第四話
『あの人、このままで大丈夫なのかい?』
壁に寄り掛かり、深く腕組みをした桔梗から出た第一声に、朱王は少しばかり怪訝な面持ちで首を傾げた。
「大丈夫か、とは……」
「このままお華を側に置いといてもいいのか、ってぇ事さ。」
「あぁ、そういう意味でっか。まぁ、確かにな。今の志狼はんじゃぁ、敵さんが来てもロクに太刀打ちできへんやろ。嬲り殺しにされるのがオチやと思うで。勿論、お嬢も同じ運命やろな」
朱王の隣に立ち、耳の穴を小指でほじくりつつ弥彦が放った一言に、朱王の眉毛がひくりと動く。
しばし何かを考えるよう唇を固く結んでいた彼の視線が、真っ直ぐ桔梗へと注がれた。
「桔梗さんも、以前志狼に会っているからわかるはずです、あいつは、敵の前で無様に背中を見せるような男じゃ……」
「そりゃあ普段の話しだろう?あの人の腕がたつのはあたしだってよぅく知っているさ。でもあんた、自分の身になって考えてごらん」
そう一気に言い切って、桔梗は一度息を整える。
「考えてごらん、もしお華があんたを殺そうと突然襲い掛かってきたら……あんた、平然とお華を返り討ちにできるかい?」
桔梗の問い掛けに、うっと言葉を詰まらせた朱王。
そう、敵はただの忍びではない。
志狼にとっては血を分けた弟妹、つまりは身内である。
「いいかい?相手が弟妹だと知っちまった以上、あの人にだって多かれ少なかれ気持ちの揺らぎはあるはずだ。一度も会った事がないと言っても、血を分けたモンには言葉以上に伝わる何かがある。一瞬の躊躇いが、命取りになるんだよ」
「親兄弟のおらへん俺にはよぉわからんがな、兄弟だろうが親戚だろうが、敵は敵やねん。妙な情けを掛けてたら、こっちの命がいくつあっても足りひんよ」
弥彦の一言が、冷えた空気の充満する廊下に響き、そして消えていく。
志狼は、相手が身内であろうとも戸惑う事無く凶刃を振るえるのか?
たやすく命を奪えるのだろうか……?
表向きは冷たいように感じる男だが、根はそれなりに優しい。
それを知っているからこそ、桔梗や弥彦に反論できない自分がいる。
しばらく海華を彼から離すべきなのか? 様々な考えが交差する脳内。
朱王の周りから、音が消え失せる、その時だった。
しっかりと閉じていた襖が滑るように開き、そこから酷く硬い……ほとんど無表情の志狼が、その姿を現す。
突然の彼の登場に、弥彦はマズイとでも言いたげに肩をそびやかし、桔梗は形の良い眉を僅かにつり上げる。
「志狼さん……今の話し、聞いていたのかい?」
「聞いていた……より、聞こえていたの方が正しい、か。そこそこ耳は良い方なんでね」
抑揚のない声で桔梗の問いに答え、彼は静かに三人に歩み寄る。
「話しは聞いた。海華も……聞こえていたはずだ。桔梗さんが心配する気持ちはよくわかります。きっと『昔の俺』なら、戸惑いや迷いもあった、でも今は……」
ぐっ、と息を飲み、志狼が力強い視線を向けたのは、自らの前に立つ朱王だった。
「自分の弟妹でも、肉親だったとしても、今の俺には海華の方が何百倍も大切だ。もし、あいつに手出しされそうになったら、迷うことはねぇ。……必ず殺す」
緊迫感が漂う空間に低く静かに漂う台詞は、強い決意が込められたもの。
鋭い光を宿す瞳は真っ直ぐ、唯一人、朱王を移し出す。
それ以上言葉を交わす必要はない。
問い質す必要もない。
朱王は、ただ無言で頷くだけであり、桔梗も弥彦も口を挟むことはなかった。
『日常を取り戻すための戦い』
志狼と海華、そして二人取り巻く人々を巻き込んで、非情な時は動き出す。
彼らの命を脅かす魔の手は、すぐそこまで迫っているのだ。
『奴等は里でも一、ニを争う手練れだ』
部屋に戻った朱王と志狼に飛んだ、実虎の台詞。
普段は口数も多い海華も今は表情を強張らせ、最後まで彼の話に耳を傾けていた。
