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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第七章 生き人形の館
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第二話

 暗い影に飲み込まれてしまったようにドンヨリと落ち込んだ様子の志狼をとりあえず自室で休ませて、海華は秋扇の所で何があったのかを朱王へ尋ねる。

最初は話すのを渋る様子だった彼だが、しつこく……いや、粘り強く問い掛ける彼女に根負けし、重い口を開き始めた。


 『自分の作品を見て欲しい』そう告げた秋扇によって朱王と志狼が連れて行かれたのは、屋敷の裏手にある蔵だった。

広い敷地内に建てられた三つの蔵のうちの一つ、風雨に曝され灰色に汚れた白壁には、縦横斜めと縦横無尽にヒビが入り、瓦は所々が欠け落ちている。


 どっしりと重厚な、しかしあちこち錆が浮く大きな南京錠を開け、分厚い扉とその中の格子戸に手をかけた途端、ギィギィと軋んだ悲鳴を上げて格子戸が開き、漆黒の闇に一筋の光の線が走った。


 「最初は何も見えなかったんだ。まぁ、灯りも無いから当たり前だな。でも……秋扇が中にあった蝋燭に火を点けて……それで初めて見えたんだ。秋扇の『作品』が」


 暖かな蝋燭の光に浮かび上がったそこは、既に現し世ではなかった。

かび、そして埃の入り交じる呼吸が苦しくなるような空気の中でひしめいていたのは、何十という人の波。

しかしそれはただの人ではなかった。

ボロ雑巾と言っても過言ではない、ズタズタに引き裂かれた経帷子きょうかたびらを纏った男女の姿だった。


 四肢を切断され、多量の血潮を撒き散らし地面を這う若い男、全身の皮を剥がれその皮を振り袖のように腕から垂らし歩く初老の女、ぎらぎら光る目玉を剥き出しにし、金棒を振り上げる赤鬼に針の山へと追い立てられる亡者の群れ、群れ、群れ……。


 年寄りから赤子まで、恐怖と痛みに顔を歪めて目を見開き、裂けんばかりに開けた口から響く絶叫までが聞こえてきそうな、そして煮えたぎる血の池地獄の熱波までもが伝わってきそうな、まさにそこは地獄そのものだった。


 「正直、怖かったよ。気持ち悪いとか驚いたとか……それ以前に、そこにいるのが怖かった。久し振りに足が竦んだんだ。きっと……志狼も同じだったろう」


 あの光景が脳裏に蘇ったのだろう、朱王は握っていた手の指を組み、ぎゅっと強く握る。

一度生唾を飲み込み、海華は言葉も出せず彼の話に聞き入った。


 「どうですか、一年と少しかけてここまで出来上がりました。『地獄百景』と名付けましてね」


 自分の足元にうずくまる全身黒焦げの人形、たぶん子供だろうそれをポンポン叩きながら、秋扇は呆然と立ち竦む朱王と志狼へ向かって白い歯を覗かせる。

地獄百景、そう言われてよくよく見れば、三途の川から始まり閻魔大王のお裁き、そして血の池地獄や針の山、猛獣たちが罪人を食い散らす野……と地獄の風景が続いている。


 「これは……見事な作品です、ね。それで……私の人形は、どこに飾るおつもりでしょう?」


 「はいはいはい、お釈迦様はこちら……百景の一番最後に飾らせて頂きます。罪深い亡者共に慈愛の手を差し伸べるお釈迦様……百景のトリを飾るに相応しい作品を造り上げられるのは、朱王先生の他にはおりません。どうぞ、依頼を受けて頂けないでしょうか?」


 先ほどの笑顔とはうって変わり、真剣な面持ちを向けた秋扇は朱王へ深々と頭を下げる。

阿鼻叫喚の世界に広がった一瞬の空白は、ひどく緊張感の漂うものだった。


 「そのように仰って頂けるのは光栄です。 しかし……なぜ私なのでしょう? 他にも、いえ、私なぞより立派な人形師はたくさんおります。なぜ、私をご指名くださったのですか? それだけお聞かせ願えませんか?」


