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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第六章 上方より哀を込めて
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第五話

 「誰も止めろなんざ言ってねぇ」


 無造作に括ったボサボサの髪を掻き乱しながら実虎が口を開く。

目尻に涙を浮かべたまま、呆気に取られた顔で海華は彼を見詰めた。


 「あたしはも、これから旦那のところへ行こうと思ってたところさ。さぁ、これから行くかってぇ時に、青い顔したあんた達が走ってくるのを、弥彦が見付けてね」


 「俺達だけで押し掛けるより、お前達がいた方がすんなり会ってもらえるだろうからな。 さ、いつまでもグズグズしてねぇで、さっさと行くぞ」


 そうぶっきら棒に言い放ち、涙ぐんだままキョトンと立ち尽くす海華の横を実虎が擦り抜けて行く。


 「ほら、何をボーっと突っ立ってんだい、早く行くよ」


 海華の肩をポンと叩き、桔梗は微かに口角をつり上げる。

呆然と立ち尽くしたまま互いに顔を見合わせていた志狼と海華は、板塀に囲まれた細道へ消えていく二人の後ろ姿を慌てて追掛けた。

実虎と桔梗、そして些か緊張した面持ちの弥彦を従えて、志狼が向かったのは厳めしい顔付をした門番が護る表門ではなく、その反対側にひっそりと立つ裏門だった。

門番こそは立っていないが、普段は重厚な門扉に閉ざされ、出入りする者はほとんどと言っていいほどいない。


 表門から直接入ることも可能だが、なにせこの人数、そして上方組三人は脛に傷を持つ身だ。

何も知らぬ門番らに、あれやこれやと下手な詮索をされたくはない、無駄な時間を使いたくはなかった。

曲者と間違えられてはまずい、そう思ったのだろう志狼が一度分厚い門扉を数回叩く。

しかし中からは返事の一つも返らなければ、門が開く気配もなかった。

それを確認して後、志狼の右手がグッと強く門を押し遣る。

昼間、ここに鍵がかかっていない事を以前桐野から聞いていたのだ。


 「おい、ホンマに大丈夫なんやろうなぁ? 入った瞬間バッサリなんてこたぁ……」


 「大丈夫ですって、虎の穴に入るわけじゃないんだから。それに、ここの方たちは志狼さんの顔知ってる人も多いんですよ」


 中へ入るのを最後の最後までしぶっていた弥彦を無理矢理門の向こうへと押し込んで、海華が後ろ手にパタンと静かに門を閉める。

裏口付近の大部屋に詰めているのは、都築や高橋など街廻り同心と呼ばれる侍達だ。

詰所ともいえる奥の部屋からは、何やら賑や かな雑談の声や時折豪快な大笑が響いてくる。 丁度中庭近くに面するこの場所に目立った人影はなく、志狼は海華らを板塀沿いに植えられた庭木の影へ隠すと、主がいるであろう最奥の一室を目指した。


 『用があれば遠慮はいらん、裏口からそのまま入ってこい』以前言われた言葉を免罪符に、志狼は足音を忍ばせて奥へと進む。

黒羽織の若侍二人が小走りで駆け抜ける渡り廊下、そのすぐ下を身を屈めて走り去り、 書庫番であろう中年の侍が筆を片手に船を漕ぐ小部屋の前を通り過ぎ、主の部屋へと続く廊下を曲がった時だった。


