り気な彼女のことだ、また違う誰かに声をかけたのだろう、とあまり気にもせず……というより、海華はすっかり寺の事を忘れていた。
そんな時、海華は思いもよらぬ場所で彼女の名前を耳にする。
それは、屋敷での夕餉が終わり、お膳を片付けている最中の事だった。
「海華、海華少しよいか?」
「はい、なんでしょう?」
お膳を手に持ち部屋を出ていこうとする彼女を、一足先に食事を終えて茶を啜っていた桐野が呼び止める。
お膳を志狼に渡して、彼女は桐野の前に正座した。
「海華、お前先日、純香寺とか言う寺へまいったそうだが、間違いはないか?」
「はい、間違いございません」
「そうか、その時、共に行った女の事だが……お登代と言う女で間違いないか?」
胸の前はで軽く腕を組み、こちらを覗き込むようにやや身体を前方に傾ける桐野から告げられたお登代の名前に、海華は驚きを隠せない様子で目を真ん丸に見開く。
「は、い……はい、そうです。お登代さんです。―― あの、旦那様、申し訳ありません。 私勝手に妙な場所へ……」
オロオロ狼狽え始める彼女を安心させるように微笑み、桐野は軽く首を振った。
「違う違う、儂はお前を咎めるつもりはない。ただ、そのお登代と言う女と寺の事を聞かせて欲しいのだ」
「お登代さんの、事ですか? 」
彼女に何かあったのだろうか? いや、何かをしたのかもしれない。
どこから何を話せばいいか迷う様子をみせる海華、そんな彼女の横に、お膳を下げて戻ってきたばかりの志狼が素早く座った。
「旦那様、差し支えなければ私にも……」
「うむ、よかろう。実は、海華が行った純香院の事で何軒か届けが出ていてな。女房や娘が突然出家すると言い出して、寺へ行ったまま帰ってこないと。それ以外にも家族が浄財と称して多額の寄付を支払っていたとの訴えもある」
桐野の台詞に、幾度か目を瞬かせた海華。
家族を放り出して出家するなど彼女には考えられないが、あの寺にそれほどの価値があるとも思えない。
「出家とか、浄財の話しは存じません。旦那様、それとお登代さんとは、どんな関係が?」
「そのお登代も、寺へ入り浸ったまま帰ってこぬらしい。なんでも、住職の側付き女中のような真似をしているとか……」
顎の先を擦りながら桐野が言った、その言葉 に海華は驚きのあまりあんぐりと口を開けてしまう。
あの気の強いお登代が、かいがいしく坊主の世話を焼いているなど考えられない。
彼女が婚家を出されたのは、気の強さゆえ、姑や亭主と喧嘩が絶えず亭主の世話もろくすっぽせずに遊び歩いていたからだ。
「あのお登代さんが……まぁ、確かにあのお坊様は綺麗なお顔でしたから、お登代さんがよろめくのもわかる気がします」
独り言のように呟いた海華の言葉に、桐野と志狼は互いに視線を交わらせた。
「その坊主ってなぁ、そんなに色男なのか?」
「そうねぇ、兄様よりは劣るかしら」
サラリと言ってのける海華に、思わず桐野はプッと噴き出す。
「まぁ、朱王より男前はなかなかお目にかかれまい。いずれにしても海華、お登代がまたお前に接触してくるかもしれぬ。その時は……」
「必ず旦那様に御知らせ致します」
そう約束して、海華は深く頭を下げる。
桐野が気に掛けていた、海華に対するお登代の接触。
それは以外にも早く訪れたのだった。
「さてと……あとは何を買えばいいかしら?」
大きな風呂敷包みを一つ抱えた海華は、よろめきながらも隣にいる志狼へ顔を向ける。
中身は干し椎茸だの干瓢だのの乾物で、重さ的には大したことはないのだが なにぶん嵩張るのもばかり。
まるで蟻が大きな餌を運んでいるようにも見える。
「そうだなぁ。客用の茶が切れかかってるから、それでも見ていくか。―― おい、それ持ってやるからこっちによこせ」
「これ? いいわよいいわよ。そんなに重たくないし……あぁ! 大丈夫だってば!」
遠慮する彼女から半ば無理矢理風呂敷包みを取り上げ、右腕一本で持ち上げる。
左腕が利かない彼を案じて、重い物以外は海華が持つ事にしているのだが……。
「いいって。女房に物持たせて亭主が手ぶら、なんてみっともねぇだろ?」
