第一話
麗らかな春の陽射しに照らされて、桜の枝に止まった雀が微睡むように薄い瞼を閉じる。
白く輝く花弁に埋もれるその様は、まるで上等な絹布団に包まれているようだ。
風に連れられ空に舞い上がる薄絹の花弁はユラリ揺られて舞い上がり、優雅な旅の果てに中西長屋で掃き掃除に精を出す海華の髪飾りに変わった。
毎朝、朱王の朝餉の支度や身の回りの世話に通っている海華、今日は朱王が朝から得意先に出掛けると聞いており、また、桐野も休みであるため屋敷の事は志狼に任せ、溜まりに溜まった洗濯物や部屋の掃除をするために、一日ここに留まる事にしたのだ。
人形作りの腕は天下一品だが、家事全般はからっきし駄目な朱王である。
部屋の前を掃くなど、この長屋に来て、そして海華が嫁いでからも一度もしたことがないのだ。
ヒラヒラと舞い落ちる桜の花弁を箒で掃き集め、暖かい陽光に上機嫌で鼻唄を歌い掃除に勤しむ海華、彼女が背にしていた部屋の戸口がガラリと開き、薄い藍色の着流しに身を包み、手には四角い風呂敷包みを持った朱王が姿を現した。
「じゃあ、行ってくる。後は頼んだぞ」
「わかりました。お夕飯の支度はしておきますから。気を付けて行ってきてね」
箒を動かす手を止めて朱王へと振り向いた海華は、ニコリと微笑み長屋門まで彼を見送りに出る。
『行ってらっしゃい』そんな一言と共に彼を送り出そうとした、その時だった。
「あ、いたいた! 海華ちゃん!」
道の向こうから、いささか甲高く賑やかな女の声が響く。
二人同時に声のした方へ目をやると、中西長屋の奥に建つ、むじな長屋の方から一人の女が小走りに駆け寄ってくるのが見えた。
「あら、お登代さん」
「お早う海華ちゃん、久し振りねぇ。朱王さんもお早うございますぅ。こんな早くからお仕事? 相変わらずお忙しいですのねぇ」
コロコロとやかましく笑いながら満面の笑顔を向けてくる女に、朱王は『えぇ』と一言、引き攣り気味の愛想笑いで返し、慌てて海華へと向き直る。
「じゃ、行ってくるぞ」
「はいはい、行ってらっしゃい」
その場から逃げ出すが如く早足で立ち去っていく朱王の後ろ姿を海華は見送る。
二人へ親しげに声をかけてきたこの女は、この先にある甚兵衛長屋に住まうお登代だ。
年は海華より二つばかり下だが、元より彫りの深い顔と派手な出で立ちからか、二人並べば海華の方が年下に見える。
山吹色の、これまた派手な着物を纏った彼女は、一度嫁いだものの先日実家に帰ってきた……いや、この派手で気が強く男好きな性格のために『返された』のだ。
つまりは出戻りである。
このお登代、実は以前から朱王に何かとちょっかいをかけており、それは海華が嫁いだ後も続いていたようだ。
海華とも特別親しい仲ではなく、会えば挨拶し、差し障りのない会話を交わす程度の付き合いだった。
「海華ちゃんも大変ねぇ、お嫁に行ったのに、毎日朱王さんのお世話に通うなんてさ」
「仕方がないわ、兄様ったら家事はからきし駄目なんだから」
『あたしが代わりにやってあげようか?』笑いながらそう嘯く彼女に軽い微笑みで交わした海華は、お登代の顔を見て何か気付いたのか、小さく小首を傾げた。
「お登代さん、何かいい事でもあったの?」
「どうして?」
「何だか凄く楽しそうに見えるから」
海華の問いに、顔一杯ににこやかな笑みを作り出したお登代は、くねくねと身をくねらせながら口許を両手で覆った。
「あら、わかっちゃった?、 あたしねぇ、今、凄く楽しい会合に参加してるの。とっても素敵なお坊様が日頃の悩みを聞いてくれてね、 有難いお話もしてくださるのよ」