 突如、小柄な人影が目の前に現れる。

出逢い頭での正面衝突、激しくぶつかりそうになる身体を華麗な身のこなしでかわして、志狼は焦りと驚きにその目を剥いた。

『うぉ!』と裏返った叫びを上げてよろめく影、逃げる暇も、身を隠す暇もない。

志狼と男の視線が、空中で激しくぶつかり合った。


 「や! お前、志狼ではないか!?」


 「高橋、様!」


 思いも寄らぬところで思いも寄らぬ鉢合わせした、なぜお前がこんなところに、と二人は同じ表情で物語る。


 「志狼、お前ここで何をやっている?」


 丸い目を更に丸くし、高橋は素っ頓狂な声を上げる。

先程上げた彼の叫びに気が付いたのか、居眠りをしていた書庫番の侍が筆を握ったまま、ぼんやりとした顔を部屋から覗かせた。


 「高橋殿、どうかなさいましたか? その者は……」


 「ん? あ、いや、なんでもありませぬ。この者は、それがしの知り合いでして。いや、お騒がせをしました」


 怪訝そうな面持ちで小首を傾げ、じろじろ志狼を見遣る侍に愛想笑いを投げ付けて、高橋はちょんちょんと志狼の袖を引く。

彼に連れられ廊下を曲がった志狼は、額に薄く浮いた汗を手のひらで拭った。


 「申し訳ございません、ご迷惑を……」


 「なんの、これくらい。それより志狼、桐野様に何か御用か?」


 彼がここに来る理由など、桐野に用があるからに違いない。

それがわかっている高橋に偶然だが出逢えた志狼は、案外運がいい男なのかもしれない。


 「旦那様に、どうしてもお話ししなければ、会って話を聞いて頂きたい方がいて、その……急用があるのです。旦那様は、今……」


 しどろもどろに答えつつ、頼むから出掛けていると言わないでくれ。

そう心の中で祈る志狼から一瞬目を背け、高橋はくるりと後ろを、真っ直ぐに続く廊下へと振り向いた。


 「奥にいらっしゃるはずだ。お前一人で歩いていては、また怪しむ奴も出てくるだろう。ついてこい」


 そのまま体の向きを変え、高橋は先を歩き出す。

ほっと胸を撫で下ろし志狼は彼の後を行く。

磨き上げられた廊下かから伝わる氷のような冷たさが、彼の背筋を震わせた。

高橋に連れられ桐野の元を訪れた志狼。

一人文机の前に座り山のように積み上げられた書類の一枚一枚に丁寧に目を通していた桐野は、志狼の突然の訪問に一瞬驚きの表情を見せた。


 この時点で切羽詰まった状態の志狼、もう長々と前置きなどを話している場合ではない。

朱王が長屋から連れ去られたこと、そして実虎達の元から伊賀の者らが突然姿を消したことを全て話した。

まさか朱王が拐われるなど考えもしなかったのだろう、驚愕に目を見開き、わずかに腰を浮かせた桐野、そんな彼に実虎達がここに来ていると告げ、会ってもらえるか尋ねると、彼は一も二もなく承諾してくれたのだ。

桐野に許しを得て、志狼は早速実虎達を呼びに今来た道を走り戻る。


 思いがけずスンナリ事が運んだ、そう言いたげな面持ちの実虎と桔梗、そしていよいよ顔を青くする弥彦の背中を押し無理矢理引き立てる海華は桐野が待つ部屋へと通された。

己の前に姿を現した髭面の中年男と艶めかしい艶を含んだ女へ、『しばらくだった』と低く静かな声色で呼び掛ける。

彼は覚えていたのだ。

はるか以前、一度だけ対峙したこの男女の事を。


 「ご無沙汰しておりました。また……このような形でお目に掛かるとは」


 畳に両手を付き、深々と頭を下げる実虎、彼が発した台詞に桐野は複雑な表情で軽く頷く。


 「これも何かの縁、と申しておこう。志狼の件で、そなた達には手数を掛けさせた。申し訳ない」


 使用人とはいえ、志狼は桐野にとって大切な家族の一員である。

だが、己のために主である桐野に頭を下げさせてしまうことになり、実虎の後ろに座する志狼の心は、鉄線で締め付けられるかのように鋭い痛みを放った。


 「お詫びをせねばならぬのは、こちらの方でございます。朱王が……私めの弟子が、敵方に捕えられました。本来ならば、全てこちらでケリを付けねばならぬこと、やむにやまれぬ事情があるとはいえ、こうして桐野様のお手を煩わせるのは誠に申し訳なく思っております」


 「まさか朱王がとは思わなかったが……。手を煩わせるなど、そなたらが気にすることはない。そこの海華は儂の家族、その兄ならば家族も同然。朱王の命が助かるならば、どんな協力も惜しまぬ」