いかにも軽そうに包みを前後に振って歩く志狼に、『ありがとう』と一言言って海華が微笑む。
「お仙さんとこの子供、可愛いかったわねぇ」
「あぁ、ついこの間までは、おしめ着けてピィピィ泣いてたってのによ。子供がでかくなるのは早ぇえもんだな」
そんな会話を笑顔で交わしつつ寄り添い歩く志狼と海華。
二人が密かに楽しみにしている買い出しの時間、連れ立って街を歩く時間がなかなかとれない二人にとっては気分転換代わりにもなる。
しかし、そんな貴重な時を邪魔する不届き物が道の向こうからやって来るなど、今の海華達は知るよしもなかった。
「あら! 海華ちゃんじゃないの!」
聞き覚えのあるキンキラ声が鼓膜に刺さり、無意識に海華は身を跳ねさせる。
道を行く人波を縫うようにこちらへとやって来たのは、薄浅葱の着物を纏い、濃い化粧を施したお登代だった。
「お久し振りね海華ちゃん、こんなところで会うなんて奇遇だわ。あら、そちらは旦那様?」
キャァキャアやたらと甲高い声で喋り始める彼女に、海華は若干戸惑いながら頷く。
『ウチのがいつもお世話に……』そう形ばかりの挨拶をした志狼へ、彼女は色気たっぷりの笑顔で、ペコリと頭を下げた。
「素敵な旦那様ねぇ。あたしの前の宿六とは大違いだわ」
「そ、う? ありがとう……。ねぇお登代さん、噂で聞いたんだけど、貴女あのお寺に出家したんだって?」
恐る恐るといった様子で尋ねる海華に、お登代はアッサリと首を縦に振る。
「そうよ。あたし今は家を出て、恋幸様のところにいるの。他にも一緒に出家した女もいてね。毎日恋幸様から有り難いお話を聞いてお経を上げて……楽しいのよ、本当に。 あたし、こんなに楽しくて幸せなのは初めて」
大きな目を更に輝かせ、熱っぽくお登代は語る。
力が入りすぎているのだろうか、固く握った手や身体は小刻みに震えていた。
「海華ちゃん、貴女もまたいらっしゃいよ。 恋幸様も会いたがってたわ。よかったらこれから……」
「せっかくだが、俺達はこれから寄らなきゃならねぇ所があるので。おい海華、行くぞ」
「え? あ、ちょっ待って! ごめんねお登代さん、また今度……」
無表情のままでお登代にそう言い放った志狼は、海華の身体を押すようにしてズンズン先に進んでしまう。
呆気に取られたように口を半開きにし、二人を見送るお登代。
彼女の姿が人の波に消されたのを確かめるように背後を見た志狼は、そこでやっと海華の手を離した。
「おい、もうあの女に関わるな」
「どうして? 」
ひどく不機嫌そうに眉を寄せる志狼に戸惑いつつ、海華は彼の手を軽く引いて道の傍らで足を止める。 ちら、と辺りに一度視線を巡らせた彼は、苛立ちを露にしながら海華を真っ直ぐに見据えた。
「なんだかおかしいぜ、あの女。山犬みてぇに目の玉ギラギラさせてよ。それに、なんだあの甘ったるい臭いは。白粉か?」
鼻の下を人差し指で擦りつつ、志狼は眉間に深いシワを刻む。
確かに、お登代の着物からは強い香のような匂いがしたのだ。
「わからない、わ……。お登代さん、結構な厚化粧だったから。もしかしたら白粉かもね」
「とにかく、だ。もうあの女には近付くな。寺にも行くなよ。いいな? さっきの事は、俺から旦那様に話しておく」
「はい……」
おずおずと頷く海華に『よし』と一言。
左腕が使えたならば肩の一つも叩きたい志狼だが、今はそうもいかず、代わりに厳しかった表 情をわずかに緩めて彼女を見下ろす。
「せっかくだから、茶を買ってから朱王さんの所に寄ってくか?」
「え? いいの?」
子供のように目をクリクリ動かして、海華が小首を傾げる。
「ああ、様子見ついでに少し休ませてもらおうぜ。日が落ちないうちに、急ごう」
「うん! 志狼さんありがとう!」
先ほどまでの躊躇いはどこへやら、満面の笑みを弾かせた海華は、風呂敷を下げる志狼の腕に己が腕を絡ませる。
夫婦と言うより恋人同士、そんな風に道を行く二人。
その背後から突き刺すような視線が複数向けられているのを、彼らは全く気が付いていなかった。
純香院の噂はその後江戸市中を瞬く間に駆け巡る。
