第九話
御門を抜けた藤一郎は、お供を待つ素振りも見せず雑踏を潜り抜けて行く。
迷いもない足取り、彼の羽織る新鼠色の羽織と揺れる提灯を視界に捉え、距離を保って後を付ける朱王と都筑は、端から見れば奇妙な二人連れに思われるだろう。
スタスタと足早に通りを抜ける藤一郎は、黒い板塀に囲まれた長屋の一角を曲がり、暗い小道へと入っていく。
「奴め、どこへ行く気だ?」
太い眉を寄せて呟く都筑の問いは、夜の賑やかさに紛れて消える。
藤一郎の姿が完全に見えなくなり、二人は足音を忍ばせて角を曲がり、身を押し付け合うように塀へ隠れた。
塀の陰から顔だけをそっと覗かせる。
目を凝らさなければよく見えない闇の向こうでは、提灯の灯りがポツンと一つ灯るだけ。
地面に置かれた灯りの隣では、長屋横に停められた荷車の隣に屈み込む藤一郎がいた。
袂をまさぐるような様子を見せた彼の手は、荷車の上にあった筵を引っ張る。
ガサガサと乾いた音が微かに聞こえ、提灯の灯りが僅かに揺らぐ。
それと同時、ボッ!と重たい音を立てて、緑がかった炎が暗闇を葬った。
中腰となった細身の影が、黒い板塀へ浮かび上がる。
熱さを感じさせない炎を眺める男の横顔は満足げな笑みをたたえ、薄めの唇には、小さな笑みまでが浮かんでいるように見えた。
「貴様ッッ! 何をしているかーーッッ!」
突然真横から響き渡った、天地も揺るがす怒号に、思わず朱王の肩が竦む。
米神に青筋を浮き上がらせた都筑が、正に鬼の形相で塀の影から飛び出した刹那、放火魔……藤一郎は足を滑らせながらも、脱兎の如くその場から逃げ出していた。
「待てッ! 貴様逃げるなッッ!」
雷の如き怒号を張り上げ走る都筑だが、思いのほか藤一郎の足は速い。
逃げられる、そんな焦りはあるが、朱王は燃え盛る炎を消すので手一杯、どうする事も出来ないでいる。
土煙を上げる藤一郎が全速力で角を曲がる。
姿が消えた、その瞬間、ドーン!と重い物がぶつかる鈍い音が響き、塀の影から人影が吹っ飛んで来るのが見えた。
人形のように吹き飛ばされ、派手派手しく道に転がる人影……それは藤一郎だ。
顔面を強か地面に打ち付け、声にならない悲鳴を上げる藤一郎を、都筑が襟首掴んで引き立たせ、腕を背中へと捻り上げる。
一瞬の事に何がおきたのか分からないまま、筵をふみつけ最後の火を消した朱王が顔を上げると、道の向こうから二つの影が走り寄って来るのに気付く。
『大丈夫か!?』そう響いた声、それは確かに志狼のものだった。
「都筑様! 朱王さん、大丈夫か!?」
「兄様! 怪我してない?」
「俺は平気だ、火も消した。さっきのは……志狼さんか?」
海華から渡された手拭いで頬を拭う朱王の問いに、志狼はそうだとばかりに頷く。
「朱王さん達を追っ掛けてたら、ここに入ってったのを見てよ、向こうの道が、回り道になってるって、海華が教えてくれたんだ。
挟み撃ちにすりゃぁいいと思って走ってたら……」
「あの人が凄い勢いで走って来たから、志狼さんが身体ごとぶつかって、弾き飛ばしたのよね」
都筑に絞め上げられ、観念したのか塀に背を向けへたり込む藤一郎を横目に、海華が続ける。
『また逃げられたら悔しいじゃない?』
そう言いながら片目をチョンと瞑る彼女を前に、もう苦笑いするしかない。
下手人は捕らえた、これからは後始末だ。
桐野を呼び、何故か屋敷で留守番をしてくれている留吉を呼び、奉行所にも報告をして……。
やる事は山程ある。
藤一郎を都筑に託し、三人はそれぞれに走って事の次第を伝えていく。