『お坊様』『有難いお話』そんな台詞がお登代の口から出たことに、海華は内心驚いた。
以前は、神も仏もありゃしない、神仏を拝むなど馬鹿馬鹿しいと、彼女は大っぴらに口にしていたからである。
離縁されたのがよほど堪えたのだろうか、人は変われば変わるものだ、と変な感心をしている海華へ、お登代はポン! と一つ手を打ってみせた。
「そうだ、よかったら海華ちゃんも来ない? ちょうどこれから行くところなのよ。お坊様にはあたしが紹介してあげるからさ」
「でも……あたし、お掃除がまだ……」
「掃除なんてしなくても死にゃぁしないわよ! それに、夕方までには帰れるんだから。 ねぇ、行きましょうよ。絶対気に入ると思うわ」
海華の袖を強く引き、興奮気味に行こうと何度も誘うお登代。
ここまで熱心に誘われると、なんだか断り難くなってしまう。
僧侶の有難いお話……つまりは説教を聞く集まり、怪しいものではないのだろう。
これも近所付き合いの一貫だ、と海華は渋々ながら首を縦に振る。
お登代に連れられた海華が町外れにある古びた寺の崩れ掛けた門の前に立ったのは、太陽が頭上高く昇った頃の事だった。
「―― ここって、今は誰もいないはずじゃぁ……」
半分朽ち果てた寺門の前に立った海華が、不振そうな面持ちで首を傾げる。
ひび割れて灰色に変色した土壁、青々した蔦やまるで縄張りを主張するかのようにボウボウと生えた雑草、あちこち崩れた瓦屋根、蜘蛛の楽園と化し、埃を纏った蜘蛛の巣が天蓋となった渡り廊下……。
とても人が住んでいるとは、そして手入れされているとは思えない荒れ寺。
しかし、その門の傍らには真新しい木の板が打ち付けられ、そこには『純香院』と太い墨字で 記されている。
海華が知る限り、この寺は純香院などと言う名前ではなかったし、遥か以前に打ち捨てられたまま廃寺となっているはずだ。
「お登代さん、本当にここなの?」
「そうよ。恋幸様がいらっしゃったのは半年くらいだったかしら、京からいらした徳の高いお坊様なの」
まるで想い人にでも会うように、ひどく幸せな面持ちで語るお登代に、海華は思わず苦笑い。
よくよく見れば、十代前半のまだ幼さが残る娘から、雪のような白髪を結い上げ、ほぼ直角に腰が曲がってしまった老婆まで様々な年代の女達が崩れかけた門の中へ吸い込まれていく。
彼女達は皆、お登代が言う恋幸の『有難い御説教』を聞きにきたのだろう。
海華が目にしただけで、ざっと十人以上はいるだろう。
半年そこそこでそれなりの数の信者を集めたのだから、言葉は悪いがなかなかの『やり手』 だ。
お登代に背中を押されるように寺の中へと入り、志狼が見たら怒り狂いそうな程に埃の溜まった長い廊下を歩き、三十畳程の広間へとやって来た海華は、そこにひしめくように座る女達の姿に目を丸くした。
「ここの人、全員信者さん?」
「そうよ。普段はもう少しくるんだけど、まぁこんなものよね。さ、そこに座って座って」
彼女に促され、すぐそばに敷かれた座布団に座わると、正面に大きな仏像が安置されているのが目に飛び込んでくる。
以前からここにあっただろう仏像、それだけは綺麗に磨き上げられている。
普通なら本堂にあるはずのご本尊を、なぜこんな所に持ってきたのだろうか? そんな疑問を持ちながらも、とてもそれを口に出来る雰囲気ではない。
広間の中は、女達の一種異様な熱気に満ち満ちているのだ。
付き合いとはいえ、妙な所に来てしまった。
内心、ついてきた事を後悔しながらじっと己の膝を見つめる海華。
やがて、騒がしかった周囲がより騒がしくなる。
