第四話
「お、めぇが弁天小僧!?」
「やっぱり……! うちの屋根板踏み抜いたのはお前だったのか!」
海華の台詞に驚愕し、そしてどこか納得したような様子で叫ぶ志狼と朱王、気まずげにうつ向き軽く頷いた弥七は、先程まで海華が腰掛けていた岩にちょんと座る。
乾いてひび割れかけた唇から、弱々しく掠れた溜め息が漏れた。
「そうだよ。俺が弁天小僧だ。朱王さんとこの屋根踏み抜いたのが、運の尽きだったよ。上手く逃げおおせると思ったんだけどなぁ……」
がっくり肩を落とす弥七の表情は、もう辺りを包む漆黒に塗り潰され窺い知る事はできない。
こんな場所で光源を得ることなど不可能であり、少し離れた場所にある辻行灯の光も、ここまでは届かないだろう。
ともすれば逃亡されてしまうかもしれないという一抹の不安が、朱王、そして志狼の中からも消えることはなかった。
「―― なぜ、あんな真似をしたんだ? 蔵を破って金を盗るだけならわかる。どうしてそれを赤の他人へ配って廻った?」
「どうして? そりゃ簡単な理由だ。必要としている人らがいたからさ。 ……朱王さん、あんた太助を見てわからなかったか? ほんの少しの金がありゃぁ、母親の薬代になる。あの家族も何とか食っていける……。 金がねぇってだけで、貧乏だからってだけで、地獄見る人らが五万といるんだ。俺が蔵からくすねた額なんざ、大店の奴等からしちゃぁ鼻糞みてぇなもんだろう? 」
弥七らしからぬ低く影を含んだ声色。
全身を包む冷えた空気に一度身を震わせた海華は、足音を忍ばせ志狼へと近寄る。
夜の向こう側で、再び掠れた溜め息が漏れた。
「金がねぇせいで、地獄見る奴がいるんだよ。昔の俺や、姉さんみてぇにな」
ボソリと呟かれた一言に、海華は何度か目を瞬かせる。
そう、弥七には姉が一人いたはずだった。
「おめぇ、姉さんがいるのか?」
志狼にとっては始めて耳にする話し、その問い掛けに、一瞬の静寂が辺りに広がる。
「あぁ。『いる』、じゃなくて、『いた』だけどな。十八の年に肺病で死んじまった。吉原に売られて、一年経った頃だったよ」
尻すぼみに消えていく寂しげな声を掻き消すように、乾いた風が周囲の木々を揺らし吹き抜ける。
「俺の生まれは越後の端にある小さな村でさ、親父とお袋は米農家だった。……っても、小作人の貧乏百姓だったけどな。 働いても働いてもその日食う物にも事欠く始末で、家族揃っては働きづめだった。 そんな親も、俺が三つの時分に病で死んで……。俺と二つ上だった姉さんは、越後獅子の親方へ預けられた」
「越後獅子って、確か獅子舞いみたいなのよね? 」
「ああ、そうだ。縞のモンペに獅子頭かぶってさ、姉さんと二人で毎日道端で逆立ちしたり、くるくる宙返りさ」
暗闇から響く台詞に『なるほどな』と微かな呟きを漏らした朱王。
あの人間離れした跳躍力は、子供の頃に培われたものなのだと、今ようやく理解できたのだ。
「姉さんが吉原へ売られたのは、親方に預けられて、ちょうど三年目だった。俺はただ、泣いてばかりで……姉さんが連れて行かれるのを、黙って眺めてるしかできなかった。 その時に思ったんだ。金貯めて、江戸へ行って 必ず姉さんに会いに行くってさ。それからは必死に働いた。十三を過ぎて、親方の元から離れた後は、金になることなら何でもやった。 ……十七の時にようやく江戸へ……吉原に姉さんを訪ねて行ったんだ。でも、もう遅かったよ」
「遅かったって、それ……」
弥七の口から出るであろう最悪の結果を予想しているのだろうか、海華の声がわずかに震える。