信者は女のみ、男子禁制の特異な寺には見目麗しい住職が一人とそば付きの信者が十数人住み込み、朝に夕にと経を読み上げ修行に励んでいるという。
信者らの熱心な勧誘のお陰で更に信者が、そして浄財と称しての金がぞくぞくと寺に集まってくる。
自分の娘が、隣の女房が、そして知人の叔母や年老いた母親が……まるで蝋燭の火に吸い寄せられるように、純香院の門を潜っていくのだ。
勿論、自分の女房や娘を取られた男らが黙っている訳はない。
ある者はお上に訴え、ある者は他の男たちと徒党を組んで寺へと押し掛けた。
しかし、奉行所は『寺院の問題は寺社奉行管轄だ』として訴えをあっさりと門前払いし、寺へ押し掛けた男達は『寺男』と称する破落戸共に手酷く殴られ蹴飛ばされ、命からがら逃げ帰る始末だ。
そんな事をしている間にも、寺は集められた金を湯水の如く使って改修され、みるみる元の豪奢な姿を取り戻していく。
瓦版に連日のように取り上げられるこの一件は、それは妙な形となって朱王へ降りかかって来たのだ。
「だからさぁ、ちょっとばかりお奉行様に口添えしてくれないかいって、皆がこうして頼んでるんじゃないか」
細い目を更に細くしたお石が、口を尖らせて朱王へと迫る。
この日、朱王の部屋には中西長屋の住人や、その周囲にある長屋の者らが大挙して押し寄せていたのだ。
「おねげぇしますだ朱王様、このとおりだ、うちの孫を取り戻して下せぇ」
しわくちゃな顔を更にしわだらけに変えた老爺が両目を合わせて必死に朱王を拝む。
その横では、畳に伏して泣きじゃくる中年女とその亭主が、娘を助けてくれと悲鳴にも似た叫びを上げた。
「いや、皆さん……何か勘違いしているのでは? 私はただの人形師でして、お奉行様とは何も……」
頭を抱えたくなるのを堪え、どうにかしてお帰り願えれば、と説得を試みる朱王。
しかしそんな彼へ、土間に立っていた十五、六程の娘が責めるような眼差しを向けた。
「だって! 朱王様はお奉行様の奥方様と懇意になさっているのでしょう!? お石さんから全部聞いています、だから皆、ここに来たんです! 奥方様にお話だけでも……お願いします! おっかさんと姉さんを連れ戻したいんです!」
顔を真っ赤に染め上げ、そう絶叫した娘は感極まったのか、そのまま土間にへたり込みワンワン泣きじゃくる。
その時、朱王の正面に座っていたお石が、力一杯畳を平手で叩き、その場に仁王立ちとなった。
「ちょいと朱王さんっ!? 皆がここまで頼んでるってぇのに、それでもアンタは素知らぬ顔するのかい!? 」
「いえ、お石さんそういう訳では……」
「じゃあなにさ!? アンタ海華ちゃんが同じ目に遭っても、そんな涼しい顔してられるのかい!? 」
理不尽な怒りを叩き付けてくるお石と、懇願と悲しみの眼差しを浴びせてくる人々。
もう、これは何を言っても無駄だ。
そう思いながら本格的に頭を抱えた朱王は、言葉を返せぬままに首を縦に振っていた。
「それじゃぁなに? 何とかするって約束しちゃったの?」
若干呆れたような声色で、海華が言った。
「しかたないだろう? 『わかった』と言わなきゃ、今ごろ俺はここで吊し上げだ」
グッタリと壁に寄り掛かり、海華のいれた茶を啜る朱王が顔に垂れた髪を掻き上げる。
夕飯の支度に訪れた海華と志狼が、疲労困憊した朱王から事の次第を聞いたのは、ついさっきの事だった。
「取り合えず、雪乃様にお口添えはしてみると……。だが、あまり期待はしないでくれとも言っておいたよ」
「きっとお石さん、『期待はしないでくれ』って所はキレイに忘れてるわよ。周りにいた人達もそうね。今、志狼さんが旦那様の所に走っているから……時期に修一郎様のお耳にも入るわ」
「そうだろうな。また修一郎様にご迷惑をかけちまう。―― 全く、とんでもないモンに巻き込まれたもんだ……」
ぶつくさと文句を言いながら湯飲みの茶を飲み干す朱王。
その翌日、朱王と海華、そして志狼の姿は純香院の門前にあった。
先日まで、そこには朽ちかけた寺門があった。