これから朱王達は実虎らと直接接触することはない。
あるとすれば……事が大きく動いた時、または終結した時だろう。
今度からは、用がある時は弥彦を通せ。
そう一言言い残し、実虎と桔梗、そして弥彦は、また別々に美影屋を後にする。
後に残された三人も、重苦しい気持ちを引き摺りながら帰路へ着く。
玄関先まで見送ってくれたお京の艶っぽい笑みが、海華の網膜に暗く焼き付いた。
それから三人の生活は、姿の見えぬ影に怯えるものへと変わる。
部屋の前を見知らぬ者が通っただけ、表で道を聞かれただけで、緊張に心臓が跳ね上がる。
いつもどこかで誰かに見張られているような居心地の悪さ。
さすがの海華も不要な外出は避け、できるだけ志狼の側から離れないようになった。
『自分には腹違いの弟妹がいる』そう志狼自身の口から聞いた桐野も腰を抜かさんばかりに驚き、そして狼狽した。
が、すぐに彼本来の冷静さを取り戻し、しばらくは早めに帰宅するよう努めてくれる。
戦々恐々の五日間が過ぎる。
しかし志狼達の周りは何の変わりもない。
襲われるどころか、怪しい者の気配一つ感じないのだ。
弥彦からもその後これと言った情報はなく、実虎らとは会えないまま。
以前と何の代わり映えもしない日常に、海華はどうにか心の落ち着きを取り戻し、志狼はどこか拍子抜けした様子だ。
もう一人、朱王はと言えば自らの周囲に気を配りつつ日々の糧を得る、つまり仕事をしなければならない。
今日も新たに受けた依頼のため、長年愛用の彫刻刀を入念に磨き上げていた、その時だった。
「ごめん下さいませ」
夏の川原を吹き抜けるか涼やかな風の音に似た声が戸口の向こうから響く。
朱王が顔を上げるのと、戸口が開くのはほぼ同時だった。
「お邪魔致します」
「これは……雪乃様!」
手にした彫刻刀を慌てて机に置き、朱王は客人に向かって深々と頭を下げる。
萌木色の鮮やかな着物に身を包む三十路前半、武家の者だろう身なりの女は桜色の唇を笑みの形に歪めた。
「突然お邪魔してごめんなさい。うちの人から頼まれ物があって……上がってもよろしいかしら?」
口許を袖口で押さえ、ニコニコと華やかな笑みを見せる女は、朱王の腹違いの兄である北町奉行、上条修一郎の妻、雪乃だ。
土間に立つ彼女へ『どうぞ御上がり下さい』と声を掛けて中に招き入れ、部屋の隅から継ぎはぎだらけの座布団を取ろうと後ろへ振り向いた朱王。
畳へ上がった雪乃は、そのまま腰を下ろすことなく豊かな黒髪が流れる朱王の背中を見詰める。
体の前で揃えられた雪のように白い手、着物の袖口が再び口許へと当てられ、右の口角から頬を撫でるようにゆっくりと動く。
穏やかな笑みが、瞬きをする間も無く氷の如く冷たい物へと急変したと同時だった。
袖が撫でた部分に細い深紅の線が現れる。
懐をまさぐる小さな手が引き出された刹那、 閉め切られていた部屋の空気を切り裂かんばかりの勢いで、二人分の黒髪が宙を舞った。
舞う黒髪の間から、銀色に輝く光の矢が二つ空気を切り裂く。
きっちりと結われた髪はあっという間にほどけ散り、雪乃だったはずの女は一瞬で彼女とは似ても似つかぬ容貌へ変わっていた。
「よく気付いたね?」
白い顔冥い笑みと共に歪む。
腰まで伸びた黒髪、額の真ん中から分けられた前髪の下から覗く、氷の冷たさを宿した瞳が朱王を捉えた。
白雪のように白い肌、卵形をした小さな顔に紅の唇……。
野に咲く艶花のような女、その折れそうに細い首元には磨き上げられた彫刻刀が突き付けられる。
尻餅をついた格好で足を崩す朱王に覆い被さるような姿勢の女の手には、鈍色の光を放つ研ぎ澄まされた忍刀が握られ、その切先は寸分の狂いもなく朱王の頸動脈へ押し付けられてい た。
「よりにもよって雪乃様に化けるなんて……。無礼者」