「前の年に、死んでたんだ。風邪を拗らせて、呆気なかったと聞いた。勿論、骸も形見も何も無しさ。もう少し早く、金を持って会いにこれていたら……姉さんの顔、拝めたかもしれねぇのにな」
淡々と響く悲痛な告白は、木々が黒い葉を揺らす聖域に溶けて消える。
一言も言葉を発せぬままに立ち尽くす三人の前で、弥七を飲み込む暗闇が、音もなく揺れた。
「金がありゃぁ、姉さんも俺も、もっと違う生き方ができたんだ。俺、後悔したね。もっと早く姉さんを吉原から出してやりたかったよ」
自嘲を含ませた小さな笑いが聞こえたと同時、トスンと地面を踏み付ける微かな音が三人の耳に届く。 逃げるのではないか、一瞬身構えた志狼、しかし弥七はそんな心配とは反対にこちらへと近寄ってくる。 朱王のすぐ近くで彼の気配がした刹那、暗黒が支配していた世界に、一筋の白い光が舞い降りる。
天を覆っていた雲の合間から、月が顔を覗かせたのだ。
網膜に映り込む世界、話し声だけで形作られていたそこに現れた四人の人影。
朱王らが目にした弥七は、寂しげな、そしてどこか吹っ切れたような面持ちを三人に向けていた。
「貧乏人助けて何が悪りぃんだ! ……なんて、開き直るつもりなんかねぇよ。正体バレちまった以上は、もう逃げも隠れもしねぇ。番屋にでも部行所にでも連れてってくれ」
静寂に包まれた世界の中で、戸惑い顔を見合わせる志狼と海華。
その隣で、朱王だけは深く腕組みし眉根を寄せたまま弥七を見下ろす。
そんな彼へちらりと視線を投げ、弥七はすぐに志狼へと向き直った。
「志狼さん、あんたの主人は北町奉行所の与力様なんだろう? このまま俺の事を突き出してくれ。でけぇ手柄に……」
「ちょっと待て」
弥七の訴えを遮るように、朱王の思いきり不機嫌な声が飛ぶ。
「手前勝手に名乗り出るのは構わんが、払う物払ってからにしてくれ」
「払う? 払うって何をでぇ?」
「お前が踏み抜いた屋根の修繕代に決まっているだろう? お前が寄越した金は、御上に返したからな」
『耳を揃えてしっかり返せ』そう吐き捨てながら鋭い目付きで自分を睨み付ける朱王に、弥七は小さく肩を竦めて見せた。
「そんな事言われてもなぁ……。朱王さん、あんたにゃあの晩、修繕代は渡しただろう? あれじゃ足りねぇのか? もしかして、檜の屋根板にしようってんじゃぁ……」
「馬鹿言え。他所様から盗んだ金なんざ受け取れるか。あれは桐野様にお返しした。いいか、お前が真っ当な仕事で稼いだ金で弁償しろ。払い終わった後は、奉行所でも番屋にでも行けばいい。お前がどうなろうが、俺の知ったことじゃないからな。それまでは……」
一度言葉を区切り、小さく咳払いをした朱王は、自身の斜め前に立つ海華と志狼をジロリと睨む。
彼の口からどんな言葉が飛び出すのか、二人は固唾を飲んだ。
「それまでは、弥七が今言ったことは、ここだけの秘密だ。いいか、絶対に誰にも喋るなよ?」
『わかったな』と、念を押す朱王を前に、志狼は呆気に取られた面持ちで頷く。
丸い目をさらに丸くし朱王を凝視する弥七を横目に、海華は小さく口角をつり上げた。
彼女にはわかっていたのだ、ひどく冷たく聞こえる兄の言葉、その奥に潜む本当の意味を……。
「あんな事言うなんて、兄様も素直じゃないんだから」
縁側へ置いた小桶で糊を溶きながら海華は赤い唇の間から白い歯を覗かせる。
『うるさい』そうぶっきらぼうに言い放ち、仏頂面を崩さないまま、襷掛け姿の朱王は縁側に立て掛けた障子戸の黄ばんだ障子紙へ、思い切り拳を打ち込む。
弥七の告白から十日あまりが過ぎた。
あの稲荷の森で弥七と別れてから、朱王らが彼と会うことはない。
ただ、あの日から弁天小僧はプッツリとその姿を現さなくなっていた。
