第三話
『あの旦那は恐ろしいお人や』
そう一言残 し、弥彦は逃げるように宿へと戻って行った。
以前は何度も修羅場を経験したであろう錠前師があれほど恐れ戦くのだ、その言葉に間違いはあるまい。
桐野の優しさを、そしてその奥底に潜む厳しさと恐ろしさをよくよく知っている二人も弥彦の台詞を否定することはなかった。
修一郎に知られてしまう事は致し方ない。
事を公にされ、大騒ぎされないだけありがたいと思わねばならぬ。
何より、桐野が一番案じているのは志狼と海華の身であろう。
志狼の両親、そしてその一族にどんな因縁があるのか、それを既に知っている桐野は頭ごなしに彼を叱る事もしなかった。
自分なりに怪しい者らを探ってみよう、そうまで言ってくれた桐野には志狼や海華は勿論、朱王も頭が上がらないでいた。
桐野、そして修一郎に事の次第が知れ、離れの天井も無事に修繕が完了した頃、『実虎と桔梗が江戸に着いた』との吉報が弥彦によってもたらされた。
「旦那と姐さんは伊賀の奴らと一緒や。奴らも完全に旦那方を信用してる訳や無いらしい。 どこで見張られとるかわからへんから、会うのは難儀やで」
朱王の部屋で南京錠を手慰みに弄り回しつつ弥彦が呟く。
そんな彼も、茶屋で実虎と偶然の相席を装い、隙を見計らい袖へ文を捻じ込まれたのだ。
「会うのもままならないなんて……それじゃあ、作戦なんてとても練れないわ」
八の字眉毛で嘆息する海華、その隣に座する志狼も渋い面持ちを崩さない。
志狼や海華、桐野は勿論の事、きっと朱王の面も既に割れているのだろう。
ここにいる全員が固まり行動するのはあまりにも軽率、今日、中西長屋へ集まるのも個々に時間をずらし、人目を憚るように来た程だ。
しかし、弥彦はそうも深刻そうな顔はしていない。
「そうしょげるなやお嬢。俺にも、ちゃぁんと考えはあるさかい」
そんな台詞と同時、彼の手中にあった南京錠がカチャリと微かな音を立てる。
鍵穴に突っ込んでいた細い棒を引き抜いたと同時、それはあっさり開錠された。
「何も、ここに集まる必要はないんや。朱王、お前荒神町の端っこに出逢い茶屋があるのを知っとるか?『美影屋』ちゅうんやが…… あぁ、お前に関係の無い場所やな?」
へらっと力の無い笑みを見せる弥彦に、朱王はどこか憮然とした表情で『あいにく』と返事をする。
弥彦はすっかり失念していたのだ、朱王が重度な女嫌いだという事を。
「あそこは、確かお京さんの……」
「そうやそうや、お京はんや。頭領が芸者に産ませた子供やが、お前よく覚えてるなぁ。お嬢、お前はどうや?」
突然話を振られ、海華の肩がビクリと跳ね上がる。
朱王がふと彼女に目をやれば、その顔はやけに青白く、口元はわずかに引き攣っていた。
「海華?どうした?お前お京さんの事覚えてないのか?」
「え!?いや……覚えてるわよ!覚えてるに決まってるじゃない、綺麗な人だったもの。お京さんのお店で、落ち合うのね?」
裏返った声、焦りを含ませた笑顔を向ける彼女に、朱王は小さく小首を傾げる。
海華の隣にいる志狼へ目を遣れば、彼は視線を宙に彷徨わせたまま、どこかそわそわと落ち着かない様子だ。
「……海華、江戸へ来てから、お京さんと会った事はあるか?」
「ある……訳ないでしょ!出逢い茶屋なんて、何の用事があるのよ!おかしな事ばかり言わないで? さ、おじさん続きを話してよ」
小さく朱王を睨み付け、海華はパタパタ手を振って弥彦に続きを促す。
どうにも不自然な兄妹と、やたら余所余所しい志狼を交互に見遣り、不思議そうに目を瞬かせた弥彦。
その彼の口から語られた計画、それは舞台となる出逢い茶屋ならではの方法だった。
溢れ返る数多の人でごった返す天下の往来、道の両側に立つ商家の店先には色とりどりの暖簾が穏やかに吹き抜ける風にたなびく。
店子の放つ威勢の良い呼び声に人々の談笑や値切りの要求、そして時に聞こえる怒鳴り声……。
喜怒哀楽が混ざり合う混沌の世界、溢れ返る人波の間を縫うように、一組の男女が道を行く。