「まんまと騙されたアンタが言うんじゃないよ。それとも……妹にで化けて欲しかったかい?」
にやにやと嫌な笑いを見せる女、歪んだ唇の右端からこめかみの辺りまで伸びた深紅の切り傷が、表情に合わせて歪む。
無意識に傷へと視線が向き、それに気付いた女は苦々しげな面持ちで切れ長の目を細めた。
「酷い傷だろう?お前の……お前の義弟にやられた傷だよ」
忍刀を握る女の手に筋が浮く。
表から響く子供らの笑い声が、どこか遠く、異界の物のように聞こえた。
「俺に、何の用だ?」
「私と一緒に来てもらおう」
「素直に『はい』とでも言うと思うのか?」
こちらも負けじと握り締めた彫刻刀を喉元ギリギリに突き付けて、朱王は引き攣った笑いを漏らす。
何とか体勢を立て直さなければ、この状況から逃れなければ……。
必死に冷静さを保とうとするが、心臓はうるさいくらいに早く、そして力強い鼓動を打ち鳴らす。
顔に走る傷さえなければ身震いするほどの美人であろう女は、その顔を鼻先が触れんばかりの距離まで近付け、呆れの中に軽蔑が混ざった眼差しを朱王へ注いだ。
「アンタは『はい』としか言えないさ。選択権はないのだからね。これ以上余計な事をぬかすのなら、首と胴体が泣き別れだ」
「その台詞、そのまま返してやる。この部屋を血で汚したくはないが、こうなっては仕方ない」
互いの刃が、互いの薄皮一枚を傷つけていく。
体勢が悪い分、朱王の方がやや深く切れたのだろう、紙のように白い首から絹糸に見紛うほどに細い血がにじみ出る。
白玉の歯を僅かに覗かせて、女はにこりと微笑んだ。
「それでもいいよ?でも、代わりに八丁堀にいるアンタの大事な妹と亭主には死んでもらう。 私が半刻過ぎるまでここから戻らなければ…… 与力様のお屋敷は血の海だ」
まるで笑いをこらえるかのように女は肩を震わせ低く呟く。
鼓膜を打つその台詞に、さすがの朱王も背中に冷たい物が流れた。
「たった独りでここへ乗り込んで来るほど馬鹿ではないさ。この長屋にも、八丁堀にも、勿論奉行の屋敷にも、我が仲間は忍んでいるんだ。それでもついて来ないと言うか? ……そう怖い顔をするな」
『アンタはまだ、殺さない』
にっこりと華やかな、そして艶やかな笑顔を見せる女の口から零れるのは、背筋が凍り付かんばかりの冷酷な台詞。
ぎりぎり音を立てんばかりに奥歯を噛み締めた朱王、その手が力なく開かれ、握り締めていた彫刻刀が畳へ転がり落ちる。
黒い滝のような女の前髪、その間から覗く血の唇は、見事な三日月を形造っていた。
「しばらく会っていないけど、兄様元気かしら?」
酒の肴にと買い求めた魚の干物を携えて、海華がポツリと呟く。
『昨日会ったときは変わりなかったぞ』そう答えた志狼は、風に吹かれ頬を掠る髪を鬱陶しげに掻き上げた。
何処から狙われているかわからない、しばらく一人歩きはするなと志狼からきつく言い付けられた海華。 そんな彼女に変わって志狼はこの数日、朱王の食事の世話も進んで引き受けてくれたのだ。
結婚後、こんなに長く兄の顔を見なかった事はない。
元気にしているか、ちゃんと睡眠は、そして食事を摂っているかと気を揉む彼女を見兼ねて、今日志狼は夕餉の支度に海華を同伴させることにしたのだ。
大勢の人が行き交う大通りは遅い雪解けに大地が泥濘、数多の下駄や草履の跡が刻み付けられている。
頭上に広がる抜けるような青空には羽根雲が浮かび、雀の群れが賑やかな囀りと共に飛び去って行く。
今日のおかずは何にしようか、そんな他愛無いお喋りを交わしつつ中西長屋へと着いた二人。
長屋の一番手前にある朱王の自室の戸口をガラリと開いた刹那、海華はぐぅ、と息を飲む。
部屋の中には誰もいない。