 江戸に、そして上方に数多存在する人形師、その中から自分が選ばれた理由、それだけは知っておきたい。

その一心から尋ねた朱王。

そんな彼へ、秋扇はゆっくりと顔を上げ静かに唇を開く。


 「朱王先生を選んだ理由、ですか? それは簡単なことです。先生のお作りになる人形は……美しい。恐ろしいほど……いや、違いますな。禍々しいほど美しいのです。他の人形のような、表面だけの美しさや優美さではない」


 一度言葉を区切り、秋扇はくるりと朱王へ背中を向けて、乱れ髪を振りさばき、眼窩から垂れ落ちる目玉を手のひらに乗せ逃げる少女の滑らかな頬を一撫でした。


 「生身の傾国をそのまま人形へ変えた、と言ったらいいでしょうか。 血潮の巡る生々しさがあるのです。恐ろしく、残酷で醜い私の人形とは正反対だ。―― そんじょそこらの人形じゃぁ、この世界に飲み込まれてしまう。『憎悪と醜悪』に打ち勝つ『慈愛と美麗』、そんな人形は朱王先生にしか生み出せない。釈迦の人形がなければ、この作品は完結しないのです。 どうか、どうか依頼を受けて下さい」


 まっすぐに突き刺さる真剣な眼差し、隣にいた志狼は一言も口出しが出来ぬまま、チラチラと自分に投げられる視線が、やけに痛く感じた。


 「もう真剣そのものだ。俺も返事に困ってな。とにかく考えさせてくれ、と。また明後日伺うと伝えてきたよ」


 ふぅ、と一息吐いた朱王の視界に、天から注いだ木漏れ日が金の破片と化して新緑を彩る。

その話しを聞いていた海華が発した言葉はただ一言、『依頼、受けるの?』と、それだけだった。


 「そこまで言われちゃ断るに断れんだろう? 作るモンは別として……そんな悪人って訳じゃなさそうだしな」


 「でも、志狼さんは反対みたいよ?」


 「あいつは大袈裟なんだ。骸の一つも見たこと無い訳じゃあるまいし……。とにかく、等身大の人形なんて作った事はないからな、俺にとってもいい経験になると思う」


 今は売れっ子でも、一年、半年先はどうなっているかわからない。

この先、こんな依頼が来ないとも限らないのだ。

経験を積むには絶好の機会やもしれぬ。


 「取り敢えず、明後日までよく考えてみるさ」


 「そうね、兄様が決めた事なら、あたしは反対しないわ。反対したって、どうせ聞かないだろうしね」


 「そうだな。お前と似て、俺は頑固だ」


 悪戯っ子の笑みを見せる海華を横目で見遣って、朱王は小さな微笑みを浮かべる。

夏の爽やかな、どこか青臭い風が中庭の木々を揺らし吹き抜ける。

その風に誘われるかのように、縁側を歩く足音と微かな震動が二人の身体に伝わった。

その時、真横から延びる細い影法師と人の気配に兄妹は揃って同じ方向に顔を上げた。


 「あら、志狼さんもう起きたの? 気分はどう?」


 「あぁ……。なんとかな」


 掠れた返事と共に現れたのは、自室で休んでいた志狼だ。

射し込む陽光に眩しげに目を細める彼の顔色は未だ優れない。

気だるげに朱王の横へ胡座をかき、柱に凭れた彼のどこか眠たげな目が、朱王へと向けられた。


 「朱王さん、あの気味悪い仕事、やっぱり受けるのか?」


 「あぁ……。今も海華と話していたんだが、取り敢えず明後日まで考えてみるよ」


 「そうか。―― ところでよ、あの夏樹って野郎がどんな野郎か、朱王さんどこまで知ってんだ?」


 「どんな、と言うと?」


 「生まれはどこかとか、誰に弟子入りして、いつ頃あそこに住み着いたとか、だよ」


 ぐぅ、と大きく背伸びをしながらの言葉に朱王は思わず苦笑い。


 「見合い相手でもあるまいし、そこまで根掘り葉掘り聞くか。夏樹先生とは今日が初対面だしな。それに、他の人形師とだって生まれだ育ちだと深い事は話さん」


 「そうか……。なら、明日一日俺に時間をくれねぇか? なに、朱王さんの仕事の邪魔したり、話を潰そうって訳じゃねぇ。夏樹、先生にも迷惑は掛けねぇからさ」


