第九話
地獄の三丁目から無事帰還した朱王達、彼らがイの一番に向かったのは奉行所ではなく、小石川療養所だった。
一見無傷に見える実虎や桔梗でさえ、袴や着物のあちこちが切り裂かれ乾いてベトついた血潮が肌を彩っている。
深夜に訪れた顔見知り、しかもその大半が大なり小なり怪我を負っているという状態に、玄関に出たお藤は勿論、清蘭までもが戸惑い療養所の中は深夜にも関わらず一騒動となり、手当を受けた一同が療養所を出たのは東の空が白み始めた頃だった。
「―― ちょっとおじさん。……おじさんってば! 寝ちゃ駄目よ!」
青畳にキッチリと正座した海華が、自らの後ろに座する弥彦をチラチラ見つつ、低く抑えた声を出す。 身体を前後に揺らしコックリコックリ船を漕いでいる弥彦の目の下には黒ずんだ隈が浮かび、大きな欠伸を連発する唇は、薄皮が白くなるほど乾燥していた。
療養所を出た一同がその足で向かったのは北町奉行所、修一郎の執務室である。
どうしてこんな場所に引き立てられねばならないのか、と初めは入所を渋っていた弥彦だが、桔梗に襟ぐりを引っ掴まれ、半ば強引に引き込まれてから、借りてきた猫のようにすっかり大人しくなった。
しかし、彼には修一郎がどんな人物なのか知らされてはいないのだ。
横に並び座る実虎に、ドン!と脇腹を小突かれた弥彦が今日何度目かの大欠伸を放ったその時、前方にある襖が音を立てて開き、真新しい羽織袴姿の修一郎と桐野がその姿を現す。
上座に胡坐をかく修一郎、そして廊下に面する障子前に正座した桐野の前で、六人の頭が一斉に畳へ押し付けられた。
「皆、面を上げろ」
凛とした低めの声を上げる修一郎。
ほぼ同時に顔を上げる皆を一瞥し、少しばかり疲れの滲む彼はまず実虎と桔梗、そして彼ら後ろに座る弥彦に視線を移す。
「実虎に桔梗、それに弥彦と申したな? そなたらの事は朱王から聞いておる。今回は、本当に世話になった。そなたらがいなければ、朱王らの命はなかっただろう。改めて、礼を言う」
そう言い置き、畳に手をつく修一郎に些か驚いた表情を見せた桔梗だが、すぐ隣の実虎にならい深く一礼する。
「恐れ入ります。御奉行様直々に御礼のお言葉を頂けるなんて……」
「いや桔梗、そなたがいなければ、今ここに俺はいなかった。そなたは命の恩人だ」
いかつい顔を緩める修一郎と柔らかな笑みを見せる桔梗の会話を聞いていた弥彦の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
ワナワナ震える彼の指先が、前にいる実虎の袴を乱暴に引いた。
「なんだうるせぇ。御奉行様の前で失礼だぞ」
「ちょ、ちょっと待てや旦那。御奉行様って、どういう事やねん。まさかこのお侍……」
「なんだ今気付いたのか? あの方が北町奉行、上条修一郎様だ。ああ、おめぇにゃ『鬼修』って言った方がわかりやすいだろうな」
「鬼修って! 俺はそんな事一言も聞いとらんでっっ!」
目を白黒させつつ素っ頓狂な叫びを張り上げる弥彦は、弾かれんばかりの勢いでその場からガバリと立ち上がる。
そこにいた全員の視線が自分に突き刺さるのを確かめたと同時、彼は今にも卒倒しそうに顔を引き攣らせ、ヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
「どうした、何を聞いておらんのだ?」
突然大声を上げた弥彦を咎めるどころか、にこにこと愛想のよい笑みを振り向ける修一郎。
普段ならば顔を顰めるだろう状況にも笑みを絶やさないのは、いつにも増して機嫌がよい証拠、それをわかっている桐野も敢えて苦言を呈することはしない。
「申し訳ありません! おい弥彦、手前ぇいきなりなんだ! 失礼だぞっ!」
眼光鋭く弥彦を睨みつけ、厳しい声色を発した実虎。
そんな彼と修一郎へ交互に視線を投げて、死人よろしく青ざめた弥彦は崩れるように畳へ額を擦り付ける。
『申し訳ございません!』男にしては甲高い叫びと変わる謝罪の言葉、なだらかな弧を描く彼の背中が、ピクリと小刻みに揺れた。