奉行所はほっと一安心だが、庶民はガックリ肩を落としているのは言うまでもない。
ただ、その時期と同時に弥七も長屋から姿を消してしまったのだ。
きっと逃げたんだ、そう志狼は憤慨したが、海華はそう思ってはいないようで、そのうちひょっこり出てくると呑気なものだった。
「俺の知ったことじゃない、なんてさ。弥七さんの事、お縄にさせたくなかっただけなんでしょう?」
「だから、うるさいといってるだろう。口ばっかり動かしてないで、手を動かせ、手を」
古くなった障子紙をバリバリ引き破り、骨だけとなったそれを二枚重ねて持ち上げた朱王は、口をへの字に曲げたまま、井戸へと向かってしまう。
朱王の姿が白壁の陰に隠れたのを見計らったかのように、右手に糊をたっぷり付けた刷毛を持った志狼が、海華の右手にある雨戸の横から顔を覗かせた。
「朱王さん、やたらと機嫌が悪いな?」
「違うわよ、照れてるだけ。本当はね、弥七さんの事気に掛けてるのよ。あの人の境遇、兄様やあたしとそっくりなのよね。だからかしら?」
滑らかに練った糊を刷毛で掻き混ぜ、小桶ごと志狼に差し出して海華が呟く。
手にした刷毛をその桶に突っ込んで、志狼はわずかに顔をしかめた。
「境遇がお前達とそっくりって……、どういう事だ?」
「あら、前に話してるじゃない。 上方から江戸に下ってきてすぐに……あたし、吉原へ身売りする所だったって。忘れちゃった?」
朗らかな笑みを見せる海華とは正反対に難しい面持ちのままで、志狼が『あぁ』と低い声色で答える。 そう、遥か昔、海華と始めて出逢った頃に一度、聞いた事があったのだ。
金も住む場所もない極貧状態で、海華は自らを遊郭へ売り兄へ金を渡そうとしたのだ。
「一歩間違えば、兄様も弥七さんと同じになってたの。それを一番わかってるのは、兄様なのよ。だから、あの夜あんな事を言ったんだと思うわ」
にっこりと微笑み、緩み始めた襷を手早く絞め直しながら、次の障子を取りに行こうと腰を上げる海華。
彼女の台詞に同調するように無言で頷き、志狼は再び刷毛を持つ。
『屋根の修繕が終わった』と、大家が八丁堀 へ伝えた来たのは、その日の夕方、烏の群れが杏色に染まる夕空を飛び交う頃の事だった……。
部屋の屋根が直った、その一報を受けた翌日朱王は早速自らの荷物を運びに中西長屋へと向かっていた。
出来ることならば、今日のうちに長屋へ帰りたい、八丁堀で居候生活を始めて、かなりの時間が過ぎている。
桐野や志狼には本当に世話になり、言葉にならないほど感謝しているのだが、やはり粗末なれど慣れ親しんだ我が家が一番落ち着くのだ。
気持ちよく晴れ上がった秋空の下、着物や仕事道具を包んだ大きな風呂敷包みを二つ抱えて長屋へ急ぐ朱王。
雨風に曝され小汚なく変色した長屋門、ワイワイと賑やかな住人達、いつも見慣れていた風景なのに、少しばかりここから離れていただけで、懐かしく感じてしまう。
大家へ挨拶を終え、幾分緊張しながら部屋の屋根を見上げれば、そこは一部が真新しい白木で覆われ、降り注ぐ陽射しを眩しく反射させている。
ソロソロ戸口を開けば、そこには屋根が破れる前の光景が目の前に広がっていた。
雨が続いた時は、あの部屋はどうなるのかと案じていたが、幸いにも畳は無事なようだ。
ホッと安堵の溜め息をつき、早速荷物の片付けを始めた、ちょうどその時だった。
とんとん、と遠慮がちに戸口が叩かれたのだ。
帰ってきて早々に仕事の依頼か? そんなことを思いつつ土間に下り、戸口を引き開けた朱王の目が、こぼれ落ちんばかりに見開かれる。