 淡々と続く二人の会話。

ひやりとした空気が充満する室内に響く落ち着いた声に、志狼も海華も一切横から口を挟むことは出来ないでいる。

妙な緊張感、いや、一触即発と言った方がいいだろう気配が、その穏やかな声の中に隠れているのだ。


 「今度の敵が、志狼の異母弟妹だとも聞いておる。すぐさま捕らえよ、刃向うならば……と言いたいところだが、その真実はなしを聞いてしまうとな」


 苦しげな、そして迷いが抜けぬ、そんな様子で表情を歪め、桐野は細い顎を擦りつつ俯いてしまう。

そんな彼を前に、実虎はちらりと志狼を見遣った。


 「桐野様、失礼を承知で申し上げます。いくら志狼と血を分けた弟妹とはいえ、奴らは生粋の忍、妙な同情や過度な思い入れは……こちらの不利となるばかりでございます」


 ひどく冷酷に聞こえる実虎の言葉。

一瞬顔を強張らせた海華は反論しようとでもしたのか、実取へ向かい身を乗り出す。

そんな彼女を隣に座した弥彦が無言のまま引き留める。


 「同情や、思い入れ?」


 「はい、お縄にするのを迷う、それは奴らに何某なにがしかの思いがあるから、桐野様は先程仰いました、『朱王は家族も同然だ』と。それならば……志狼の弟妹も同じ事でございましょう。 しかし、相手は忍。同情はただ、あだとなるのみ」


 「つまり、朱王を助けたいならば、手加減は無用、と?」


 「朱王だけではございません、我々が生き延びるためには、です」


 二つの視線が雨雲を裂く稲妻の如くにぶつかりあい、砕け散る。

載れが助かりたいのなら、戸惑いは無用。

ふぅ、と小さな溜息を一つつき、桐野は胡坐をかいていた足を緩慢な動作で組み直す。


 「儂は、自分がどうしようもなく非道な男だと思ってはいない。冷酷な男とも、な。だが……底抜けのお人好しではない事は、確かだ」


 微かな苦笑い、それに似合わぬ台詞を吐いて、桐野は実虎の後ろで固まる志狼、そして海華へ視線を投げた。


 「海華、朱王は必ず助ける。必ずだ。志狼よ、もしもお前が弟妹の命だけは助けたい、そう思っているのなら……全てが終わった後、一生かけて儂を怨め。お前には、その資格がある」


 いつもとなんら変わらぬ飄々とした物言いで彼の口から出た言葉に、志狼は何も返すことが出来ない。 思考は完全に停止した。

『先に屋敷へ帰っていろ』そう告げるなり、桐野はその場から静かに立ち上がる。

交わされたやり取りの全てを見届けた海華、戸惑いに視線を彷徨わせる彼女の瞳は、自分の横を通り抜ける主の姿を追い掛けていた。


 『先に帰っていろ』その言葉に従って八丁堀へと戻った志狼達、シンと静まり返った屋敷、その玄関をくぐった途端目の前に広がる光景に志狼と海華は息を飲み、呆然とその場に立ち尽くした。

志狼と共に常時磨き上げ、黒光りする廊下や青い畳には、土足で踏み荒らされたのだろう一面泥に塗れ、各部屋は箪笥や長持ち、戸棚の一つまで引っくり返され抉じ開けられ、中身が廊下にまで散乱している。


 まるで大嵐が通り過ぎて行ったような惨憺たる有り様に、唖然呆然とした様子で廊下を歩いていた海華は、全身の力が抜け落ちたようにへなへなと廊下の真ん中にへたり込んでしまう。

金目の物はほとんど奪われたようだ。

目を覆いたくなるような有り様に、さすがの志狼も言葉を失う。

その時だった。

奥の間を見回りに行った実虎の叫びが屋敷に木霊する。

声のした方向へと顔を跳ね上げた桔梗と弥彦、やがて奥から姿を表した実虎は、乱雑に折り畳まれた紙切れ、そして美しい艶を放つ漆黒の髪の毛を握り締めて、髭面を強張らせたままその場に立ち尽くしていた。