風雨に曝され色褪せた濃紺の羽織袴を身に纏った五十には達しているだろうと思われる男の腕には、派手派手しい、しかし一見して粗末だとわかる着物を纏った三十路程の女が己が腕を絡ませしなだれ掛かるようにして歩いている。
薄い唇に好色な笑みと真っ赤な紅を引き、顔中を真っ白に白粉で塗り固めた女が何を生業としているのか、それは語らずともわかること、二人を側を通り過ぎて行く女の中には、あからさまに顔を背ける者もいた。
羽織袴に腰には二本差しという草臥れた侍と遊女風の女は、人目を避けるように周囲を雑木林に囲まれた脇道へと入る。
そこは荒神町の裏手に当たる場所、連れ込み茶屋が点々と建つ、どこか寂しくそして妖しい雰囲気の漂う場所だ。
何やら微かに言葉を交わしながら二人は蔦色をした暖簾を潜り抜け、一軒の古びた建物の中へと姿を消す。
煤けた戸口、軒下にぶら下がる提灯には『美影屋』と流れるような墨字で店の名が書かれている。
からからから、と小気味よい音を立てて男の手で絞められる戸口。
それを待っていたかのように、薄暗い店の奥から数人の人影が滑るように現れた。
「どうやら無事に着いたようやな?」
どこかのんびりとした雰囲気を纏わせ揺れる上方言葉。
腕にしがみ付いていた女がその手を解いたのを見計らい、男は髭面をにやりと緩ませる。
「この姐さんの芝居が上手かったからよ。姐さん、世話になったなぁ」
そう言いながら懐を弄り、少量の金を取り出した男はそれを女の手に握らせる。
それを受け取り懐に押し込む女は、表で見せていたより何倍も艶っぽい笑みを男へ投げ掛けた。
「なぁに、いいんですよぅ。海華ちゃんのお願いとなりゃ、嫌とは言えませんからねぇ。それに……旦那なかなかいい男だからさ、こっちもつい、その気になっちまったんですよ」
くにゃりと細い体をくねらせシナを作る女。
と、上り框に佇むひときわ小柄な影が小さく蠢く。
「お国さんありがとう。妙な事頼んでごめんなさいね」
「いいんだよ海華ちゃん。あたしとあんたの仲じゃないか。無事にお役目も済んだことだから、あたしはこれで失礼しますよ」
『それじゃぁね』と一言残し、派手な着物の袖口をひらひら振りながら、女は戸口を静かに引き開け暖簾の向こうへと駆けて行く。
その姿が見えなくなるのを待っていたかのように、奥から新たに二人の人影がその姿を現した。
「師匠……」
「よぉ朱王、久し振りだな。まさかお前とこんな所で会うなんざ、夢にも思っていなかったぜ」
師匠、そう呼ばれた男は汚れた下駄を脱ぎ中へと足を踏み入れる。
そんな彼を複雑な表情で眺める長身の影、朱王の背後から彼より頭二つほど小さな人影が姿を現す。
「こんな所って、あんまりな言い方じゃございません?」
非難めいた、しかしどこかしっとりと艶を含んだ声色の持ち主、それは透き通るような肌とすっきりとした目元、そして牡丹を思わせる艶やかな唇を持つ女だった。
鮮やかな浅葱色の着物に身を包み、江戸紫の羽織を纏うその女は年の頃は三十路を過ぎた辺りだろうか。 十九二十歳の瑞々しさは影をひそめてしまったが、全身から匂い立つような色気は隠し切れない。
成熟した女の色艶を醸し出す女は、手にした蝋燭を自らの顔の位置まで掲げ、狐に似た細い目をすぅ、と更に細めた。
「実虎さん、随分ご無沙汰しておりましたねぇ。……また、こうしてお会いできて、本当に嬉しいですよ」
闇と光がせめぎ合う空間で、男、実虎と謎の女の視線が、音もなく絡み合った。
「こりゃ口が滑っちまった、すまねぇなお京さん。あんたも……元気そうで何よりだ」
苦笑を交えてそう言った実虎に、お京と呼ばれた女は軽く頬を緩める。
そんな二人を交互に眺めつつ、弥彦はちらりと自らの背後を見遣った。
「お話しの途中ですみまへんな、お京はん、 桔梗姐さんは、もう来てはりまっか?」
「ええ、みえていますよ。一番奥にいらっしゃいますから」
「さいでっか、じゃあ錠を開けて……」
