第二話
炭を流した如く暗く変わった空が大粒の涙を地上へばら蒔く。
ついさっきまで輝いていた太陽はどこに消えてしまったのか、あの日本晴れは、刹那の幻だったのか……。
海華が兄の忘れ物を取り、さぁ帰ろうと言うのを待っていたかのように、空は一転にわかに掻き曇り、大地を震わす轟音を上げ、大粒の雨が降り出したのだ。
「いきなりなんなのよ、もーっ!」
悲鳴じみた叫びを上げ、水溜まりの浮かぶ道を全速力で駆け抜ける海華の紅い着物は早くも重く水を吸い、黒ずみ変色する。
道の両側に建つ商家の瓦屋根を激しく打ち付けるほど勢いを増す雨足に、道を行く人々は逃げ惑い、雨宿りの場所を探すのに必死だ。
海華も例外ではなく、小さな一膳飯屋の軒先へと飛び込み、しばらく雨を遣り過ごす事にした。
髪や顔から滴る水滴を着物の袖で拭い、うんざりした面持ちで重く立ち込める灰色の雲を眺める海華。
「…… あの傘、もらっておけばよかったなぁ」
泥で汚れた下駄へ視線を落としつつ、思わずそう呟いた彼女の視界に、突如男のものと思われる下駄履きの足が現れる。
自分と同じ雨宿りか、そう思い反射的に顔を上げた海華は、あっ! とどこか気の抜けた声を上げたまま、その場に固まってしまった。
「だから、傘持っていけって言ったろ?」
「…… あんた、つけてきたの?」
悔しいやら、恥ずかしいやら、露骨に嫌な顔をする彼女の手へ、自分も片手に傘を持ち現れた弥七は半ば無理矢理、傘を握らせる。
「そうじゃねぇよ、たまたまあんたが通り走ってくのを見たもんだからさ、それで追い掛けてきたんだ。あんた足が速ぇえなぁ。やっと追い付いたよ」
ヘラヘラと力の抜けた笑いを見せる彼と、手にした傘を交互に見遣り、海華は小首を傾げる。
しかし、その唇は横一文字から三日月の形に変わっていた。
「おかしな人ね。でも、ありがとう。この傘、おいくら?」
帯の間から財布を引き出そうとする海華に、弥七は大きく首を横に振り『金なんかいらねぇ』と口にする。
きっちりと結わえられた髷から、雨の滴が飛び散った。
「そうはいかないわよ、これだって売り物なんでしょう?」
「一本くらい、どってことねぇさ。それに、あの別嬪に会わせてくれる礼だよ。じゃ、俺はこれで」
ひょいと片手を上げ、軒先から飛び出した弥七は軽い足取りで水溜まりを飛び越えて雨の簾が掛かる中へと消えていく。
雨足はますます強まり、瓦屋根にどうどうと打ち付ける雨粒の轟音だけが白く霞む世界に響く。
弥七が消えた方向へ目を向けていた海華、やがて彼女は渡された唐笠をパッと開き、滝の雨の中へその身を踊らせる。
水溜まりを飛び退け、足や下駄をぬかるむ泥で汚しながら、彼女は八丁堀へ駆け戻っていった。
『お前、大丈夫だったか?』 屋敷の表門で海華と鉢合わせした志狼は、髪から水を滴らせ、足元を泥で汚した海華の姿に目を丸くさせた。
突然降りだした雨、傘を持たぬ海華を迎えに行かなければと屋敷を出た志狼だったが、どうやら海華の方が一足早かったらしい。
「いきなりなんだもの、本当酷い目にあったわ」
傘をたたみ、疲れた面持ちで三和土に入る海華に手拭いを渡した志狼は、そのまま彼女をその場へ引き留める。
「その足じゃ上がれねぇだろう。今、雑巾持ってくるからそこで待ってろ」
「わかったわ。ところで、兄様はどうしてる?」
上がり框に腰掛け、渡された手拭いで髪を拭きながら、海華は上目使い志狼を見る。
この雨だ、障子張りは中止になったのだろう。
「奥にいるぜ。あの部屋、水漏れで畳が腐るんじゃないか、って心配してたな」
「何よ、妹の心配より畳の心配してるの? ―― まぁ、いいわ。ね、志狼さん、明日ってなにか用事ある?」
唐突な質問に、志狼はその場に立ち止まったまま、なにかを考えるように宙へ視線を走らせる。
「明日は……特に用事って用事はないな。お前、何かあるのか?」
「うん、ちょっと一緒に来てほしい所があるの。面白いもの、みせてあげるわ」
にや、と口角をつり上げ、悪戯っぽい笑みを見せる海華。
翌日、彼女は朱王と志狼を引き連れ、件の男が待つ長屋へと向かったのだ。
さて翌日、海華は朱王と志狼を連れて弥七の住まう下川長屋を訪れた。
勿論、行き先や誰に会いに行くのか朱王には内緒である。
ただ、志狼にだけは『傘をくれた人のところへお礼に行く』とだけ伝えた。
手土産として買い求めた菓子を持参し長屋へ向かう海華の顔には始終笑みが浮かび、その足取りは妙に軽く、そんな彼女の前を行く男二人は、朝から続くその様子に怪訝そうな面持ちを崩さない。
「…… 海華、朝からおかしいな」
「朝からじゃねぇんだ、昨日からなんだよ」
後ろには聞こえないくらいのヒソヒソ声を出す朱王と志狼、海華がこんなにも楽しそうに会いたがる人物とは、いったい何者なのだろう?