 「建物はでかいくせに、金目のモノは少なかったね」


 心底がっかりした、不満たっぷりの声色が埃っぽい空気の中に溶けて消える。

江戸市中の外れ、大川沿いにポツリと建つ一軒のあばら屋の中に幾人もの人影が蠢いていた。

以前は誰かが住んでいたのだろう、広い土間に板張りの広間、その真ん中に大きな囲炉裏を構えたその家は、打ち捨てられ忘れ去られてどのくらいの時が過ぎたのか、今は白雪のように分厚く積もった埃が周囲を彩り、長い足を不気味に動かし細い糸を紡ぐ絡新婦の巣と化している。


 埃と壊れた家事道具が捨てられた土間の片隅に、鉄の手枷足枷をはめられた朱王が拘束されていた。

四肢を噛む枷から伸びた鉄の鎖は、すぐそばにある太い柱に何重にも巻き付けられ、ご丁寧に南京錠で止められている。

どうあがこうにも抜け出せない拘束具、長屋からここに連れてこられ、これをはめられた瞬間から朱王は自力でここから脱出することは不可能だと悟っていた。


 ここに到着するまでの間、どうにか逃げ出す隙はなかったのか、くのいちと言えど相手は女一人である。

長屋を出るまで、朱王は何とか隙をつくろう、逃げ出す機会を作ろうと必死だった。

しかし、その考えは甘かったのだ。

ここへ来るまで間、雪乃に変装したくのいちと自分の周りに、自然と人が集まってきた。

ぼて振りの野菜売り、派手派手しい恰好の唐飴売り、編み笠で顔を隠した虚無僧に、地味な着物に身を包んだ女中風の若い女、そしてぼろぼろに朽ち果てた蓆を小脇に抱える汚らしい乞食の老爺……。


