第三話
翌日の夕方、日本橋にある呉服問屋、錦屋から大きな風呂敷包みを抱え暖簾をくぐる朱王の姿があった。
一仕事終われば新たな仕事が次々に舞い込んでくる、一息つく間も無く次の仕事に追われ、こうして材料となる反物や胡粉を買い出しに走らねばならないのだ。
体を休めている暇もないなど、売っ子ならではの悩みだろう。
とにかく、一日町を駆け巡り必要な物を揃えた彼は、今の居候先である八丁堀へ戻ろうとしていたところだ。
女将のにこやかな笑顔に見送られ、店を出た朱王の頭上に広がるのは、重く垂れ込めた鉛色の雲、昨日の日本晴れはどこへ行ってしまったのか、今にも一雨きそうな空模様である。
帰路の途中で降られるだろうか、一度店へ戻り傘を借りようか……そんなこんなを考え、くるりと踵を返した朱王から少し離れたら道の向こうに、どこか見覚えのある一人の男が立っている。
刻は夕方、逢魔ヶ刻。
世界を包み出す紫色の闇の幕に隠されて、男の顔はぼんやりとしか映らない。
「あれは……弥七さんじゃないか?」
重たそうに風呂敷包みを抱えたまま、目を凝らす朱王の呟きに答える者は勿論いない。
そんな朱王に全く気付いていない男は、何度か辺りを見渡した後、小走りに道沿いに建てられた黒い板塀の陰へと消えて行く。
反射的に、朱王の足は地を蹴っていた。
足音を忍ばせ塀へと走りよってから、始めて朱王は気付く。
塀の向こうは錦屋の敷地、ちょうど母屋の裏口に通じる場所なのだ。
道端に置かれた火消し桶に身を隠し、息を潜める朱王の目の前で、黒い影法師と化した男は再び辺りに視線を投げた後、ぽんぽん、と数度その場で飛び上がる。
その視線は、頭上高くそびえ立つ板塀へと向けられていた。
一体何をしているのだろう? と小さく首を傾げる朱王。
次の瞬間、バシッ!と鼓膜にぶち当たる乾いた衝撃と共に、今しがたまで視界に捉えていたはずの男の姿が忽然と消え去る。
宙に、押し寄せる闇に溶けて消えてしまったかのような錯覚に襲われて、朱王は思わず生唾を飲み下した。
化け物ではない、ましてや幻でもない男が突然消え去るなどあり得ない。
混乱した脳味噌が弾き出した答え、それを確かめるように顔を跳ね上げた朱王の目に飛び込んできたのは、塀の天辺からぶら下がる人影、細身の体をモゾモゾと揺らし瞬く間に塀の向こうに消えていく影を茫然と眺める朱王の口は半開きだ。
他の男に比べて上背のある朱王をも凌ぐ高さの板塀を軽々と越えられる者などそうそういない。
あれが弥七だとしたら……やはりただの傘売りではなかったのだ。
薄暗いとはいえ、物取りに入るにはまだ早い時間帯、家人も使用人も忙しく動き働いているこんな時分、錦屋に忍び込み何をしようと言うのだろう?
ここで悪戯に騒ぎ立てても逃げられてしまう可能性が高い。
ここから侵入したのならば、逃走するのもここからかもしれない。
駄目で元々、ここでしばらく待ってみよう。
そう決めた朱王は風呂敷包みを火消し桶の傍らに置き、自らもその陰に再び身を隠す。
雲行きは次第に怪しくなり、いつ大粒の雨が降り出してもおかしくない状態だ。
夕飯までに戻らなければ、また海華が心配するだろう。
暗く変わる空とそびえる板塀を交互に見遣る朱王の口からは、掠れた溜め息が何度も漏れる。
吹き抜ける風も徐々に冷たいものに変わり、足元を舞う枯葉は土埃にまみれ、ひどく寂しげだ。
太陽は完全に水平線の彼方へ沈み、藍色の空に星屑が瞬き始める頃、止まっていた朱王の時間は動き出す。
板塀の上から、丸い人の頭がニュッと突き出たのだ。
朱王の存在など気付いてもいないだろう影は、塀から軽々と地面へ飛び降り、体に付いた埃を払う仕草を見せる。
火消し桶に隠れて己を盗み見ている者の存在など気付いてもいないだろう、影は何事もなかったかのようにその場から離れようとし、その背中が自らの前を通り過ぎたと同時、朱王は桶の陰からサッと身を踊らせる。
『おい』そう短く声を掛けた刹那、地面へと長く延びた男の影が、びくりと派手に震えた。
「あんた、弥七さんだろう?」