「まさか、間男なんかじゃ……」
自身のこぼした台詞に顔を青くする志狼を、朱王はどこか呆れた眼差しで見下ろした。
「あのな、間男を兄貴や亭主に会わせたがるバカがどこにいるんだ」
大体、海華はそんな不貞ができる女じゃない。
そう断言しようとしたのを見計らったかのように、上機嫌の海華がくるりとこちらを振り向いた。
「どうしたのよ二人とも、何をこそこそ話してるの?」
にこにこ破顔する海華とは正反対に、朱王はぎこちなく視線をさ迷わせ、志狼は頬を引き攣らす。
そんなこんなをしているうち、三人は目的の場所、下川長屋へと辿り着いた。
細い路地裏の両側にズラリと部屋が並ぶそこは、中西長屋に負けず劣らずのボロ長屋だ。
少しの大風が吹けば、飛んで消えてしまいそうな板切れを寄せ集めてこしらえた屋根と壁、日の光もまともに当たらぬ、じめじめ湿った地面には、所々濃緑色の苔が生え、何かが腐ったような臭いさえ漂う。
色とりどり、と言っては聞こえがいいだろうか、継ぎはぎの着物を纏い、青っ鼻を垂らした子供らがやかましく騒ぎ立てながら三人の横を走り抜けていく。
弥七の住む部屋は、そんな長屋の一番奥にあった。
『傘、簑取扱』と墨字で殴り書きされた粗末な木の看板が揺れる戸口を海華が叩けば、すぐさま中から返事が返り、昨日、中西長屋の門前に立っていた男、弥七がその顔を覗かせる。
彼女の顔を見た途端、弥七の口から『おっ!』 と小さな叫びが上がった。
「こんにちは、昨日はどうもありがとう」
「いやぁ、もう来てくれたのかい。すまねぇなぁ」
頬をわずかに紅潮させ、鼻息も荒く身を乗り出す弥七は、首にかけていた手拭いを外しすぐさま外へと出る。
そんな彼を出迎えたのは、にこにこ顔の海華と固い表情でこちらを見遣る男二人。
じっと己を見下ろす朱王を一目見た瞬間、頬を赤らめた弥七の口から声にならない完成が上がった。
「どう? 弥七さんの言ってた浮世絵の別嬪って、この人じゃない?」
「そうだ、この人だよ。いやぁ、遠目から見てもイイ女だったけどさ、近くで見りゃあ、ますますイイ女だね」
鼻の下を盛大に伸ばし、三人をそっちのけで喋りまくる弥七の台詞を耳にした朱王の眉間に深々と皺が寄る。
不機嫌甚だしい朱王と、呆気に取られ口を半開きにする志狼を前に、弥七はからくり仕掛けの玩具よろしく何度も頭を下げつつ朱王へチラチラと熱のこもった視線を投げた。
「いや、こんな汚ねぇ場所まで来てもらって申し訳ねぇ。俺、傘を商ってる弥七と言います。中西長屋で貴女を見てから、もういっぺんだけ会てぇと思ってさ」
まるで茹で上がった蛸のように身体をくねらせ、照れに照れる弥七。
それに比例し、朱王の眉間の皺は更に深く変わっていく。
「こんな間近でお目にかかれるなんて、夢みてぇだ。―― でもよ、なんでそんな色気の無ぇ、男の格好なんざしてるんだ?」
『勿体ねぇ』そうポツリと呟く男を前に、朱王は片眉をわずかに蠢かす。
「そりゃあ、男だからな」
苦虫を噛み潰した如き表情をした彼の口から、いささか低い声色が放たれ、にやけた弥七の顔が、表情はそのままに凍り付く。
四人の回りの空気が止まった瞬間だった。
「い、や……男って、―― 海華さん、こりゃどういう……」
唇を戦慄かせ、助けを求めるように海華へ視線を移す弥七。
そんな彼に海華が贈ったのは、してやったり、と言わんばかりの笑みだった。
「あら、あたし浮世絵の別嬪とは言ったけど、女の人だとは言ってないわよ? あの長屋に長い髪の美人は、この人しかいないしね。 あ、ちなみにこの人、あたしの兄様なの」
「にぃ、さまぁ!? そんな馬鹿な……。 じゃあ、横にいるこの人は……」