風に巻かれて舞い踊る深紅の紅葉、肩口にまとわりつくそれを手で払い除けながらその場に立っていたのは、行方をくらませていた弥七、その人だった。
「ご無沙汰、してます……」
以前の威勢はどこへ行ったのか、やたらと神妙な面持ちで頭を下げる弥七を前に、朱王は言葉を失いポカンと口を半開きにさせる。
「おま……、え。どうしてここに……?」
「朱王さんと約束したもの、渡しにきたんだ。中、入れてもらってもいいかい?」
わずかに顔を伏せ、消え入りそうな声を出す彼を朱王は訳も分からぬままに部屋の中へと招き入れる。 ばたん、と乾いた音を立てて戸口が閉め切られ、室内を静寂が支配した。
「いきなりすまねぇな。渡すもの渡したら、すぐ帰ぇるからよ」
土間に突っ立ったまま、おもむろに懐をまさぐった弥七は、茶色い布で包んだ握り拳ほどの大きさの包みを朱王へと差し出す。
「修繕代だ。勿論、盗んできた金じゃねぇ。 傘売って稼いだ金だ。いまはこれっぽっちしか用意できねぇけど、残りは後で必ず」
ぐっと差し出される包みを無言のまま受け取り、重さを確かめるよう強く握る。
ずしりとした手応え、これだけの金を得るために、いったい何本の傘を売ったのだろう。
きっと並大抵ではなかったはずだ。
「…… 確かに受け取った。これは、大家に渡しておく。足りない分は後からな。ところでお前……」
『弁天小僧は辞めたのか?』そう静かに問い掛けた途端、弥七は泣き笑いの表情を浮かべ、小さく頷く。
今にも泣き出してしまいそうな彼の様子に、朱王は不思議そうに目を瞬かせた。
「ああ、弁天小僧はもうおしまいだ。俺、自分がやった事が間違いだったって、やっとわかったよ。―― こないだ、太助に言われたんだ。『金が無くなっても大丈夫、また弁天小僧がくれるから。そう父ちゃんが言ってたよ』って……」
はぁぁっ、と肺の底から大きく息を吐き出しながら、弥七ががっくり肩を落とす。
その姿は、悲痛そのものだ。
「そうじゃねぇんだよ。俺、そんな風に思って欲しくなんかねぇんだ。このままじゃ、こいつは駄目になる。きっと、俺が金を配った他の人らも駄目になる。だから……もう、弁天小僧はおしまいだ」
一度楽を覚えた者は、苦労を嫌い努力を怠る。
結果、堕落していく。
それを、弥七はまざまざと見せ付けられたのだ。
「親切が必ず人の役に立つとは限らないって事だ。でも、お前のした事で助けられた人も少なからずいる。それも、事実なんだ」
真っ直ぐに自分を見詰める朱王の言葉に、弥七はゆっくり顔を上げる。
丸く、どこか愛嬌のある目元は、うっすら濡れているようだ。
「これから、どうする気だ? あの部屋は引き払うのか?」
このまま何もかも捨て、江戸から出ていく気ではないか、朱王はそんな気がしてならない。
しかし、そんな思いを跳ね退けるように弥七の首は横に振られた。
「いや、またあそこに帰るさ。他に行くところなんてねぇし、あんな貧乏長屋でも居心地はなかなかなんだぜ?」
にっ、と白い歯を覗かせ笑う弥七と同じ表情を作り、朱王は静かに頷く。
そして突如室内へ上がり込んだかと思うと作業の下から酒瓶を引っ張り出した。
「せっかくきたんだ、一杯やっていけ」
「いいのかい? いやぁ、朱王さんに酌されるなんて、照れるねぇ」
「誰が酌をすると言った? 手酌だ。手酌」
デレデレ鼻の下を伸ばす弥七に朱王の冷たい台詞が飛ぶ。
屋根に空いた穴から訪れた義賊は、いつしかよい飲み友達と変わる。
昼間から繰り広げられる酒盛りを、止める者などこの部屋にはいない。
柔らかな酒精の匂いが漂う室内に吹き込む隙間風の冷たさが、江戸の街に実りの秋の訪れを知らせていた。
終