小刻みに震える影へ掛けられた朱王の問い。
それに対し何も答えぬまま、影はゆっくりとこちらを振り向く。
「朱王、さん……?」
掠れた声で朱王の名を呼ぶ男、弥七の顔は紙のように真っ白で、背後に広がる濃紺の闇にボンヤリ浮かび上がってしまうほどだ。
「なんで、ここに……?」
「それはこっちの台詞だ。あんた、この店で何をやっていた? 」
「何をって、俺はただたまたま通り掛かって……」
忙しなく宙をさ迷う視線。
薄暗い中でも動揺している様子が手に取るようにわかるその姿に、朱王の眉間の皺がますます深くなる。
「何がたまたま通り掛かっただ。俺はみんな見ていたんだ、あんたが中へ忍び込むのも、出てくるのも全部な」
微かに怒気を含ませたその声色に、弥七はきつく唇を噛み、俯いてしまう。
頭上を飛び去る烏の耳障りな嘲笑いが紫の空に響いたと同時、弥七の顔がゆっくりと朱王へむけられた。
「あぁ、そうだよ。そこの店へ忍び込んだよ。だからなんだってんだ?」
窮鼠猫を噛むの典型か、脅しと怯え両方の色をにじませた視線が朱王に突き刺さる。
口調こそは乱暴なものの、固く握り締めた両の拳は激しく震えていた。
「塀越しに店へ入っちゃあいけねぇって、どこぞの誰が決めたんでぇ? 俺は、ただの用達しであそこに入った、それだけだ!」
半ば悲鳴のような叫びが弥七の口から迸る。
破れかぶれの言い訳に、最早朱王は呆れ果てていた。
「あんた、そんなめちゃくちゃな……」
「めちゃくちゃも何も関係あるかッ! 俺は、何も……やましい事なんざなんにもしちゃぁいねぇやっ! 妙な言いがかりつけねぇでくれっ!」
耳朶まで真っ赤に染め上げ、そう怒鳴る弥七の足が、ドンッ!と激しく地面を踏み締める。
身体全体を使い荒い息を吐く彼のぎらついた眼差しは、朱王へと注がれたままだった。
「頼むから、余計な詮索しねぇでくれ……。 あんたを、余計な事に巻き込みたくねぇ……。 いいか、これ以上俺に構うな! 一生後悔することになるぞっ!」
物騒な一言を吐き捨てて、弥七は弾かれるように踵を返し、その場から駆け出して行く。
土煙を巻き上げて疾走し、あっという間に見えなくなっていく後ろ姿を、茫然と見詰める朱王の影が長く長く地面へ伸びていく。
買い物に出掛けた海華が、そのままふっつりと姿を消したのは、それから二日後の事だった……。
「あいつ、いたか!?」
「いや、どこにもいねぇ! 長屋にも帰ってねぇみてぇだし……どこ行っちまったんだ!」
斜陽の射し込む八丁堀、桐野邸に緊迫した朱王と志狼の叫びが響き渡る。
昼過ぎ、八百屋へ行くと出掛けたまま未だ帰らぬ海華の身を案じ、街へと走った朱王と志狼。
しかし、彼女の姿はどこにもなく、行き付けの八百屋を訪ねれど、今日はここを訪れていないとの答えしか返ってこない。
気紛れにどこか別の場所へ寄っているのか、そうも考えはしたが、それにしては帰りが遅すぎる。
走れるだけ走り、心当たりを探したが海華の姿はどこにもなかった。
まるで、神隠しにでも遇ったかのように、ふっつりと消えてしまったのだ。
残された男二人は、もう心配を通り越して焦り出す。
『まさか拐かされたんじゃ……』そう志狼が真っ青な顔でこぼした刹那、朱王の頭の中で一人の男がニヤリと不気味な笑みを見せる。
一際大きな、激しい鼓動を打ち鳴らす心臓、みるみるうちに強張っていく朱王の表情に志狼が気付かぬ訳はない。
「朱王さん……あんた、何か心当たりがあるんじゃないのか?」
玄関先に立ち尽くし、じっと射るような目付きでこちらを見詰める……いや、睨み付ける志狼から無意識に顔を背けて、朱王は無言のままに頷いた。
もしも海華が拐われたなら……今の状況では相手はあの男しか考えられない。
『後悔することになる』あの台詞が頭の中で反響するのを感じながら、朱王は二日前、錦屋であった事を洗いざらい話して聞かせる。
これ以上、黙り続けている訳にはいかなかった。
「どうしてそれを早く思い出さねぇんだッ!」