『いらっしゃったわ!』興奮気味に頬を赤らめて海華の膝を叩くお登代、彼女の視線の先に目をやれば、奥にある襖がスルスルと開き、薄暗いそこから一つの影が浮かび上がる。
『恋幸様!』と圧し殺した、しかし黄色い悲鳴があちこちから上がる。
ゆっくりと、畳の上を滑るように歩いてきた影は、漆黒の袈裟を纏い、片手に長い数珠を下げた一人の僧侶だった。
袈裟に映える白雪の肌、黒曜石をはめ込んだが如き大きく円らな瞳は、どこか憂いを帯びた光を宿し、薄く形のよい唇は匂いたつ妖花のように紅い。
もしも髪を結い上げて流行りの着物を着せたなら、道行く誰もが振り向く美男子だろう。
お登代の目的は有難い御説教などではなく、この僧侶だ、とすぐにわかった。
いや、ここに集まる女達の殆どが、彼目的なのだろう。
四方八方から注がれる熱っぽい視線を一身に浴びた僧侶、恋幸は、皆の前でピタリと足を止めて合掌し、静かに一礼する。
それにつられるように女達の頭も一斉に下がり、海華も慌てて畳に額を擦り付けた。
「本日も……お忙しい中、お集まり頂き誠にありがとうございます」
熱を帯びた空気を揺らす、琴の音に似た声色。
先ほどの喧騒が嘘のように静まり返る室内をゆったりと見渡した恋幸、彼の視線がある場所で止まり、澄み切った瞳が何度か瞬く。
「貴女は……今日、初めていらっしゃいましたね?」
花弁の唇が微かに動いたと同時、人形よろしく整った顔に慈愛を含ませた笑みが浮かぶ。
そこにいる全員の視線が恋幸の視線の先にいる海華へと向けられた。
「あ……はい、っ! その、こちらは初めてで……」
唐突に声を掛けられ、ひどく慌てた様子でしどろもどろに答える海華。
そんな彼女を押し退けるように身を乗り出したのは、隣に座するお登代だった。
「恋幸様、私がお誘いしたんです。海華さんって言いましてね、ほら、あの人形師の朱王さんっておりますでしょ? あの朱王さんの妹さんなんですのよ」
ここぞとばかりにベラベラと海華の事を喋りたてるお登代の袖を引きながら、自身の顔が紅潮するのを海華はハッキリ感じる。
ふと恋幸の方へ目をやれると、彼は意外そうな面持ちで海華を見詰めていた。
「そうですか、あの朱王さんの妹様ですか」
「兄のこと、ご存知なんですか?」
恋幸の反応に、今度は海華が意外そうな顔で目を瞬かせる。
そんな彼女に向かい恋幸は小さく頷いて見せた。
「はい、以前京におりました時に、お名前を。江戸で……いえ、上方でも充分通じる腕を持つ人形師だと窺っています。何度か人形も拝見させて頂きました。とてもお美しい人形だったと記憶しております」
兄の事を誉められて嬉しい気持ちがしないでもないが、どうもこの状況では嬉しいより『気不味い』が先に立ってしまう。
恋幸に向けられていた視線が一斉に自身へ向くのを感じた海華は、ありがとうございます、そう小さく口にして恥ずかしそうに顔を伏せてしまった。
そんな彼女に、恋幸は幼い子供に向けるような笑みを送り、また静かに合掌する。
「今日はお越しくださりありがとうございます。どうぞ、ごゆっくりしていって下さい」
「はい、あ……ありがとうございます」
出来ればこのまま帰りたいが、話の成り行き上そうも行かず、できる限りの愛想笑いを浮かべて前髪を弄る海華。
結局彼女がこの場から解放されたのは、申の刻(午後三時)頃の事だった。
「あぁ……もう、今日は疲れたわぁ……」
味噌汁の鍋を掻き混ぜながら、海華がガクリと肩を落とす。
つい先ほど帰宅し、湯気の立つ茶を傍らに一息ついていた朱王は、やたらと疲弊した様子の彼女を見て首を傾げた。