「あたしの旦那サマ。傘のお礼をするから、一緒に来てって頼んだの。あ、結構いるのよね、兄様を女と間違える人」
ケラケラと腹を抱えて笑い転げる海華と、柳眉を逆立て自分を睨む朱王を交互に見遣り、弥七は今にも泣き出しそうにくしゃくしゃに顔を歪め、がっくりと肩を落とした。
『まさか男だったなんて……』そうぼそぼそと呟きつつ、弥七は三人を室内へと招き入れる。
雑然とした、いわゆる若い男の一人暮らしそのものの部屋には、鍋や釜などの生活道具に混じり、唐笠の束に簑、雨避けの笠が部屋の隅に積み上げられている。
土産として持参した菓子を傍らに置き、くるりと辺りを見渡す海華は、ドンヨリ暗い雰囲気を纏ったまま茶の支度をし始める弥七の背中を苦笑いしながら見詰めた。
「そうガッカリしないでよ、早くにわかって良かったじゃない。いくら口で説明しても、信じてくれない人の方が多いのよ。直接目で見て確かめるのが一番なの。ねぇ、兄様?」
「ねえ、じゃない。お前はまた、面倒くさいことしやがって」
未だ不機嫌な表情を崩さないままにこちらを睨み付ける朱王。
首を竦めて志狼のかげに隠れてしまう海華と、呆れた様子で小さな溜め息をつく志狼。
狭っ苦しい室内にひしめき合う三人を見遣り、弥七は口の欠けた急須を手にしたまま何度も小首を傾げる。
「…… 何回も聞くけどよ、あんた本当に男なのかい?」
「……ここを見てみろ」
そうぶっきらぼうに言い放ち、自分の首を指差す朱王、その指先にはポコリと小さく膨らんだ喉仏がある。
「これでも信じられないの? なんなら兄様、一回着物はだけてみたら?」
「やかましいッ!」
完璧に他人事と思われる海華の一言に、遂に朱王の中のなにかが音を立ててぶち切れる。
鬼の形相で拳を握り締め、腰を浮かす朱王から逃れるように、海華は慌てて志狼の後ろへ身を隠す。
しかしその顔に怯えの色はなく、それどころか、微かに微笑んでいるようにすら見えるのだ。
「おい、二人共いい加減にしてくれ。えぇっと、弥七さん、昨日はうちのが世話になったな、礼を言うよ」
後ろに隠れる海華を無理矢理横へ押し遣って、志狼は弥七へ頭を下げる。
それぞれ大きさも形も違う湯飲みを三つ、差し出した弥七は、苦笑しながらも首を横に振った。
「いや、いいんだ。そんな大したことをやった訳じゃねぇし、それに、妙なことを頼んじまったのは、こっちだからな」
目尻を下げ、照れ臭そうに笑う彼は、まるで悪戯を見付かった少年のようだ。
だが、年を聞けば海華と一つしか変わらない、今年で二十二になるという。
そろそろ所帯を持ちたいが、いかんせんこのその日暮らしの貧乏暮らし、嫁のきては皆無だそうだ。
『誰かいい人がいたら、紹介するわよ』出された茶を啜りつつ、海華がそう口にした、その時だった。
「にぃちゃーんっ! 弥七にぃちゃんいるーっ!?」
鼓膜にぶつかる子供のキンキン声が狭く薄暗い室内へと響く。
間髪入れず跳ね開けられた戸口の向こうから、年の頃五つほどだろうか、薄汚れ、擦り切れた着物に身を包んだ男児が、転がるように飛び込んできたのだ。
「おぅ、太助じゃねぇか。どうした?」
人懐っこい笑顔で子供を迎える弥七。
そんな彼に向かい、太助と呼ばれた子供は目を輝かせ息を切らせて上がり框から身を乗り出した。
「うちの部屋に、弁天小僧が来たんだ! お金一杯置いてってさ、それでかぁちゃんの薬が買えたんだよ! かぁちゃん、もう少しで元気になるってさ!」
息つく暇なく捲し立てる男児の顔は、喜びに光り輝いている。
その言葉を聞いた弥七も、パン!と両手を打ち合わせ、まるで自分の事のような喜びようだ。
「そうか、おみつさんの薬が買えたか! よかったなぁ太助! 金、まだ余ってるのか?」
「うん、まだ残ってる!」