使った食器や湯飲みはそのまま竈の横に置かれ、脱いだままの寝巻きは無造作に枕屏風へ掛けられたまま、作業机の前に置かれた座布団は僅かにへこみ、今しがたまで朱王がそこへ座っていたのを物語っていた。
「なんだ、朱王さんいないのか」
部屋を見廻し、志狼はいつものように土間から室内へ上がろうとする。
しかし、そんな彼より一足早く海華は下駄を脱ぎ散らしたまま室内へと飛び込んだ。
「変よ……。こんなの変よ!」
畳へ屈み込み、青白い顔で何かを拾い上げる海華、その傍らに膝を着いて志狼は怪訝な面持ちを作り出す。
「どうした?何が変なんだ?」
その問い掛けに、彼女は黙って畳から拾い上げた物を志狼の目の前に差し出す。
それは、眩しいばかりに磨き上げられた一本の彫刻刀だった。
「兄様が、仕事道具を放り出して行くなんて絶対にないわ。机の上も散らかしたままで……。こんな事、絶対に有り得ない!」
『仕事道具は命と同じ』常々そう言っていた兄が、机の上も整理せず、あまつさえ彫刻刀を放り捨てて外出するなど海華には到底考えられない。
兄の身に何かあったのだ、そう確信した海華は志狼を押し退けんばかりの勢いで再び土間へと飛び降り、下駄を突っ掛けて表へ走り出る。
ひどく切迫した様子で辺りを見渡した海華の視界に、青葉も眩しい大根を三本抱えたお石の姿が映った。
「お石さんっ!ちょっとお石さんっ!」
「あぁ? なんだい海華ちゃんか、しばらくだねぇ」
かけた前歯を覗かせて愛嬌のある笑みを見せる彼女へ駆け寄り、海華はちょこんと頭を下げる。
「兄様……、うちの兄様、どこに行ったか知りませんか?」
「朱王さんかい? 朱王さんならついさっき出掛けたよ。ほら、海華ちゃんが嫁ぐ時にいらっしゃった、北町奉行の奥方様とご一緒にさぁ」
『北町奉行の奥方様』お石の口から飛び出た言葉に海華は目を白黒させる。
彼女より遅れ表へ走り出た志狼も、俄かには信じられないといった面持ちでお石を凝視した。
「北町奉行の……雪乃様か!?」
「あぁ、そうそう雪乃様だよ。何か御用があったのかねぇ? ……それにしても、朱王さんやけに怖い顔してついてったけど、どうしたんだろうねぇ?」
瑞々しい大根を抱えたまま、小首を傾げるお石。
今にも泣きだしそうな様子の海華の袖を強く引き、志狼は眉間に微かな皺を寄せる。
『お奉行様のお屋敷に行くぞ』ポツリと彼の唇からこぼれた台詞に、顔を蒼白にさせた海華が無言のまま頷いた。
取るものも取り合えず、北町奉行公邸へと走った二人。
そこで彼らを出迎えたのは、いつもと何ら変わらぬ様子の雪乃だった。
朱王の元を訪れたのか? と尋ねる海華に彼女が返した答えは二人が予想していたものと同じ『行ってはいない』とのこと。
先程まで来客があり、雪乃は今日一歩たりとも屋敷の外へ出てはいないとの話しだった。
お石が『ひどく恐い顔をしていた』と話していた事からも朱王が意に反して部屋を出たことは間違いない。
どこへ連れ去られたのか、狼狽え涙ぐむ海華を必死になだめ、その手を引いて志狼が駆け込んだのは主の勤め先、つまり北町奉行だ。
息を切らせ走りに走って奉行所まであと道一本、と言うところまで来た時だった。
不意に道の横に立ち並ぶ黒い板塀の間から、にゅう、と一本の白い腕が伸びる。
突然現れたそれに驚き、前のめりにならんばかりの勢いで足を止めた志狼と海華、敵か、と一瞬身構えた志狼の目の前で、男の物と思われるその手は二人を板塀の影へ誘うかの如く、くいくいと手のひらを動かす。
頬を赤く染め、荒い息を吐いていた海華は怪訝な面持ちで静かにその手へと近寄った。
「おい海華! 危ねぇ……」
「シッ! 静かに……。もしかして、弥彦、さん?」
そう呟きながら板塀の影を覗いた海華。
昼間でも薄い影が支配するその場所で、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべた一人の男と視線がかち合う。