「おい弥彦、俺は別に取って食おうなどと言うつもりはない。面を上げよ」
あまりにも小さく縮こまり、一向に顔を上げようとしない弥彦に苦笑いを見せて、修一郎は足を組み直す。
そろそろと顔を上げ、まるで親に叱られた子供のように上目遣いでこちらの様子を伺う彼へ、修一郎はニヤリと白い歯を見せた。
「『錠前殺し』の腕前、とくと見させて貰った。イヤ、たいしたものだな」
「へ、ぇ……勿体無い御言葉で、ありがとうございます。ところでその、錠前殺しってなぁ誰に聞きはりました?」
「ああ、海華からだが?」
「お嬢ッ! お前余計な事をっ!」
「あら、いいじゃないの。悪口じゃないんだから」
真っ赤な顔で眉を逆立てる弥彦にチロリと赤い舌を覗かせて、海華は小さく肩をそびやかす。
そんな彼女を睨み付けた弥彦だが、修一郎の視線が自分に向けられたのを感じると、再び畳へ額を擦り付けた。
「だからもうよい、顔を上げろ弥彦」
ひらひらと手を振りつつそう声を掛けて、修一郎は桐野へそっと目配せをする。
それに小さく頷いて答えた桐野は、ゴホンと一度軽い咳払いを放ち皆の視線を自分へと向けた。
「今回の一件だが、御上には『破落戸同士の揉め事』として届け出てある。御奉行直々の計らいだ。勿論、お前達の名前は表に出る事はない故、安心致せ」
凛と響く彼の台詞に、実虎や桔梗、そして他の者たちも神妙な面持ちで一斉に深く一礼する。
一連の騒ぎは修一郎の手によって見事闇の彼方へ葬られた。
しかし、朱王や志狼には気掛かりな事が一つだけあるのだ。
「修一郎様……、一つだけ、よろしいでしょうか?」
「うむ、なんだ朱王? 申してみよ」
自身の左側へ置かれた肘置きにドンと片肘を付き、修一郎は穏やかな眼差しで朱王を眺める。
一瞬視線を志狼に投げた朱王は、やがてその重い口を開く。
「はい、その……七之助の事についてです。 奴はまんまと逃げ切りました、このままでは、また……」
「いつ志狼や海華の命が狙われるか、お前はそれを気にしているのだろう?」
心の中を見透かすように、修一郎の大きな瞳 が朱王をじっと見詰める。
彼の台詞を肯定するように、朱王は無言のまま頷いた。
「それは俺も、これからどうしたものかと考えていたのだ。奴の志狼に対する恨みは相当な物、しかも妹まで殺められたのだから、そう易々と引き下がるまい。だがな、始終志狼達に護衛を付ける訳にもいかぬ。それは志狼、お前もわかっておるだろう?」
「はい、重々承知しております」
硬い表情のまま、志狼が静かに口を開く。
そんな彼を目を細めて眺めつつ、修一郎は指先でこめかみを掻いた。
「うむ、しかしな、奴は妹も、引き連れてきた同胞も粗方殺された、今すぐどうこうできる状態ではなかろう。実虎らも上方へ戻った後は志狼、そして朱王、全てがお主らに掛かっておる」
「つまり、いつ襲われてもよいように、万全の態勢でいろ、と」
じっと修一郎へ視線を送る朱王の薄い唇が微かに蠢く。
「そうだ。刃向う者は全力で迎え撃て。そして次こそは必ず斬り捨てよ。―― 志狼、お主にそれができるか?」
唐突に投げ掛けられた問い掛けに、志狼は間髪入れず首を縦に振る。
腹違いの弟、つまり身内を殺められるか、残酷に思える問い掛けだが、志狼は躊躇することはなかった。
「やります。私には、今の生活が一番大切なもの、それを守るためならば……今度こそ必ず奴を……」
「うむ。お前その気持ちがあるならばよい。 勿論、俺も桐野も協力は惜しまん」
微かに唇を綻ばせ、そう告げる修一郎に志狼は小さく頭を下げる。
その後、朱王らは奉行所の裏口から修一郎らに見送られ、それぞれの岐路に着く。
朱王が長屋へ、そして志狼と海華が屋敷へ辿り着いてからほぼ同時に湯屋へと走り、帰宅後布団に転がり込んだのは言うまでもない……。
短く深い一夜が開けたと同時、実虎らは連日の疲れも取れぬうちに上方へ戻ることとなる。
少しでも礼をしたい、そんな志狼と海華の申し出も固辞した彼ら、しかしそれでは気持ちが収まらぬと二人は急遽ある場所へと走る。