「あら嫌だ、それは弥彦さんの仕事じゃありませんか」
羽織の袖口を口許に当て、さもおかしそうにころころ笑うお京。
一本取られた、そう言いたげに自分の額をぺちりと叩き、何やら懐をまさぐり出す。
中から取り出した財布のような形の布の包み、それを片手に廊下の奥へ進んだ弥彦の姿が廊下に満ちる漆黒に溶ける。
やがて聞こえる、カチャカチャと金属が擦れ合う微かな響き。
ガチャ、一際重たい音の後に何かが軋む音がした。
「さ、開いたで。相変わらずごっつい錠前ぶら下げとりますなぁ」
「商売柄ですよ。よそ様の秘密は守らなきゃならないしねぇ。でも、これがあるから危ない話しも出来るってぇもんでしょう?」
意味深な言葉を放ち、お京は皆を中へ誘うように右手を闇へ向かって差し出す。
誰も、一言も発しないまま彼女の手が向いた方、弥彦が待つ店の奥へと歩みを進めた。
「さて、現の世界たぁ少しお別れですよ」
幽玄の暗闇の中で女の声が怪しく響く。
廊下の奥、弥彦が気だるげに寄り掛かっているのは、全身を駆け巡る血潮にも似た深紅の格子戸だ。
太い木組みに赤漆を塗り込んだ重厚な格子戸は、甘美、そして堕落の香り漂う吉原か、一度入れば二度と出られぬ暗黒の牢屋を思い起こさせる。
一度この格子戸を潜ってしまえば、鍵の持ち主であるこの店の主、お京の許可なくしては表へと出る事は適わない。
何故なら、戸の入り口にはここの守護神とも呼べるだろうか、身をくねらせる勇壮な竜の錺彫りが入った巨大な南京錠がぶら下がっているのだ。
「相変わらず手先が器用だこと。でも、お帰りの時はあたしにお声を掛けて下さいな」
「ああ、わかった。おい弥彦、今日集まるのは……これだけか?」
格子戸を潜り抜け実虎が問う。
先を行く弥彦はこちらを振り向かぬまま、首を横に振った。
「いいや、志狼はんがまだですわ。なんでも表玄関からは入らない言うてましたよ」
「玄関からは入らない、か。海華、おめぇの亭主はなかなか面白れぇ奴だな」
揶揄を含ませた台詞に、海華はバツが悪そうな面持ちで朱王の背後に隠れてしまう。
極限まで磨き上げられた黒光りする廊下を渡り、その両側に並ぶ部屋をいくつか過ぎた時、廊下の真ん中に巨大で、そして分厚い木の一枚板で造られた扉が現れ、皆の行く手を遮った。
先頭を歩いていた弥彦は勝手知ったる様子で、その扉を体全体を使い押し開ける。
ギィィィィ……と低い悲鳴を上げて開かれる扉、ヒヤリと冷たい空気がと埃の匂いが全身を包み込む。
その扉を抜け、辿り着いたのはこの店の最奥、お京の許可を得た者しか立ち入りを許されない秘密の小部屋だった。
日に焼け黄ばんだ襖に弥彦が手を掛ける。
音もなく開いた襖、その向こうには中庭に面した窓があるだけの、いっそ気持ちがいいくらいに殺風景な景色が広がる。
青畳に障子窓、そしてぽつんと置かれた煙草盆。
酷く寂しい景色の中に咲いた一輪の徒花、窓のすぐそばにきちんと正座しこちらへ視線を向ける花……いや、女の唇がやけに眩しく、艶やかに皆の網膜に焼付いた。
「やっと来たねぇ、待ち草臥れたよ」
ふぅ、と小さく息を吐き、着物の胸元を整える女の姿を前に、海華はくしゃりと泣き笑いの表情を浮かべた。
裾に秋草の柄が入った濃紺の着物が青畳によく映える。
ふっくらと肉付きのよい顔、透き通った漆黒の瞳、そして白魚の指を持つ三十路……いや、四十路に近いだろう女は、そんな海華へちらりと白い歯を見せた。
「お華……久し振りだねぇ。志狼さんのとこへ嫁いだと聞いたけど、あんた急に色っぽくなったじゃないか」
「嫌だ、お姐さんったら。からかわないで下さいよ」
微かに頬を染め上げて、海華は足取りも軽く女の元へ駆け寄る。
『ご無沙汰していました』そう三つ指をつき深々と頭を下げる海華を見る女の眼差しには、先程の突き刺すような物とはうって変わり、どこか慈愛を含ませた物へと変わっていた。
「積もる話もあるだろうが……今はのんびりしてる暇はねぇ。早速話しを進めたいところだが、桔梗、おめぇ尾行られちゃぁいねぇな?」