「どうした、お登代にあちこち引っ張り回されたのか?」
「うーん……引っ張り回された訳じゃ無いけど……実はね」
沸騰する前の鍋を火からずらして、海華は部屋に上がって朱王の前へ正座する。
そして、昼間あった出来事を全て彼へ話して聞かせたのだ。
「お前、そんな怪しい集まりに顔を出したのか?」
「だって仕方ないじゃない、あんなにしつこく誘われたら断れないわよ。どこかの誰かさんは、そそくさと逃げていっちゃうしね」
チクリと刺さる棘のような嫌味に、朱王はウッと言葉を詰まらせ視線を泳がせる。
「そう言うなよ。俺がお登代を苦手なのは知ってるだろ?」
「お登代さんだけじゃなくて、女の人全般が苦手なんでしょう? まぁ、今に始まった事じゃないけどね」
そう言いながら苦笑いを見せた海華は、締めていた前掛けを外して土間へと降りた。
「水汲んでくるわ。もう少しでお夕飯だから、待っててね」
桶を片手にぶら下げて部屋を出ていく海華。
味噌汁や煮物の匂いが充満する室内で壁に背中を預けてボンヤリと天井を見上げる朱王、その目の前で、戸口が突然ガラリと開いた。
「こんばんは、邪魔するぜ」
「あぁ、志狼さんか。どうした?」
ひょっこりと姿を現した海華の亭主に、朱王は片手を上げて答える。 小さく会釈しそれに応じた志狼は、軽い足取りで部屋へと入り、今まで海華が座っていた場所へ胡座をかいた。
「そろそろ暗くなるから、海華を迎えに行ってやれと旦那様がさ。ところで海華はどこだ?」
「水を汲みに行ってるよ。どうだ、一杯」
そう言って朱王は作業机の下から酒瓶を引っ張り出す。
飲めない海華を相手に酒を飲むのも悪くはないが、たまには共に酌み交わせる相手も欲しいものだ。
だが、志狼は小さく笑って首を振った。
「いや、悪いが、まだ仕事が残ってるんだ。また今度な」
「そうか、仕方ないな」
無理強いする訳にもいかない朱王は、あっさりと酒瓶を元の場所にしまう。
それと同時に、戸口がガタつきながら開き、 たっぷりと水が満たされた桶を下げた海華が、 よたつきながら入ってきた。
「あら、志狼さん!」
「よう、お疲れさん」
互いに同じ笑みを作り、志狼は素早く土間へ降りると、海華の手から桶を受け取る。
片手のみとはいえ、やはり力は彼に敵わないようだ。
「お優しい亭主が迎えに来てくれたぞ。ここはいいから、お前はもう帰れ」
仲睦まじく寄り添う二人に、朱王は軽く口角を上げながらも、フィと横を向いてしまう。
食事は全て出来上がっている、配膳くらい朱王にだって出来るのだ。
彼の言葉を受け、二人は互いに顔を見合わせた。
「でも、本当にいいのか?」
「あぁ。いつまでも『見せ付け』られちゃぁ、胸が一杯になるからな。飯が入らなくなったら困るだろう?」
「あら、嫌な兄様。志狼さん、帰りましょ」
ケラケラとさもおかしそうに笑いながら、海華は前掛けをさっさと外して朱王へ投げ付け、そのまま外へと出てしまう。
ヒラリと宙を舞ったそれを片手で受け止め、『気を付けてな』と志狼へ向かい声を掛けた朱王。
二人の姿が見えなくなったのを見た彼は、再び机の下から酒瓶を引き出した。
「そうかい、そりゃぁ大変だったな」
仕事の全てが終わり、自室で海華の話を酒の肴に聞いていた志狼が、苦笑いしながら薄い卵焼きを摘まむ。
その横で、湯飲みを両手で包む海華が疲れきった表情で首を振った。
「本当よ。お坊さんの長々した御説教聞くのも大変だったけど……日頃の鬱憤を全部話せ、ってのが一番困ったわ」
「いきなり言われてベラベラ話せる訳ねぇよ」