太陽が人々の頭上高く上った頃、実虎と桔梗達、そして朱王の姿は荒神町の連れ込み茶屋、美影屋の深奥にあった。
用意できる限りの酒と肴を並べ、精一杯もてなしの気持ちを表した三人、酷使した身体に酒精が心地好く染み込むのだろう、いつもは滅多に口許を綻ばすことがない実虎も猪口を傾けつつ微笑を浮かべ、海華に酌をされる弥彦は耳まで真っ赤、いつにも増して口数が多くなる。
やっと訪れた穏やかな時間、しかし部屋の隅でチビチビと酒を舐める志狼の顔色は、どこか冴えない。
桔梗の猪口に酒を注いだ海華は、徳利を彼女に預け静かに志狼の傍へ腰を下ろした。
「志狼さん、どうかした?」
「あぁ……、腕が、ちょっとな」
微かに眉をひそめ、三角巾で吊った左腕を擦る彼を見て、海華はすぐにピンときた。
「そうね、ずっと揉んでなかったわよね。 ―― ちょっと待ってて」
そう言うが早いか、彼女は素早く立ち上がり実虎と酒を酌み交わす朱王と、そして傍で空になった徳利を盆へ片付けるここの主。
お京にそれぞれ何やら小さく耳打ちする。
二人が軽く頷いたのを見届け、再び志狼の元へと戻った海華は無言のまま襖を指差した。
外へ出ろ、と言いたいのだ。
一体どこへいくのだろう? そんなことを思いつつ誘われるがまま廊下へと出た志狼、海華はそんな彼を今いた部屋の斜向かいにある一室へと通した。
「勝手に入っていいのか?」
「うん。お京さんが、いいって言ってくれたから」
ニコリ顔を綻ばせ、部屋の隅から二枚の座布団を運んだ海華は、それを一枚志狼へ勧める。
「ここ座って。揉んであげるから」
「ああ、すまねぇな」
言われるがまま、三角巾を外し片肌を肌蹴た志狼。
固く固まった左腕は真っ直ぐに伸ばすのにも鈍い痛みが襲う。
痛みに歯を喰い縛る彼を心配そうに見遣りながら、海華は肩から肘、そして指先から手のひらまでを自身の手で暖め、時間をかけて優しく揉みほぐしていく。
内側に曲がったままの指を擦り、固さを取って温もりを与える。
次第に強張り、そして冷えと、それに伴う痛みが消えていくのがはっきりと感じられた。
「どう? まだ痛い?」
「いや、大丈夫だ……」
みるみるうちに軽くなっていく左腕。
それに比例して志狼の顔からも先ほどまでの苦し気な表情は消えていく。
全体を揉みほぐした後、最後の仕上げに肌を擦る海華の手に、志狼の右手がそっと重ねられた。
「―― どうしたの?」
「うん……。お前には、すまないことをしたと思う。怪我までさせた上に、七之助の野郎も仕留められなくて……」
謝罪の言葉に混ざるのは、深い後悔の色。
しかし海華は唇を綻ばせたまま、静かに首を横へと振った。
「いいの。怪我だって掠り傷程度だったし、あの人の事だって……。あたし、気になんかしてないの。本当よ? また襲って来たら、同じように返り討ちにしてやるわ」
にや、と悪戯っ子のような笑みを見せる海華は志狼の肩へ肌蹴ていた着物をそっと掛ける。
「修一郎様だって、桐野様だってお力になって下さるんだから、志狼さんだけが不安がる必用なんて無いのよ」
「そう、か……」
彼女の言葉に納得したのか、それとも無理矢理己を納得させたのか……。
今だ固い表情で頷く志狼。
そんな彼へクタリと撓垂れかかった海華の甘えた視線が志狼の横顔へ注がれた。
「ねぇ、久し振りに二人きりになれたんだから、もっと違う話しをしましょうよ。―― ここへ来るのも久し振りなんだし」
揉みほぐしたばかりの左腕へ細い腕を絡ませて、身体を擦り寄せてくる彼女へ少しばかり戸惑いの眼差しを投げる志狼。
彼の視線は忙しなく宙を泳ぎ、賑やかな笑い声が漏れ聞こえる襖へと辿り着く。
「だけど……、向こうに朱王さん達が……」
「いいだけ酔ってるもの、大丈夫よ。少し遅れたって、誰も気にしないわ」
「そう、だな。なら……少しだけ」
そう小さく答えた志狼の視線は生まれたての熱を帯び、同じように熱を孕んだ海華のそれと絡み合う。
しなやかな身体を抱き寄せる右腕、二つが一つに重なった刹那、その場に流れる時は一瞬で動きを止めた。