 癖の付いた髪をガシガシ掻き混ぜる志狼の言葉に、朱王は一瞬不思議そうに目を瞬かせたが、すぐに首を縦に振る。

彼には彼なりに思う所があるのだろうし、ましてや自分の仕事を潰すような暴挙に出るなど考えられなかったからだ。


 「わかった。今度ばかりは、俺の仕事に志狼さんも巻き込んじまったからな」


 「すまねぇ、感謝するぜ。すまねぇついでに……海華、今夜の夕餉の支度、頼んでいいか?」


 ぐっと身を前に乗り出し、海華へ顔を向ける志狼に、彼女は笑顔で『わかったわ』と答える。

それを見届けた志狼は早速その場から立ち上がり、一度自室へ戻ると手早く出掛ける支度を整え、屋敷を後にする。

そして、彼の姿が再びこの八丁堀に現れたのは、日もとっぷり暮れた頃だった。







 「あらまぁ、随分と焼けたわねぇ」


 間延びした感嘆の声を上げながら、海華が浴衣を差し出してくる。

そこまでか? と、半信半疑な面持ちで鏡を覗いた志狼は、鏡面に映る黒々と日焼けした己の顔を見るなり、わずかに眉を(ひそ)めた。


 「元々白くはないが……これじゃ丸焼けだな」


 「すぐに皮が剥けて元通りになるわよ。それで、どうだった? 夏樹先生の事、何かわかった?」


 湯屋から帰ったばかり、洗い髪に櫛も入れぬままで海華は志狼へ身を乗り出す。

湯上がりの汗ばむ肌へ浴衣を纏い、胸元を開いて団扇で風を扇ぎ入れつつ、志狼冷たい畳へ座り込んだ。


 「まぁ、それなりにな。……と言っても、人形問屋を何件かと旦那様や都筑様方から聞き出しただけだ。何しろ、殆ど人付き合いの無い男らしい」


 部屋に溜まる熱気のためか、拭いても拭いてもジワリと滲む汗を手拭いで拭い、志狼は早速昼間聞き出した内容を語り出す。

僅かに開けた障子戸の隙間から、斑模様の羽を震わせた一匹の蛾が、行灯の光に目掛けて舞い飛んでいった。


 「あいつの本名は儀助ぎすけと言うらしい。生まれは大和やまとで、ガキの頃に両親と江戸へ下ってきたようだ。が、その両親も早いうちに死んじまって、孤児になったあいつは寺に引き取られた。 まぁ、小坊主ってぇより寺男の見習いみたいな事をやらされていたらしい」


 「ふぅん、元々江戸の人じゃぁ無いのねぇ。 でも、よくそこまでわかったじゃない? 誰から聞いたの?」


 一緒になる前、志狼から贈られた柘植櫛つげぐしで髪を梳かした海華は鏡の端に小さく映る志狼をチラと見る。

湿り気の残る髪を手拭いで拭いて、彼は少しばかり得意気に笑った。


 「あいつの身の回りの世話してる婆さんから聞いた。酔っぱらうと、よく昔の事を懐かしげに話すんだとさ。で、その婆さんの話しでは、引き取られた寺には七十を過ぎた住職と中年の寺男、それから住職の遠縁に当たる若い女がいた。その場所は、どこだと思う?」


 唐突な質問に、櫛を動かしていた手が止まる。

何度か目を瞬かせ、海華は手にしていた櫛を鏡台の引き出しへしまうと、志狼の方へ身体の向きを変えた。


 「お寺の場所なんて……そんなのわからないわ。今居る場所の近くなの?」


 「近くも近くよ。今住んでる場所の目と鼻の先だ。だがな、今その寺はねぇ。焼けちまったんだ、もう二十年以上も前の話しらしいが……」


 「焼けた!? 火事になったの? それとも……まさか、火付け?」


 サッと顔色を変え、志狼へにじり寄る海華。

そんな彼女の顔の横で囁くように、志狼は抑えた低い声を出す。


 「火の不始末か、火付けかは分からねぇ。だが、その火事で寺は丸焼け、住職と寺男、それに女も焼け死んだ。唯一生き残ったのが、儀助だ。あいつも煙を吸い込んで危ない所だったようだがな。寺が焼けてから、あいつは一度江戸を離れた。江戸に戻って、あの屋敷を借りたのは今から五年ほど前の事だ」