「そうか、なら、おとっつぁんに頼んで、なにか美味い物でも買ってもらえ。かぁちゃんにも、ちゃんと食わせてやるんだぞ?」
いささか興奮気味に話す弥七へ大きく頷き、男児はあっという間に表へと飛び出して行く。
嵐のように訪れ、嵐の如く去って行った子供と弥七のやり取りを、三人はただ目を丸くし、眺めていた。
「あの子、知り合い? おっかさんが病気なの?」
男児が消えて行った戸口へ顔を向けながら海華が問う。
にこにこ顔を崩さず頷いた弥七は、自らの前に置いていた湯飲みの茶を熱そうに啜った。
「近くの長屋に住んでる子だ。母親が去年から寝込んでてさ。薬代がかさんで食うや食わずの生活だったんだが、いや、よかったぜ」
ほっと一息つく弥七を前に、朱王と志狼は以外そうな表情を作り互いに顔を見合わせる。
一見お調子者に見えるこの男だが、どうやら中身はいい男のようだ。
「この辺りは見ての通り貧乏人ばっかりだから、太助みたいな子供も多いんだ。あれのねぇさんも、母親の治療代にって岡場所へ売り飛ばされるところだったんだよ」
「へぇ、じゃあ、弁天小僧はあの子達にとって救いの神様みたいなもんね」
人の部屋の屋根をぶち破ったのは許せないが、確かの海華の言う通りである。
それからしばらく海華と弥七の間では弁天小僧の話しに花が咲いた、が、あまり長居するのも悪いと三人は長屋を後にすることにした。
「弥七さん、なかなかいい人でしょ? 」
長屋門まで見送ってくれた弥七に手を振った海華が振り向き様、そう口にする。
その台詞を肯定するかのように首を縦に振った志狼と朱王。
しかし、朱王はどこか釈然としない様子で、しきりに首を傾げている。
「どうしたのよ兄様、まだ臍曲げてるの?」
女と間違えられたのがよほど癪にさわったのだろう、そう思ったのか苦笑いを見せる海華へ眉根を寄せた朱王が視線を投げた。
「違う、そんなことじゃない。なぁ、海華。 弥七さんの言ってた事、なんだかおかしいと思わないか?」
「おかしいって、なにが?」
ひどく考え込んだ様子の兄を、今度は海華が不思議そうな面持ちで見上げる。
道の端で立ち止まった三人の横を、でっぷりと太った三毛猫が太鼓腹を揺らし悠々と通り過ぎて行く。
「弥七さんは、俺の事をどこで見たんだろうな?」
「どこでって……中西長屋に美人がいるって、人伝てで聞いた、って言ってたわよ」
道に落ちる小石を爪先でポンと蹴り、海華が答える。
その台詞に異議を唱えたのは、二人の会話を傍らで聞いていた志狼だった。
「そりゃおかしいぜ。さっきあいつ、遠くで見るより近くで見た方がずっといい女だ、とかなんとか言っていた。って事はだ、実際に朱王さんを見ているんだろう。……どうも話しが噛み合わねぇな」
ガリガリ頭を掻きむしり、志狼が吐き捨てる。
勘違いして言い間違ったのよ、と簡単に言いのけてしまう海華。
と、次の瞬間彼女は、朱王同様、眉間に深い皺を刻み出す。
「そう言われれば……あたしもおかしいな、って思ったことがあったのよ」
思い出したかのように唇を動かし始める海華の目は、忙しなく朱王と志狼を交互に見遣る。
『足が、物凄く速かったのよ』 そうポツリとこぼしつつ、海華は、もう弥七の姿が消えてしまった下川長屋の長屋門を静かに振り返った。
「あの人があたしに傘くれたときね、たまたま見掛けたから、追い掛けてきたって言ってたの。全速力で走ってたあたしを追い掛けてきたのに……息なんか、一つも切らしてなかったわ」
表情どころか声までを曇らせ呟かれた海華の一言に、朱王と志狼は怪訝な面持ちで顔を見合わせる。
『韋駄天』の異名をとる海華の足の速さは、二人共よく知っている。
忍である志狼とて、全速力で走る彼女に追い付くのは骨が折れるのだ。