 自分達を囲むように、絶妙な間合いを取り歩くその物らが全て忍、つまりくのいちの仲間だと知ったのは、ここに到着してからだった。

伊賀の忍衆のねぐらとなっているここに押し込められた次の瞬間、虚無僧や女中風の者らはあっという間にその衣装をかなぐり捨て、闇色の黒装束が現れる。

先程まで朱王のすぐ隣を歩いていた腰が極限まで曲がった乞食の老爺は、垢じみた着物を脱ぎ棄てた瞬間に一人の若者へと変身した。


 「こいつが、例の人形師か?」


 低く、しかし凛とした声が鼓膜に届く。

所々破れた戸口から白い光の帯が差し、ゆっくりとこちらへ近寄る男の顔を目の当たりにした瞬間、強張っていた朱王の顔が驚愕の表情へと変わる。

陽光に照らされて煌めく埃、その中に立つ男は己がよく知る人物、そう、志狼そのものだったのだ。


 『似ているか?』


 穴が開くほどに自分を凝視する朱王に、男はニヤリと冷笑を送る。

この男が志狼の弟だ、そう一瞬で確信できるほど、その男は志狼に瓜二つだった。

緩やかに癖のついた髪を短めに苅り込み、引き締まった体躯を黒衣に包む男、七之助は深く腕を組み斜光の中に静かに佇んで朱王を見下ろす。


 「俺とそっくりならば、あいつも父親似か」


 忌々しそうに吐き捨てた七之助に、奥で二人を見遣る仲間らがにやにやと興味深げな、そして面白半分の視線が浴びせられた。

それから今に至るまで、彼は囲炉裏の奥にある一間に仲間数人と隠ったままその姿を現すことはない。

代わりに彼の双子の妹、文江が同じ年頃であろうくの一と二人、朱王の側から離れずに桐野家から奪った金品を広げて、ペチャクチャとお喋りに花を咲かせていた。


 志狼より一つか二つ年下と言うなら、この兄妹は二十四、五ほどになるのだろう。

薄暗い中でもはっきりと見える、文江の頬に付いた痛々しい切り傷をチラチラ見遣りつつ、朱王は内心そう思う。

そんな彼の視線に気が付いたのか、片手で小判を弄んでいた文江は、それを懐に押し込んで朱王の側に屈み込む。


 「あんた、本当に綺麗な顔してるね。…… このまま殺しちゃうのが勿体ないくらいさ」


 互いの鼻先が付く寸前まで顔を近づけて、文江はにやりと口角をつり上げる。

それに連動し、右の口元から耳までついた紅い傷が生き物のように蠢いた。


 「志狼は七之助と文江の敵だけど……あんたは関係ないよねぇ、可哀想だから、最期にイイ思いさせてあげようか?」


 文江の隣から顔を突き出した瓜実顔のくの一、多分文江より年上だろう女が、足枷のはめられた足をゾロリと撫でる。

全身の毛が逆立つようなその感触に朱王の顔が小さく引き攣る。

宙を舞う誇りと汗臭さ、そして微かに臭う白粉にも似た女の体臭に思わずえずきそうになりながらも、朱王の本能は千載一遇の好機が来たと声にならない叫びを張り上げた。


 「そりゃぁ嬉しいね。せっかくの好意だが……こんなナリじゃ楽しめるものも楽しめん。せめて……足だけでも外してくれないか?」


 海華や修一郎が聞いたなら腰を抜かしているだろう女を誘う甘ったるい声色を出す朱王。

漆黒の瞳が細められ、微熱を含んだ視線が文江の横の女へ向けられる。

ほんのりと頬を朱に染め、視線を逸らす女の様子に手応えを感じてフッと柔らかな笑みまでを向けてやれば、女の手は無遠慮にふくらはぎを這い、膝頭をするすると撫でる。


 女なら無条件に虜となってしまう朱王の微笑みはまさに凶器、花魁だった母親の面影を継いだこの顔が初めて役に立ったと感じた瞬間だ。


 「ねぇ、どうしようか?」


 「……少しならいいんじゃない? 兄者や源太郎は向こうだしさ、バレやしないよ」


 ひそひそと互いに耳打ちし合う二人。

足さえ外れてしまえば、あとは二人のうちどちらかを人質にすればいい。

彼女らの懐には短刀が忍ばせてあるのを朱王は確認済みだった。


 土間に立ち込る妖しい空気。

熱と情欲を含むねっとりした視線を絡ませる二人の女に見下ろされ、朱王は生唾を飲み下す。

『おかしな真似をするんじゃないよ』そう釘を刺し、文江は黒衣の胸元を弄ると黒光りする一本の鍵を取り出した。


 足枷にぶら下がる南京錠、その鍵穴にゆっくりと鍵が吸い込まれていく。

カチリ、と微かな音を立て鍵が回される。

朱王の膝を撫でていた女の手が、待ち切れないとばかりに土埃に汚れた着流しの裾を乱し、汗ばむ手が首筋を撫でる。

足首に感じていた冷たく重い感触が緩んだ、そう感じた刹那、囲炉裏の奥からバチーン! と木板がぶち割れるようなけたたましい爆音が淀んだ空気を震わせた。