 『江戸を離れてからの事は誰も知らない』そう付け加え、湿る手拭いを傍らに放って、再び団扇を動かし出した志狼は開いていた胸元を整え、海華が敷いていた布団へゴロリと横たわる。

彼の手から団扇を受け取り、横たわった身体へゆっくり風を送りながら、海華は眉を八の字に変えた。


 「話しを聞いてると気の毒な境遇ねぇ。火事から一人逃げられたなんて、夏樹先生よっぽど運が良かったか……それとも」


 「夏樹自身が火を付けた、って考えてんだろ?」


 右手を頭の後ろに組んで、視線だけを動かす志狼に海華は無言で頷く。

たった一人生き残れた、それは運が良かったから。

そしてもう一つの可能性は、夏樹が火を付けて逃げたから。

大体がその二つだろう。


 「だがな、動機がねぇんだ。住職は儀助を随分可愛がっていたようだし、寺男も人から恨まれるような人間じゃねぇ。娘は言わずもがなだ。金目の物も盗られてねぇしな。なんかの拍子で蝋燭の火が燃え移ったんだろう、って事で片付いたようだぜ?」


 「そうなの……。過去には色々あった人なのね。今の話し、兄様にもするんでしょう? やっぱり、仕事止めさせた方がいいかしら?」


 あれやこれやと疑いたくはないが、やはり兄は大事な存在である。

何かあれば大変だ。

顔をしかめて考え込む海華、団扇を振っていた手が自然と止まる。

無言になってしまった彼女を見た志狼は、やおら布団から身を起こし、団扇をそっと取り返した。


 「心配する気持ちはわかるがな、儀助……いや、夏樹自体はそう悪い奴じゃねぇみたいだ。もしお前が不安だってなら、朱王さんがあいつの所に行く時は、俺が一緒に行くぜ。―― 勿論、朱王さんが迷惑だ、だって言うなら別だけどな」