しかし今はどうだろう、修繕された、というより建て直されたという方が正しいくらい綺麗に直され、埃だらけで汚いことこの上なかった寺そのものも、壊れた箇所は大工の手によって直され、信者達の手でピカピカに磨き上げられている。
普段なら、寺へ向かう信者らで賑やかだろう寺門の前も、今は寺とは無関係の通行人が数人と、朱王らの姿しかなかった。
「それじゃぁ、行ってくるわね」
朱王と志狼を交互に見遣って、海華はニコリと微笑む。
「何かあったら、すぐ逃げてくるんだぞ」
心配そうな眼差しで海華にそう言った朱王、その傍らに立つ志狼も、いささか緊張した面持ちで彼女の肩にそっと手を乗せた。
「俺も、出来る限り『上で』見張れるようにする。お前一人で行かせたくはねぇが……すまん」
「いいのよ、志狼さんのせいじゃないんだから。あたしの事なら大丈夫だから。じゃあね」
ヒラリヒラリと手を振って、海華は軽やかな足取りで寺門の中へと走り、そして消えていく。
彼女の姿が完全に見えなくなったのを確かめて、二人は素早くその場を後にする。
出来るだけ、寺の者らに自分達の姿を見せたくなかったのである。
「―― あの寺へ行くと言ったのは、海華か?」
志狼にしか聞こえない小声で朱王が問う。
「うん……海華から、って訳じゃねぇ、その……最初は、俺が行くはずだったんだ」
ぼそぼそと言い難そうに言葉を濁す志狼は、大通りから少し離れた脇道へと方向を変える。
彼の後について道を変えた朱王は、道の両脇に立つ木塀へ凭れ掛かった。
「お前が行く筈だった、とは?」
「俺がまた、『鼠』になるはずだった。でも……」
「海華が、自分が行くと言ったんだな?」
はぁ、と盛大なため息を付いて、朱王は片手で自分の顔を覆う。
「ま、あいつならそう言うだろうな。お前が止めても俺が止めても無駄だったろう。それに……桐野様に口添えを頼んだのは俺だからな。責任は、こっちにもある」
志狼ばかりを責められはしない。
それは朱王にも十分わかっていた。
「すまねぇ……。あいつ、恋幸とも一度会っているし、寺の中には顔見知りも何人かいるら大丈夫だ、って。桐野様も、何度か止めたんだ」
これまでだって、何度も彼女を危ない目に遇わせている。
これ以上危険な場所へ送り込むなどできない、と桐野は海華へ言って聞かせたのだが、彼女は行く、と言って聞かなかった。
「今日は、一先ず恋幸に入信させてくれと頼むだけにしろと言っておいた。頃合いを見て寺へ住み込む手筈だ」
「わかった。海華が戻ったら、一度長屋に来てくれ。俺も中の詳しい話を聞きたい」
「勿論だ。必ず行く」
三角巾で吊り上げた左腕を撫でながら、志狼が大きく頷く。
その日、寺から戻った海華が志狼と共に長屋を訪れたのは、とっぷりと日の暮れた頃となった。
「あー、もう疲れたわぁ。今日からここに来いって、煩くて。帰るにも一苦労よ」
眉間にしわを寄せた海華は片手でトントンと己の肩を叩く。
彼女を労るように、志狼は湯気の立つ熱い茶を目の前に置いた。
「お疲れさん、それだけ引き留められたってこたぁ、無事に中へ潜り込めそうだな?」
本当ならそんな事をさせたくはない、そんな朱王と志狼の思いをよそに、事は順調に運んでいるようだ。
「お登代さんの口利きもあってね。あたしも前に住職とは会っているし、出家したいって言ったら、ぜひいらっしゃい、って」
入信するのは呆れるほどに簡単だった。
ここは、迷える女性の駆け込み寺、どんな方でも大歓迎です。
そう言って恋幸は、女の心を蕩けさせる微笑みを向けたのだ。
「まぁ……上手く行っているようだが……。 お前、これから気を付けろよ? 何があるか わからないからな」
志狼のいれた茶を啜りながら朱王が呟く。
心配だ、と露骨に顔には出さないが、彼の気持ちは海華にだってよくわかっていた。
「大丈夫よ兄様。旦那様も志狼さんもいてくれるんだから。もし、何かあったら……兄様も助けてくれる?」
上目遣いでこちらを見上げてくる海華に思わず苦笑し、朱王は黙ったまま頷く。
その翌日、彼女は身の回りの物、それも最低限の荷物だけを持って純香院へと向かったのだ。