こめかみに青筋を立て、烈火の如く怒る志狼は今にも朱王に殴り掛からんばかりの勢いだ。
その怒声に驚いたのだろう、松の枝に止まりノンビリと毛繕いをしていた雀が、チチチ……ッ!と小さな叫びを迸らせ、慌てふためきその場から飛び去ってゆく。
「すまん、まさかあいつが海華をどうにかするなんて思わなかったんだ。とにかく、早く下川長屋へ行こう。部屋にいるとは思わないが……周りから、何か聞き出せるかもしれない」
切羽詰まった表情を見せる朱王。
眦をつり上げたまま、志狼は首を縦に振ったかと思うと、一瞬のうちにその場を駆け出して行く。
その疾風の如き素早さに狼狽えつつ、朱王も足を縺れさせながらその後を追った。
道を行き交う人混みをすり抜け、汗を飛ばし息を切らせてやっと辿り着いた弥七の住まう下川長屋は、早々と夕餉の支度に取り掛かる女らのお喋りに大輪の花が咲いている。
その間を縫い、一番奥にある弥七の部屋の前に立った二人。
額に玉の汗を浮かべた志狼が、風雨に曝され変色した戸口を勢いよく叩き付けた。
「おい! 弥七っ! 海華、いるかっ!? おい……弥七っ! ここを開けやがれ!」
鬼の形相でドンドン、バンバンと戸口をぶち破らんばかりに打ち据える志狼の姿に、その場に居合わせた女らは眉をひそめ、そそくさと各々の部屋へ戻っていく。
さっきまでの賑やかさは瞬時に消え去り、ただ怒声を張り上げ戸を叩き続ける志狼と、海華の姿を探して忙しなく辺りを見回す朱王の姿があるばかり。
志狼の背後に立つ朱王が、ふと気配を感じ長屋門の方向、己の背後に視線を投げると、そこには粗末な着物を纏った一人の子供が不思議そうな眼差しでこちらを見詰めていた。
「にぃちゃんなら、いないよ。さっき出掛けてった」
長屋門の陰から顔を覗かせる子供、それは以前、弥七の部屋に飛び込んできた太助と言う名の少年だった。
「出掛けた、って……一人でか?」
そう訪ねる朱王の元へ、いささか緊張した面持ちで近寄った太助は、息を切らし戸口と睨み合う志狼をチラリと見遣った後、小さく首を振りながら朱王を仰ぎ見た。
「一人じゃないよ、こないだ来てたおねぇちゃんと一緒だった」
太助の口から放たれた台詞に、志狼は弾かれたように背後を振り返る。
汗にまみれた横顔が、ぎらつく夕日に照らされた。
「海華だ……! おい、弥七がどこに行ったのか知らねぇか? あいつの行きそうな場所、どこでもいいから教えてくれ!」
鬼気迫る表情で己に迫ってくる志狼に一瞬怯えた様子を見せた太助だが、すぐ何かを思い出したかのように丸い目をパチパチ瞬かせる。
「きっと、お稲荷さんのとこだと思う。にぃちゃん、よくお社の裏にある池に行ってたんだ。静かで落ち着くって。だから、きっとあそこにいるんじゃないかな?」
『ここの近くだよ』そう言いながら門の方角を指差す太助に短い礼を言い、志狼はその場から駆け出す。
この近くにある稲荷と言えば三島稲荷しかない、中西長屋からも近いため、朱王は場所をよく知っている。
「こっちの方が近道だ!」
道の端から延びた小道を指差し、朱王が叫ぶ。
前につんのめりつつ急停止し、方向転換した志狼はすぐさまその小道を駆け、あっという間に姿を消す。 海華の無事を祈り、朱王は夕闇迫る空を仰いだ。
「―― まさか、あなたがうちの屋根踏み抜いた張本人だったなんて……」
鬱蒼と生い茂る深い緑、闇の腕に抱かれた小さな稲荷の社に感嘆とも呆れたともとれる声色が小さく谺す。
相手の表情を読み取る事も難しい薄暗がり。
社の側にある大岩にちょこんと腰掛けた海華の隣で、弥七はひどく恥ずかしそうに項垂れ、そして頭を掻いた。
昼過ぎ、八百屋へ行こうと道を急いでいた所を弥七に呼び止められた海華、聞いて欲しい話があると、何やら深刻そうな面持ちで告げられ、断るに断れなくなりついて行ったはいいが、彼はなかなか本題には入らず場所と話題をコロコロ変えるだけ。
あまり遅くなれば兄や志狼が心配する、痺れを切らした海華が帰ろうとした途端、弥七は人に聞かれたくない話だからと、彼女をここへ引っ張り込んだのだ。