畳へどかりと胡坐をかき、傍らの煙草盆を引き寄せる実虎。
ふん、と小さく鼻で笑い、桔梗と呼ばれた女は細い指先でこめかみ辺りを掻いた。
「尾行られた?冗談じゃぁありませんよ。そこらの素人と一緒にしないで下さいな。念には念を、充分に警戒しましたから、どうぞご心配なく。……あぁ、どうやら志狼さんもおいでになったようですよ」
くっきりとした二重の目を猫のようにくるりと動かし、桔梗の視線が畳へと注がれる。
彼女の言葉が終わるのを待っていたかのように、海華の目の前にある畳の縁がゆっくりと持ち上がった。
みしみしと畳が軋む。
目の前で上がっていく畳を呆然とした面持ちで眺める海華の前に、誇りをかぶった頭が現れた。
「遅く、なりました」
「志狼さん!? どこから入って来てるのよ!」
自らの夫が、まさか畳の下から出てくるなど思っていなかった海華は、慌てて懐から手拭いを引っ張り出し、彼の頭や身体に絡み付く蜘蛛の巣やら埃を叩き落とす。
片腕が利かない彼には床から部屋へ上がるのも一苦労、朱王が彼の右腕を引いて中へ引っ張り上げ、再び畳を床板へと戻した。
「最初は天井裏から入ろうと思ったんだ、でも……忍び込める隙間がなかった」
肩や顔に付いた埃を手早く払い、志狼は実虎と桔梗へ向かい、海華同様深々と頭を下げる。
白い布で吊るされた左腕に目を遣った二人は無言のまま顔を見合わせる。
「ご無沙汰しておりました。何度も……ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
固い表情でそう告げる志狼に顔を上げるよう言い、実虎は無精髭の生えた顎を指先で擦る。
彼も、そして桔梗も、志狼の腕がどうなったのか、知っているのだ。
「しばらくぶりだな。海華と所帯を持ったと聞いた、こりゃめでてぇと祝ってやりてぇのは山々だが……どうもそんな状況じゃねぇ。わかるな?」
日に焼けた浅黒い顔を顰める実虎に志狼は何か言いたげに唇を戦慄かす。
しかし彼の口から言葉は生まれることなく、結局無言のまま首が縦に振られただけだった。
「まさかねぇ、伊賀衆から接触してくるなんて思わなかったけどさ、この間みたいに、訳の分からぬ盗人風情に襲われるよりはいいだろう?ある意味、運が良かったよ」
どこか困ったような笑みを見せる桔梗の視線は、時折背後にある障子窓へと向けられる。
ここがいくら安全な場所とはいえ、警戒は怠ってはならぬのだ。
「師匠、師匠や桔梗さんに接触してきた忍と言うのは、本当に志狼さんの……いや、伊賀の忍衆で間違いはないのですか?」
もしかしたら、伊賀の名を騙る別物かもしれない。
仮にそうならば、何の躊躇もなく叩き潰せる、そう考えたのだろう朱王の一言。
しかしその淡い期待は実虎によって一蹴された。
「間違いはねぇ。そうと気付いていたなら、わざわざ弥彦を送りださねぇし、俺たちも下ってはこねぇよ。忍を騙る半端者なんざ、手前ぇらで何とでもできるだろう?」
「そうさね。あたしらが手を出すまでもない。あたしらと一緒に下ってきた奴らは、伊賀者に間違いないよ。道中……志狼さん、あんたとお父上への恨みつらみを嫌になるほど聞かされたさ。あいつらの目的は金なんかじゃぁない、あんたと、あんたの主人、桐野様のお命だ」
赤く艶めく唇が紡ぐ、残酷な真実。
埃の臭いが揺らぐ部屋に、ぴんと緊張の糸が張り詰める。
軽口を叩くのがお気に入りの弥彦でさえ、手にした細い金棒をくるくる器用に回しながら神妙な面持ちで自らの膝先を見詰めている。
「――伊賀の隠れ里は、親父の故郷です。お袋と江戸へ落ち延びてくるまでの事は、ほとんど知りません。なぜ、今頃になって命を狙われるのか……」
苦しげに顔を歪め呟く志狼の指は、三角巾から除く左腕の肘辺りにきつくきつく爪を立てる。
両親を殺めたのは甲賀衆、自分の存在が伊賀・甲賀どちらの一族にとっても恥である、そう痛い程わかっているのだが……。