 「お前達何をやっているッ!」


 鼓膜を突き破らんばかりの怒号と共に現れた七之助は、朱王に群がる女らを見るなり激しい怒りに髪の生え際まで赤く染め上げる。

表情を凍らせ、一瞬動きを止めた女達だったが、次の瞬間には山猿の如き素早さで朱王の上から飛び退く。

文江より一歩遅れた女の長い黒髪を鷲掴んだ七之助は、そのまま彼女を力一杯土間へと叩き付けた。


 掠れる悲鳴に白く立ち込める土埃、ぎょっとした様子でこちらを見る文江の頬に一発張り手打ちを食らわせる七之助のこみかみに、くっきりと青筋が浮かぶ。

土間へ崩れ落ちる女二人を、まるで汚物を見るような眼差しで睨み付ける彼の目は、朱王が見てもわかるほどに血走っていた。


 「こんな時にサカリやがって、この色呆け共がッ!」


 がん!と腰を強か蹴り上げられた文江が痛みに顔を歪めて低く呻く。

反抗的な眼差し、しかし彼女は一言も反論することなく静かにその場から立ち上がり、足早に表へと駆け出して行く。

何事があったのかと顔色を変えこの場に集まってきた者らを奥に下がらせた七之助は、眉を逆立てたまま朱王の傍らへと屈んだ。


 「女嫌いと聞いていたが、色仕掛けなんて下らん真似を…… 」


 「色仕掛け? 冗談じゃない、お前の妹が好色なだけ……」


 朱王の言葉が終わらない打ち、空を切った拳が右頬に強か打ち込まれる。

ガツッ!と肉を殴る重たい音、痺れるような激痛が鼻から脳天へと走った。

ぐぅ、と小さく唸り、ぐらつく視界に視線をさ迷わせる朱王。

口一杯に苦い味が広がった。


 「減らず口叩けるのも今のうちだ。じきに、妹夫婦がここに来る。ものはついでだ『兄上様』も呼んでやったぜ」


 『兄上様』


 その言葉に、朱王の顔色がみるみるうちに白く変わる。

腫れた頬、緊張に満ち満ちた面持ちで自分を凝視する朱王へ、七之助は初めてのあった頃の志狼が見せたものと同じ、冷たい笑みを作り出した。


「兄上様……わかるよな? こっちはみんなお見通しなんだ。みんなまとめてあの世行きだ。志狼に関わったのが、運の尽きだったな」


 憎々しげにそう吐き捨てて、鋭い光を宿した瞳が細められる。

この男がどれ程志狼を憎んでいるのか改めて痛感し、朱王の息がグッと詰まった。


 「なぜ……今なんだ?」


 乾いた唇が微かに動き、小さな問いがこぼれる。

志狼を襲うならば、もっと早くいくらでも機会があったはず、しかしなぜ、今なのか。

朱王はずっと疑問に思っていたのだ。


 「なぜ今なのか、か。そうだな、―― あいつが幸せになったから、とでも答えておく」


 表情を変えぬまま、抑揚のない声色で返す七之助。

静かにその場から腰を上げ、朱王に向けられた背中からは、憎しみと、そして濃厚な怒りが染み出し空気に見えない色を付ける。

今まで酷使してきたのだろう分厚い手が、固く固く握り締められた。


 「あいつの父親は、お袋をたぶらかして…… ゴミのように捨てた。挙げ句の果てに、甲賀のくの一なんざと……」


 地の底からにじみ出るような低い声。

影を背負った背中、それは志狼のそれに瓜二つだ。


 「俺たち母子おやこが里でどんな扱いだったかわかるか? お袋が、どんな思いで俺と文江を育てたか……。それなのに、あいつはスンナリと与力の使用人に修まって、所帯まで持った? そんなふざけた話しがあるかッ!」


 凍り付いた空気を打ち壊す怒号。

無意識に肩を跳ね上げ、怒りに震える背中を見詰める朱王の首筋から、一筋の汗が伝い落ちる。


 「暗雲党とか言う盗賊に志狼の始末を頼んだ。だが、あいつらは失敗しやがった。いてもたってもいられなくて、八丁堀まで様子を窺いに行った。あの野郎……女房と二人でニコニコニコニコ幸せそうに……。許せねぇ、許せる訳ねぇじゃねぇか」


 ギリギリと歯を食い縛る低い音が鼓膜を打つ。

風に吹かれるようにゆっくり振り向いた七之助は、ゾッとするほど冷酷な微笑みを朱王に投げ付けた。


 「その時殺してもよかった。でも、こうも思ったんだ。目一杯、幸せってやつを味あわせてから殺してやろう、ってな。あの胸くそ悪い笑顔が絶望に変わるのが、早く見てみたいね」


 『極楽から地獄へ真っ逆さまだ』


 笑いたいのを堪えるように息を詰め、先に出て行った妹の後を追うように表へ消えていく七之助。

彼が開いた戸口の向こうには、この場の空気と同じ灰色の重たい雲が一面、天を多い尽くしているのが見えた。

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