「天下の弁天小僧も、そんなドジ踏むのね?」
「まさか屋根板が腐ってるなんて思わなかったんだ」
苦笑いを漏らし顔の辺りで揺れる木の小枝をポキリと手折り、弥七は海華へ向かう。
「でもよ、話で聞いたんだが、朱王さんって、凄ぇ有名な人形師なんだって? 十両二十両の仕事する人が、なんであんなボロ長屋に住んでんだ?」
「江戸に来て、始めて住んだ所だから。仕事ができて雨風がしのげれば、御殿住まいも長屋住まいも同じだってさ。…… そんな事より、話の本題に入らない?」
腰掛けていた岩からピョンと飛び下り、海華は小首を傾げる。
「傘売りのあなたが、どうして弁天小僧になったのよ?」
単刀直入な問い掛け。
一度無言で頷いた後、弥七は薄目の唇を一舐めする。
その口から事の真実が語られようとした瞬間……夕闇の静寂に包まれていた稲荷の森に、 悲鳴じみた男の絶叫が響き渡った。
「いた……っ! 志狼さんいたっ! いたぞ ――!」
「海華……いたっ! てめぇっ! 海華になにやってんだ――っ!」
薄闇に響く男二人の切羽詰まった叫び声。
思わず肩を竦めて跳ね上がる海華の隣では、血の気が引き真っ青な顔をした弥七が、叫びの方向へ顔を向ける。
悪鬼羅刹の如き凄まじい面持ちで下草を踏みつけこちらへ疾走してくる朱王と志狼の姿、半端ではない怒りをにじませたその様子に頬を引き攣らせる海華の前で、こめかみに青筋を浮かべた志狼が弥七の胸ぐらを掴み上げた。
「てめぇこの野郎ッ! 人の女房こんなところに連れ込みやがってどういうつもりだっ! 海華に何をやろうとしてやがったっ!」
「なに、なにをって……俺ぁ、ただ話しを……」
片腕なれど力は並みの男以上、そんな志狼に胸ぐらをひっ掴まれ、前後に激しく揺さぶられて、弥七は目を白黒させる。
しどろもどろの言い訳を繰り返す彼の言葉に、怒りに思考を染めた志狼が聞く耳を持つはずもない。
今にもぶん殴らんばかりの勢いで罵声を浴びせ続ける彼の横で、海華は頭を抱えた。
「お前、大丈夫だったのか?」
志狼の勢いに圧倒されながら、朱王は妹の肩を軽く叩く。
苦笑いを見せつつ顔を上げ、海華は兄を見上げた。
「大丈夫よ。別におかしな事された訳じゃないんだから。…… それより、早く志狼さん止めないと。弥七さん可哀想よ」
「そう、だな。おい、志狼さん! もうそのくらいにしておけ! 海華も無事だったんだ、もういいじゃないか」
「そうよ志狼さん、あたし変なことなんか何もされてないし、無理矢理連れてこられた訳でもないんだから」
まるで暴れ馬を宥めるように弥七から志狼を引き剥がす朱王と、その肩を揺さぶり顔を覗き込む海華。 街中を駆けずり回って探し求めた者の顔を見て安心したのだろう、志狼は筋が浮かぶほどに固く握りしめていた拳を緩め、ふぅぅっ、と大きく息を吐く。
弥七の胸ぐらを掴んでいた手から、ゆっくり力が抜けていった。
「まぁ……お前がそう言うなら、許してやるか。おい弥七っ! 今度こいつにおかしな真似しやがったら、今度はタダじゃおかねぇからなッ!」
ドン! と乱暴に弥七の体を突き飛ばし、忌々しそうに志狼が吐き捨てる。
怯えと焦りに顔を引き攣らせて、弥七はその場に尻餅をついた。
「わか、わかっ、た……。すまねぇ、もう海華さんには金輪際近付かねぇよ、約束する。約束するから……。俺、もう帰らせてもらうぜ……」
乱れた胸元を掻き合わせ、酔っ払いよろしくフラフラ腰を上げる弥七。
志狼に背を向け、逃げようと立ち上がったその瞬間、何を思ったのか海華がその前に仁王立ちに立ちはだかる。
これには、朱王も志狼も目を丸くし言葉を失った。
「ちょっと待ってよ! 弥七さん、まだ肝腎な事を話してないじゃない! これじゃぁ、あたしがここに来た意味が無いじゃない!」
「かん、肝腎な事、って……」
「あなたがどうして弁天小僧になったのか、って事よっ!」
眉を逆立て、甲高い声で叫ぶ海華のその叫びが、立ち尽くす朱王らの思考を一瞬で停止させ、冷たい闇に閉ざされた社の空気を固く凍らせた。