並みの男が息も切らさず追い付けるなど考えられない。
「どうも、ただの傘売りじゃぁねぇみてぇだな」
「悪い人じゃなさそうだけど、なんだか気になるわね」
額を寄せ合いひそひそ言葉を交わす志狼と海華を横目に、朱王は深々とした溜め息をつく。
どうやら、この二人はまたしても厄介事に首を突っ込むつもりらしい。
「お前達、好奇心旺盛なのは構わんが、桐野様にご迷惑が掛かるような事はするなよ?」
「あら、そんな事重々承知してるわよ。ねぇ、志狼さん?」
「勿論だ。朱王さんだって、あいつの事少しは気になっていたんだろ?」
片眉をわずかに上げ、小首を傾げつつ尋ねてくる志狼の言葉を、真っ向から否定する事は出 来ない朱王。
元より、頭をもたげ始めた二人の好奇心を押さえ付けられる自信は持ち合わせていないのだ。
「わかっているなら、それでいい。海華、お前……」
「うん、わかった! あたしちょっとこの辺りの人に聞いてみるわね。志狼さん、夕方までには帰るから!」
『それじゃあね!』そう一言叫んだかと思うと、海華はくるりと身を翻し、あっという間にその場から駆け去っていく。
唖然とした様子でその背中を見送る朱王の隣から、はぁっと深い溜め息が聞こえた。
「…… あいつ、人の話しを聞いていたのか……?」
「たぶん、聞いてたと思うぜ? あいつの事は、俺がしっかり見てるから心配しないでくれ」
あの鉄砲玉は二人で目配りをしなければ、何をしでかすかわからない。
幼い子供を見守る保護者の眼差しで道の彼方に消えた彼女へ視線を向ける二人の姿が、そこにあった……。
朱王らが弥七の長屋を訪れてから、はや八日が経った。
その間も、弁天小僧はとある米問屋から大金を奪い取り、あっちの長屋こっちの長屋と大判小判をバラ蒔き歩く。
朱王と言えば、屋根の修繕が思ったよりも長引いたため、未だ桐野家の居候だ。
形見の狭い思いをしながらも、海華や志狼に頼りとされるのも悪い気持ちはしない。
慣れない環境で仕上げた人形も無事に問屋へと納める事ができ、それなりの報酬も得た朱王。
修繕代の用意も出来た今は、一日も早く屋根が完成するのを待つばかなのだ。
「…… ところでお前、弥七さんの事は何かわかったのか?」
平たい笊の上に拡げられ、縁側で天日干しにされた菊の花弁を眺めながら、朱王がポツリと尋ねる。
朱王の傍らで、目にも鮮やかな黄色の菊、その花弁をむしっては笊に拡げる海華は、眉を寄せたままに小さく首を横に振った。
「なぁんにも。誰に聞いても『あの人はいい人だ』って言うだけよ。弥七さんを悪く言う人なんて、誰もいないの」
「そうか、なら、俺達の考えすぎだったのかもな」
やはり悪い男ではなかったと、心の中で安堵しながら口を開く朱王の鼻に、ふわりと新鮮な、どこか青臭い匂いが届く。
近所から山のように貰い受けた菊の下処理に、志狼も海華も大忙し、今ばかりは弥七の事も頭の片隅に追いやられているのだろう。
麗らかに降り注ぐ秋の陽光。
涼やかな風に乗り、赤蜻蛉がその羽を煌めかせ宙を飛び交う。
「なんでも、生まれは越後だって聞いたわ。 親が早くに死んじゃって、お姉さんが一人いたんだって。言っちゃえば水呑み百姓よね、家は崩れかけ、食べる物もままならない貧乏暮らしで大変だったらしいわよ?」
「苦労人か。いつ頃江戸にきたんだ?」
「十六の頃だって。子供の頃は……大道芸人だったらしいわ。あ、ねぇ兄様、今晩のお夕飯は、菊のお浸しにツミレ汁でいいかしら?」
『あぁ』と、気のない返事を返し、鼻先を掠め飛んで行く蜻蛉を目で追う朱王。
その黒髪を、斜めに差し込む日の光が静かに彩る。
朱王が再び弥七と思いもよらぬ場所で対面したのは、その翌日の事となったのだ。