「あの人、なかなかいい男ですね?」
『海華ちゃんにぴったりだよ』そう続けて、お京は実虎から受けた猪口を唇へ当てる。
志狼の腕を擦ってくる、そう言って二人が別の部屋へ消えてから暫く経った。
今は海華の代わりにお京が男達へ酌をしてくれている。
「あの鉄砲玉を抑えるにゃぁ丁度いい奴なのかもなぁ。―― ま、上手くやっているみたいだ、安心したぜ」
ほろ酔いの実虎もお京の言葉に同意するよう首筋を縦に振る。
義弟を誉められて悪い気はしないが、当事者で ある志狼らがいない今は、どこか気恥ずかしく さえ感じてしまう。
「まぁ……海華の事は大事にしてくれますので……。それにしてもあいつら遅いな」
いつまでも帰ってこない二人に業を煮やした朱王は、手にしていた猪口を置き腰を浮かす。
そんな彼の袖を、お京が引き留めるように軽く引っ張った。
「そう急かさなくてもいいじゃありませんか。あの二人もここにくるのは久方振りで……」
そう口にした直後、お京はしまったと言わんばかりに表情を変え、着物の袖口で赤く紅を塗った口を覆い隠す。
そんな彼女の言葉に朱王の眉がピクリと動く。
「ここに来るのは久方振り、って……? お 京さん、それはどういう事でしょう?」
「いやだ、あたしったら、つい口が滑っちゃって。今のは忘れて下さいな」
明らかに誤魔化しだろう笑みを見せるお京、しかし朱王は引き下がらない。
ここは連れ込み茶屋、いわば男女の密会の場所だ。
包み隠さず話してくれ、そう言い寄る朱王を据わった目付きで見遣り、既にへべれけに酔っぱらった弥彦が酒の満たされた猪口をグイとあおる。
「あのなぁ朱王、いい年した男と女が連れ込み茶屋に来る理由なんてな、『ナニ』をしたいからに決まっとるやろ」
『お前アホか』そう短く吐き捨てる弥彦へ弾かれるように振り返り、柳眉を逆立て睨み付ける。
しかし弥彦はフィとそっぽを向いたまま、手酌で酒を猪口へと注ぐ。
そんな彼から視線をお京が背にした襖へ移し、彼はバン! と畳を叩き付けるようにその場から立ち上がった。
「ちょいと朱王、あんたどこへ行く気なのさ?」
「あいつらを探しに行くんです! 志狼の奴……やましい事はしないと言っておきながら、っ!!」
呆れたような眼差しを送る桔梗を他所に、怒りに思考を塗り潰された朱王の眥がつり上がる。
足音も荒く襖の方へと向かった彼の背中に『待ちやがれ!』と厳しい怒鳴り声が飛んだ。
「いい加減にしねぇか、みっともねぇ!」
そう一喝し、猪口を畳に放り出した実虎は、不機嫌そのものの様子で胡座を組み直し朱王を下から睨み据える。
彼の方を振り返った朱王は、ぐっと息を飲み拳を固く握り締めた。
「―― 師匠……!」
「いいから座れ! お前な、海華はもう子供じゃねぇんだ。大体、おめぇも海華も木の股から産まれた訳じゃねぇだろうが! 」
「そうやそうや、好いた者同士が一緒にいりゃぁ、自然とそうなるわい。手篭めにされた訳やあるまいに、どこがやましい事やねん」
へらへら笑いながらスルメをしゃぶる弥彦へ苦々しい面持ちを向け、力なくその場に座り込んだ朱王は、泣き出しそうな様子で再びお京へ視線を向けた。
「お京さん……あいつらは、いつ頃からここに……?」
「そうですねぇ……一緒になりました、って報告に来るだいぶ前だから……確か秋の終わりくらいですよ。ひと月に何度か、だったけど」
『毎日のように来ていました』などと言われた日には、朱王は回復不可能なくらいに意気消沈しただろう。
お京の答えに反応することもなく、ガックリ項垂れる朱王の肩を軽く叩き、実虎は彼の手に無理矢理猪口を握らせる。
顔を見合わせ苦笑いする桔梗とお京。
やたらと笑顔を振り撒く海華と、どこか落ち着きの無い志狼が部屋へ姿を現したのは、それから暫く経ってからの事だった。
別れの朝は、清々しいくらいの日本晴れ。
抜けるように青い空で輝く黄金色の太陽が、日本橋に集まる朱王らを燦々と照らす。
江戸の土を踏んだ時と同じ旅装束に身を固めた実虎、桔梗、弥彦の三人は今日の空と同じ清々しい表情を浮かべていた。