「あら、周りはそうでもなかったみたい。亭主や子供や舅姑の悪口や愚痴が出るわ出るわ。 皆、日頃から色々と溜まってるんだなぁ、って思ったわよ」
あの場で聞いたことが頭の中をよぎったのか、海華は小さく笑う。
昼間、あの寺で恋幸のやたらと長いお経と説教を聞いた後、海華達は四、五人ごとに集められ、広間とは別の部屋……本尊の裏側にある個室へと案内された。
そこは入口の障子を除いて三方を壁に囲まれた薄暗い場所で、名前もわからぬ香が焚かれ、その甘ったるい薫りに胸が一杯になったほどだ。
お登代と共にそこへ通された海華は、他の女達と茶を飲みながら他愛ない話で時間を潰していた。
やがて障子が静かに開き、先ほどと同じ袈裟懸け姿の恋幸が姿を現したのだ。
人が五人も入れば窮屈にさえ感じてしまう部屋で、恋幸は今まで感じた鬱憤や理不尽に感じたことを洗いざらいここで話せ、と言った。
どんな文句でもいい、誰に対しての悪口でもいい、やましい感情を全て仏の側で吐き出せば心が清らかに浄化されるのだ、と、彼は穏やかな笑みと共に言う。
さぁ、そこからは他者に対する悪口陰口妬みや嫉みの雨霰だ。
「皆ね、目の色変えて……主に旦那ね、悪口よ。聞いてるこっちがドキドキしちゃったわ」
「女が三人集まりゃ姦しいって言うだろ? で? その坊さんは、ただ黙って話聞いてるだけかよ?」
「うーん……すごく熱心に聞いてくれるわ、うんうん、って相槌打って、貴女は頑張っている、なにも悪くない、貴女は何も悪くない、って。とにかく持ち上げて肯定してくれるのよ」
けして否定はしないし意見もしない、勿論口を返すこともない。 ただ、話の全てを受け入れ、共感して辛抱強く聞いてくれるのだ。 女のなかには、感極まって泣き出してしまう者までいた。
「へぇ、話聞いて共感して誉めてくれるのか、そりゃ話してる方はたいして気持ちいいだろうよ。それで、お前は何を話したんだ?」
にや、と悪戯っぽい表情で口の端を上げる志狼。
湯飲みに一度口をつける海華が、困ったように眉を下げる。
「それがね、たいしたこと言えなかったのよ。あたし、今の生活に何の不満もないんだもの。―― 仕方ないから、兄様がいつまでも手がかかって困る、って話してきたわ」
赤い舌先を軽く覗かせて肩を竦める彼女を見て、思わず志狼は噴き出してしまう。
「いいな、それ。朱王さんくしゃみでもしてたんじゃないか?」
「かもしれないわね。あ、兄様には内緒よ」
「わかってるって。それよりさ、お前本当に今の生活に文句ねぇのかよ?」
手にしていた猪口と箸をお膳の上に置いて、志狼はやおらゴロリと横たわると海華の膝の上に頭を乗せる。
一瞬キョトンとした顔で彼を見下ろした海華だが、すぐに小さく微笑んで持っていた湯飲みを畳へと置いた。
「文句なんてあるわけないでしょ。旦那様は良くしてくれるし、志狼さんは優しいし。あたし、とっても幸せよ。これで不平不満なんか言ったら罰が当たるわ。それとも、志狼さんは何か不満があるの?」
「まさか、あるわけねぇだろそんなもん。俺も、幸せだ」
照れ臭そうに軽く鼻を啜り、柔らかな腿に頬を押し付けてくる志狼。
そんな彼の髪に指を通す海華の顔からも笑みが絶える事はない。
「ま、兄様だって、少しは家の事ができるようになったのよね。お茶碗の後片付けもしてくれるし、畳は掃いてくれるし。あれでも成長したわよ」
『明日は何を作ってあげようかしら』と呟く彼女に膝枕する志狼は既にうつらうつらと微睡み始め、その口から返事が返らない。
やがて静かな寝息をたて始める彼の癖のついた髪を、海華は子供でもあやすように撫で続けた。