「大当たり。さすがお嬢やと言いたいところが、ちぃとばかし無防備やで? 俺が敵さんだったら……」
『喉首切り裂かれとるがな』薄い唇からそんな物騒な台詞を吐いて、板塀に凭れていた弥彦が身を起こす。
足音も立てず蔭から姿を現した彼を、志狼は意外そうな眼差しで見詰めた。
「もし敵さんだったら、とうの昔に首が飛んでるわよ。それより何かあったの? 用がないんなら……」
「アホ! 用があるさかい、こうして待っとったんやないか! それに俺だけやないでぇ、旦那も姐さんも来とるんや」
そう言うが早いか、弥彦はついてこいと言わんばかりに親指で板塀の影を指し、素早く暗がりへと消えてしまう。
返す言葉もすぐには見つからず、二人は地惑いながらも彼の後を追い掛ける。
そこは人独りがやっと通れるほどしかない、猫の通り道とも言える狭い狭い小道となっていた。
足元は凸凹の多い荒地、所々顔を覗かせる石ころに足を取られ、左右を挟み込む湿った木塀に手をついて進む三人の頭上には、細長く切り取られた青空が映る。
ひたすらに真っ直ぐ進み、どのくらい経った頃だろう、不意に視界が広く開けたかと思うと、目の前に古ぼけた裏木戸と白っ茶けた藁で覆われた粗末な屋根が現れる。
雨風に曝され黒く変色した板で覆われた壁はあちこち崩れ、日に焼けた屋根からは抜け毛のように藁が飛び出し、人が四人も入ればいっぱいになってしまうだろう大きさしかない『小屋』の周りには、風に吹かれて集まったのか、 落ち葉やごみが散乱していた。
寂れた農村にでもありそうな物置小屋、そう形容するに相応しい殺風景で冷たい風景の中に、眩しいばかりの藍色が揺れる。
三人の視線を集中させるその色は、一人の女が纏った着物の色だった。
「桔梗姐さん……」
「お華、あんたは無事だったみたいだね?」
微かに安堵を滲ませた声色、崩れかけた小屋 の影から滑るように現れた桔梗、そして実虎の 表情は海華が今までに見た事がないくらい厳しく、そして苦々しい物だった。
「姐さん……! 兄様が、どこかに連れて行かれて……!」
固く両手を握りしめ、おろおろ声を出す海華。
ちっ! と小さな舌打ちをした実虎が、胸の前で深々と腕を組む。
「あのガキ、海華じゃなくて朱王を狙いやがったか」
「いきなり消えちまったから何事かと思ったら……。どうやら一足遅かったみたいだね」
何やら味深な台詞を呟く桔梗。
この二人は何かを知っているのか? そんな疑問を表情に現した志狼の耳元で、彼らの話を黙ったまま聞いていた弥彦がぼそりと囁いた。
「今朝方早く、伊賀の連中が旦那の前から姿を消したんや。奴等……最初から旦那方がお前らと繋ごうてると知っていたか、途中で気付いたかのどっちかやな。とうとう実力行使に出た、っちゅう事や」
やはり、隠れ里の連中の目を誤魔化すことは出来なかったか、心中でそう落胆する志狼と、表情を強張らせる海華。
とにかく今は、朱王を探し出すのが第一目標だ。
「あたし、これから旦那様のところに行きます」
意を決した様子で言い切った海華の引い声色が、乾いた空気に溶けていく。
その瞬間己に向けられる実虎、桔梗、弥彦の突き刺さるような視線にも、彼女は動じなかった。
「実虎さんや姐さんに、なんて言われても構いません。兄様が助かるなら……あたし何でもします。どうしても止めるって言うなら……!」
己の言葉に煽られたのだろうか、徐々に興奮し顔を紅潮させていく海華に圧倒されたのか、隣にいる志狼も止めることが出来ないでいる。
今、兄がどんな状況に置かれているのか……それを想像し、海華の目尻に涙が浮く。
このまま駆け出してしまいそうな様子の彼女を前に、あきれ果てたとでも言いたげな表情で、深い深い溜息を吐き出した。