 「邪魔だなんて、そんな事言わせないわ。志狼さんには、色々面倒掛けるけど……兄様の事、よろしくお願いします」


 苦笑いしながらペコリと頭を下げる海華を団扇で扇ぎ、志狼は口角をわずかに上げて『おぅ』と小さな返事を返す。

やがて、離れに一つだけともっていた行灯の明かりは、海華の一息によって吹き消され、室内を完全なる闇が包み込んだ。






 その翌日、中西長屋を訪れた志狼は昨日自らが聞き出してきた事を朱王へと話す。

最初は怪訝な面持ちを見せていた朱王だが、彼の話を頭から信じていないわけではないようで、夏樹の元を訪れる際、志狼が同行するのを承諾してくれた。


 『面倒掛けてすまないな』そう言いながら茶の支度をし始める朱王、そんな彼が今しがたまで向かっていた文机には、何やら人の姿を描いた紙が何枚も重なり置かれている。


 「朱王さん、そこの紙……そりゃなんだ?」


 「これか? 釈迦の絵だ。昨日、帰りがてら寺を二、三件覗いてきた」


 「そうか。……くどいようだが、一人であいつに会いに行くのは止めてくれよ。俺も、海華も朱王さんの事……」


 「わかってる。ちゃんとお前達に声を掛けて行くさ。だが……夏樹先生を疑うようで悪い気もするな。―― わかったわかった、そう怖い顔するなよ」


 わずかに眉を顰める志狼をなだめるように苦笑いを見せ、朱王は側に落ちていた釈迦の絵をクシャクシャと丸め、文机横の屑入れへ放り込む。

そんな彼の動作を目にして、志狼は驚いたように目を瞬かせた。


 「おい、なんで捨てちまうんだ? よく描けてたじゃねぇか」


 「これか? こんなのじゃ駄目だ、話しにならん。夏樹先生がおっしゃってただろう? 『恐ろしい程美しい人形を』とな」


 そう言って、朱王は机の上にある硯、そこに置いた筆を手に取ると、たっぷり墨を含ませる。

文机に向き直り、新な紙にサラサラ筆を走らせていく朱王の横顔を眺めながら、志狼は静かに唇を開いた。


 「なぁ、朱王さん。朱王さんは……地獄っ て、見た事あるか?」


 唐突な問い掛けに、朱王の筆が一瞬止まる。


 「随分と物騒な質問だな? 地獄か……。見たぜ。まだガキの頃だ。確か浅草寺の祭りだったな。小さな箱の除き穴を除くとさ、中にある地獄絵がくるくる回るんだ。さしずめ地獄巡りさ。海華の奴、覗いた途端に大泣きして……」


 「おい、茶化すのは止めてくれ。俺は本気で……」


 「あぁ、悪かった、悪かった。そうだな……」


 不機嫌そうに顔を歪ませる志狼に小さな笑みを投げ掛けて、朱王は硯に筆を置く。

文机に片肘をついて、朱王はじっと志狼を見詰めた。


 「地獄なら何度も見た。ガキの頃から、何度もな。怖いとか痛いとか苦しいとか、そんな事は思わなかったな。それが……」


 一度言葉を区切り、頬を掠める黒髪を指先で絡め取って、朱王は憂いを帯びた眼差しを志狼へと向けた。


 「それが『日常』だった。当たり前の事だったんだ」


 最後にこぼしたその言葉が、静かに宙に溶けていく。

胡座を組んでいた足を組み直して、志狼は己の膝先に視線を落とした。


 「―― 海華に、何か言われたのか?」


 不意に響く問いに、志狼の顔がおずおず上がる。


 「どうして、わかる?」


 「あんたは、こんな謎掛けみたいな質問はしない。海華がしそうな話しだ。教えてくれよ、あいつは、なんて言ったんだ?」


 どこか穏やかにさえ感じる声色で問われ、志狼は一度唇を噛む。

昨夜、秋扇の所で見た地獄百景の話しをした時だった。

この世の物とは思えない恐ろしい光景、だが、どこかに退廃的な美を感じさせる作品だった、そのような内容を志狼が口にした途端、海華は酷く哀しげな微笑みを見せたのだ。


 「あいつ言ったんだ。本当の地獄に美しさなんてない、薄汚くて、生臭くて、気が狂った方が幸せなくらい陰惨な場所だ、兄様に聞いてみたらいい、ってさ。だから……」


 「あぁ、なるほどな。確かにあいつの言っている事は間違いじゃない。本当の地獄に、美しさなんてそんな甘っちょろいものはないさ。あいつも身に染みてわかっているんだろう」


 ひび割れた壁にもか凭れ掛かり、雨漏りのシミがついた天井を見上げて、朱王はちいさく、そして掠れた笑い声を上げた。


 「志狼さん、『地獄』の定義なんて、人それぞれだ。俺には何てこと無いものでも、あんたには耐えられないほど辛く感じるってこともあるだろう? ……案外、世の中のどこにでも地獄は転がっているかもな」


 『俺と海華の地獄は、随分前に終わった』そんな台詞で締め括り、朱王は再び文机へ向かい筆を握る。 紙の上を筆先が走る微かな音を耳にする志狼は、緩やかな弧を描く朱王の背中に、薄暗く深き闇が覆い被さっていく錯覚に囚われていた。


 翌日、朱王は夜通し掛けて描き直した釈迦の絵を携え、秋扇の元へ向かった。

勿論、約束通り志狼も一緒である。

朝も早く食事の支度に彼が長屋を訪れた時、六畳ほどしかない狭い部屋は描き損じの紙の山に埋もれた状態であり、何度も大欠伸を放つ朱王の『殆ど寝ていない』の言葉を裏付けるかのような散らかりぶりだった。


 手早く食事の支度を終え、描き損じも処分してから部屋を出た時には、既に志狼は疲れ気味、これでは朱王の弟子か小間使いと間違われても仕方が無い、心中でそう自嘲する志狼。