焦げた臭いを纏った長い夜が明け、全員が屋敷に戻った頃には、東の空は既に白い光で満たされていた。
※※※※※※※※※※
火付け狐が捕らえられた。
その一報は瞬く間に江戸の街を駆け巡る。
捕らえたのは、北町奉行所の同心であるとだけ書かれ、朱王ら三人の事は一文字も書かれる事は無かった。
当の都筑は周囲から称賛され、上からもお褒めの言葉を貰ったようだが、本人は手柄を独り占めしているようで朱王達に申し訳ない、と桐野や高橋に漏らしているらしい。
勿論、手柄だの何だのは朱王らに関係は無いし、下手に騒がれる方が困る。
ただ、都筑が評価される事を桐野が心底喜んでおり、そんな彼を見る事が三人の喜びに繋がる。
そして少しは役に立てたのだと、誇りに思えるのだ。
この日の夜は、都筑と高橋を屋敷に呼んでの酒盛りだ。
そこには勿論、修一郎の姿もある。
元より律儀な都筑は、せめて三人に礼を、と、色々土産を持ってきてくれた。
前から気になっていたが、人気で品薄だった兎饅頭を貰った海華は今、大喜びで酒の肴をこしらえている。
朱王と志狼も普段はなかなか口に出来ない上等な酒を貰った。
それはそれで有り難いのだが、彼らにとってもっと欲しかったのは、藤一郎のその後について、の話だ。
いつもより多めの酒と肴を海華が運んで来た後、話の口火を切ったのは、海華の酌を受けて上機嫌の修一郎だった。
「ねぇ修一郎様、藤一郎は今、どうしてるんですか? あたし、凄く気になっちゃって」
空になった猪口に並々と酒を注ぎ、上目遣いで修一郎を見る海華が猫なで声で問う。
ゴロゴロと喉でも鳴らしそうな勢いに、朱王と志狼は顔を見合わせ苦笑い
。
桐野の方を窺い見れば、彼も同じ表情をしていた。
「なに、そんなに気になるのか? それならば都筑、お主が話してやれ」
ニヤ、と意味深な笑みを投げ掛けてくる修一郎へ、恐縮したように頭を下げた都筑が、コホンと一つ咳払いをする。
「では、某から……。藤一郎が火付け狐だと言うのは、もう分かっているとは思う。なぜあちこちに火を付けたのかという事だが……気晴らしだったと、申していた」
『気晴らし』
その一言に、場を静寂が支配する。
シン、と静まり返って部屋で、海華は大きな目を何度か瞬かせた。
「気晴らし、って、そんな……」
「本当に、それだけの理由で火付けを? 意味が分からねぇなぁ」
呆気にとられた海華と、志狼の溢した呻きじみた台詞に、都筑はもう一度、コホンと咳払いをした。
「毎日、屋敷の中で勉強漬け、どこへ行くにも何をするにも、必ず親や使用人の目がある。何とか御付きの男を買収して、吉原に入り浸ったものの、気持ちは晴れる事が無かったようだ」
鬱屈する気持ちをとうしたら良いか……。
次第に勉強にも身が入らなくなった頃、ふとある事を思い出す。
まだ幼かった頃、庭で行われていた落葉焚き。
メラメラ燃える炎を眺めていた時に感じた、あの高揚感を。
「始めは、竈の火やら街角の落葉焚きを眺めていれば十分だったようだ。だが、そのうちもっと大きな火を見たい、周囲が慌てふためく様を見たいと、要求が抑えられなくなったと話していた」
それからは、親の目を盗み吉原へ通う度に火付けを繰り返していく。
邪魔な御付きには小遣いを握らせて女郎屋へ行かせ、その合間に火を付けやすそうな場所を探した。
「火に『色を付けた』のは、これも気紛れだったそうだ。たまたま蘭学の本に書いてあった、と。それが狐火だと騒がれたから、味を占めたようだ」
そう自ら話しをしながら、都筑は三度、小さな咳払いをした。