なぜ、短期間でこうも命を狙われるのか、全くもってわからなかった。
「まぁ、な。今の今までそれなり平穏無事に暮らしていたんだ、わからねぇのも無理はねぇ。志狼さん、あんたを殺そうとしている奴等はな……」
『あんたの弟と妹だ』
何の前触れもなく実虎から告げられた言葉は、志狼の、そして朱王や海華の脳味噌を芯から激しく揺さぶる。
凍りつく時の中で、志狼は目の前が白く霞んで行くのをはっきりと感じた。
「志狼さんに、弟妹が!?」
すっとんきょうな叫びを上げて目を白黒させる海華と、驚愕の表情で口を半開きにさせ、実虎を凝視する朱王。
当の本人は衝撃のあまり言葉もなく、ただ固く唇を結び正面を見詰めるだけだった。
「驚くのも無理はねぇ、弟妹と言っても腹違いだからな。おめぇの親父と里のくの一との間にできた双子だ」
「そんな……そんなはずねぇ!」
はっと我に返ったかのように志狼が腰を浮かせて叫ぶ。
凍り付いた時を打ち壊す絶叫、びくりと肩を震わせた海華の前で志狼の握り締めた拳がわなわな震えた。
「俺に、弟妹なんているはずがねぇ。親父とお袋が抜け忍になったのは……俺ができたからだ。それから、親父は一度も伊賀には帰ってねぇ。だから……」
「だから!あんたの父親が江戸へ下ってから出来た子供だ!いいか、人の話しは最後まで聞きやがれ!」
眉を逆立て野太い声色でそう一喝され、さすがの志狼もぐっと押し黙り、再び畳へ腰を下ろす。
実虎の気迫に圧倒された朱王や海華は、次にその唇が紡ぎ出す言葉を待った。
「あんたの父親……確か左近とか言ったな? 伊賀の里に暮らしていた時、許嫁がいた。互いの親が決めた相手だったらしい。だが、あんたの親父はその許嫁を捨てて、 敵方に当たる甲賀の女、つまりはあんたの母親と駆け落ちしたんだ」
淡々と語る実虎、その言葉はひどく冷静であり、それ故に志狼の父親、左近が冷酷な男のように聞こえる。
どこか不機嫌そうに顔を顰める志狼の横で、海華は気まずげに視線を彷徨わせた。
「駆け落ちした訳は……お狼さんがあんたを孕んだからに間違いねぇ。里の奴らは当然激怒だ。すぐさま二人を探し出し息の根を止めろと命が下りた。許嫁も逃げた相手を探して江戸へ下った。そして、ついに見付けたんだ。二人が名前を変えて隠れ住んでいる長屋を。その時、お狼さんは臨月間近、いつガキが生まれてもおかしくない状況だった」
まさに絶体絶命、仲間に知られれば二人は必ず殺される。
しかし、現実はそうならなかった。
「許嫁……名前は皐月と言った。奴は仲間に居場所を知らせず、人目を憚って左近に会った。ここにいる事は誰にも言わない、秘密は墓の下まで持って行く。だから……最後に一度だけ情を交えたい、とな。その時に出来たのが、七之助と文江の兄妹だ」
一度言葉を区切り、唇を舌先で湿らせる実虎をじっと見詰める志狼の顔は今にも泣きだしてしまいそう。
自分の父親が、母親以外の女と情を交えたなんて、そして自分に弟妹がいるなんて夢にも思わなかった。 出来る事ならば、一生知りたくない事実だった……。
じんわり痺れる脳髄に、完全に思考停止に陥った脳味噌。
泣きたいのか怒りたいのか分からぬ、ぬかるむ泥道に似たぐちゃぐちゃな気持ちを持て余し、志狼は低く唸って頭を抱える。
癖のある髪をぐしゃりと掻き混ぜたと同時、 海華の手が微かに震える肩へそっと添えられた。
「志狼さん……大丈夫?」
「――あぁ、平気だ。すまん、本当に……大丈夫だ」
『大丈夫』そう何度も呟きながら無理矢理な笑みをこちらへ向ける志狼だが、その言葉はどう考えても嘘、完璧なる強がりだ。
その証拠に零れる台詞は掠れて震え、乾いてひび割れた唇に血の気はない。
そんな二人を無言で眺める朱王と弥彦、そして窓辺の桔梗は何かを言いたげに互いに視線を送り合う。
「朱王、弥彦、ちょいと表へきておくれ」
細い顎で廊下に面する襖を指し、桔梗が静かに立ち上がる。
それにならい共に立ち上がった二人、朱王と弥彦は廊下へと消えていく桔梗の後を追った。