「本当にお世話になりました」
「なに、いいってことよ。御奉行様や桐野様によろしく伝えてくれ」
深く頭を下げる志狼と海華へ脚絆をしっかり縛り直し、いつもの如く無骨な口調で実虎が答える。
修一郎や桐野も見送りに出る予定だったのだが、間の悪い事に二人とも急務が入り、ここへ来る事は出来なかった。
「御奉行様も、ぜひにと申していたのですが……」
「いいってことよ。大体、盗賊崩れが御奉行様のお見送りを受けるなんざ、どう考えてもおかしいじゃねぇか」
「そうだよ。本当なら、こっちは直接お会いできる立場じゃ無いんだからさ」
コロコロと朗らかな笑い声を上げた桔梗だったが、すぐ真顔に戻り、朱王の袖を小さく引いて実虎と共に道の端へと寄る。
弥彦と談笑している海華と志狼は、そんな彼らの動きに気付いてはいない。
「え? ちょ……師匠?」
「いいからちょっとこっちこい! ―― いいか朱王、これだけはしつこく言うが、お前これ以上海華へグダグダと文句言うんじゃぁねぇぞ? わかったな?」
「あまり口出すと、そのうちお華に愛想つかされて、放り出されちまうよ?」
朱王を挟むように両側から小さく耳打ちする二人。
桔梗の言葉にギョッと目を見開きながらも、朱王はその顔に無理矢理引き攣った笑みを作り出す。
「愛想つかされて、放り出される、って……。まさか、あいつに限ってそんな……」
「馬鹿だねぇあんた。海華はもう亭主持ちなんだよ? いつまでも『お兄ちゃんが一番』な訳無いだろう?」
止めとばかりに放たれる残酷な桔梗の台詞。
ウッ、と息を詰まらせる朱王の肩を叩き、『そういうことだ』と小さく呟く実虎。
その顔には微かな哀れみの色さえ浮かんでいる。
返す言葉もないまま、朱王は表情を強張らせコクリと一度頷いた。
離れた場所から響く海華と志狼の朗らかな笑い事が耳に痛い。
「旦那ぁ! そろそろ行きましょかぁ! 」
「おぉ、そうするか。―― じゃあな朱王」
「あ……はい。師匠、本当にお世話になりました。ありがとうございます」
慌てて深く頭を下げる朱王へ片手をひょいと上げ、すたすたと弥彦の方へ歩みを進める。
江戸への入口、そして出口となる橋の上、次第に小さくなっていく後ろ姿が見えなくなるまで、朱王達は彼らを見送った。
「……姐さんも、おじさんも、行っちゃったわね……」
シンミリとした口調でそうつぶやく海華の肩に、志狼の右手がそっと置かれる。
行き交う人混みの中にちらつくその光景を苦虫を思いきり噛み潰す面持ちで見遣る朱王。
二人に聞こえるように大きく咳払いをした彼は、がしがしと頭を掻きむしりつつ二人へ視線を向けた。
「さて……これで一段落ついた、な」
「そうだな。でも……これからまた、朱王さんに迷惑掛ける事になるかもしれねぇ。その時は……」
「その時はその時、なってから考えればいいだけの話しだ」
ぶっきらぼうだが、朱王なりに志狼を気にかけているからこそ出る台詞。
二人のやり取りに小さく微笑んだ海華は、ふっと空を仰ぎ、降り注ぐ陽光に目を細めた。
「いいお天気ねぇ。これからどうしようかしら。ねぇ、志狼さん?」
「そうだな……まずは洗濯物を片付けよう。 朱王さん、あんたの分もやっちまうか。今から汚れ物取りに行くぜ」
「それがいいわね、ついでにお掃除もしちゃいましょう! 兄様も、勿論手伝ってくれるわよね?」
小首を傾げ、ニッコリ微笑む海華に見上げられれば、否とは言えない。
わかった、そう言いたげに朱王が何度か頷いたのを確かめたと同時、二人は互いに顔を見合わせた。
「なら、俺は先に屋敷へ戻ってる」
「わかったわ。あたしは、兄様の所で汚れ物取ってくるから。また後でね。さ、兄様行きましょ!」
そう一言叫ぶなり志狼は屋敷の方へ、海華は朱王の手を引いて長屋の方角へと走り出す。
普段なら鬱陶しく感じてしまう妹の行動が、今ばかりは嬉しいとすら思ってしまう。
早く早くと急かす海華の後をよろめきながら 駆ける朱王、そこには、平凡ながら愛おしい 『日常』の姿があった。
終