その頭上でギラギラと輝きを増す夏の太陽は、全てを焼き尽くすような熱波を容赦なく放ち、小石川の外れを目指す二人はあっという間に汗まみれだ。


 道の彼方に立ち上る陽炎、息も詰まりそうな草いきれ、脳髄まで震わせる蝉の大合唱……。

夏が満ち満ちる世界を進み、やっと視界に現れた秋扇の住まい、その背後には巨人と見紛うばかりの入道雲が二人を見下ろしていた。

滝の汗を玄関先で拭い去り、ごめんくださいと声を掛ければ、いつ洗ったのか知れないクタクタで皺だらけの作務衣を纏った秋扇が顔を出す。

その場で依頼を受ける旨を伝えると、彼はもう狂喜乱舞、茹で蛸よろしく顔を真っ赤にさせ、二人を奥の間へと招き入れた。


 一番最初にここを訪れた際に通された部屋に案内され、早速朱王は持参した釈迦の絵を何枚か広げて己の隣に写生道具を用意する。

すると秋扇は、目は少し大きく、唇はもっとふくよかに、等々細かい注文を出す秋扇の言葉通りに絵に手を加えていく。

互いに頭を付き合わせるように絵を覗き込み、熱心に話し込む二人の横で、志狼はすっかり蚊帳の外、手持ちぶさたで部屋の中を見回したり、自身の左腕を吊っている三角巾をいじくったりして時を潰す。


 退屈そうな志狼に気が付いたのか秋扇はやおら彼の方を向くなり、申し訳なさそうに小さな微笑みを浮かべた。


 「いやぁ、申し訳ありませんなぁ、御客人を放りっぱなしにしてしまって」


 「あ、いや……俺はただの付き添いなので、どうぞお構いなく」


 「そうはまいりません、ただいまお茶でも……やや、こりゃしまった」


 一度腰を浮かせた秋扇は、ペシリと自分の額を叩き顔をしかめる。

どうしたのだろう? そう思いつつ顔を見合わせた二人の前で秋扇は懐をまさぐり、大きな鍵の束を取り出した。


 「すみません、私としたことが蔵の扉を開けっ放しにしてきました。近所の悪ガキが入り込むといけません、ちょいと失礼して……」


 困ったような笑みを見せ、そそくさとその場を後にしようとした秋扇を、志狼が片手を上げて引き留める。


 「もしよかったら、私が代わりに閉めてきましょうか? 」


 「おや、よろしいんですか?」


 「はい、私は……暇ですから」


 そう言いながらチラリと朱王を見遣れば、意外だ、と言いたげな面持ちをしながらも、ただ無言で頷いた。

さっさと閉めて帰ろう、そう思いながら扉に手を掛けた志狼だったが、ふと中を見ると蔵の奥の方でポツリと蝋燭の火が燃えているのに気が付いた。


 「仕方無ぇなぁ……」


 ウンザリした様子で深い溜め息をつき、恐る恐る中へ足を踏み入れた志狼。

開けっ放しにした扉から差し込む日の光りを頼りに進めば、あのおどろおどろしい人形達が彼を出迎える。

血にまみれ、身体が裂けて内臓や白骨が覗く人形達は、皆一様に恐怖、苦痛、絶望の表情を浮かべ、光の無い目で志狼を見る。


 立ち上る埃の臭い。

骨身に染みる嫌な冷気。

全身の毛が逆立つような錯覚に囚われながら志狼は足早に奥へと向かう。

消し忘れていた蝋燭を見付け、一息に吹き消 そうとしたその時、彼の目は自分の真っ正面に ある二つの人形を捉えた。


 それは、顔面を縦真っ二つに切り裂かれた若い娘の人形と、喉首を切り裂かれ、口から大量の血潮と千切れた舌を垂らす中年女の人形だ。

普段なら顔を背けてしまいたい無惨、痛々しい人形だが、志狼の目はその二つの顔に釘付けとなる。

残り短くなった蝋燭の芯がジリジリと低い音を立て、闇と同じ漆黒の煤を吐き出した。

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