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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第三章 鬼となり、人と化す
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第五話

 塚の裏手で立ち昇る黒煙の中から、激しいむせ込みが聞こえる。

辺りに立ち込める焼けた油の臭いと、時おり見える小さな紅蓮の炎の前を日中刈り取った草や辺りからかき集めてきた枯れ枝を抱えて忙しなく行き交う同心らの目には、うっすらと涙がにじみ、顔は所々黒い煤で汚れていた。


 「刈り取った草を集めておけと命じられたのは、このためだったのですね?」


 「うむ。初めは煙玉でも放り込んでやろうかと考えていたが、ある物を使うのが良かろう、とな。あの穴蔵に抜け場がないのだとしたら、長時間はとても居れまい。後は飛び出してくるのを待つばかりだ」


 羽織の袖を襷でくくり、枯れ枝の束を小脇に抱えた都築は、鼻の頭や首もとを汗と煤にまみれさせ、目を白黒せせつつ桐野へ訊ねる。

にや、と小さな笑みを覗かせ答える桐野の横では、手拭いで鼻と口を押さえた海華が心配そうに煙の出所を見詰めていた。


 「お奉行に許可は得ておる。遠慮はいらぬゆえ、盛大に燃やせ!」


 火事だと騒がれる心配はない、そう高らかに叫ぶ桐野に答えるよう、黒煙はますます勢いを増し、満月を覆い尽くさんばかり。

咳き込みも次第に激しいものと変わり、時おり煙の隙間から垣間見得るのは、何か布状の物を必死で振り回す三人の人影だ。


 「兄様……志狼さんも。大丈夫かしら?」


 案じるように眉根を寄せ、ぽつりと呟く海華。

そう、穴蔵の前で枯れ枝に火を付け、上がる煙を筵で扇いで穴蔵へ送っているのは誰でもない、朱王と志狼、そして高橋なのだ。


 肌の覗く所は全てと言っていいほどに煤で汚れ、ぼろぼろ涙をこぼしつつ筵を振るう三人は、もう言葉を交わす余裕すらないようだ。

鼻をつく刺激と共に襲いくる黒煙と、それを彩るように天へ舞い上がる数多の火の粉の狂演。

鳥の羽ばたきにも似た音を上げて、朱王の手にした筵が振り上げられた、その瞬間だった。


 暗闇が大きな口を開ける穴蔵の奥、そこから、怪しくぎらつく六つの目が朱王ら三人を睨み付ける。

剃刀の如き鋭い視線に射られた刹那、高橋の喉からヒュッ!と笛の音が迸った。


 「危な……逃げろっ! うわ……うわあぁぁっ!」


身を翻す暇もなく背後にのけ反る高橋の胴体、彼の足下に、穴蔵から猿のような速さで飛び出した二つの小さな影がしがみつく。

もんどりうって倒れた高橋から響く、くぐもっ た悲鳴。

壊れてからくり人形の如く猛烈に手足をばたつかせ、影を引き剥がそうともがく高橋へ咄嗟に飛び掛かる志狼。

その背後では、筵を宙高く放り投げた朱王が足下に落ちている火の付いた枯れ枝をひっ掴み、力一杯穴蔵の奥へと投げ込んでいた。


 唸りを上げて穴蔵へ突き刺さる焔を纏った枝切れ。

それの横をすり抜けて、ぼろぼろの着物にざん ばら髪を振り乱した細身の女が真っ白な牙を剥き、朱王へと襲い掛かる。

その手には鈍色に光る出刃包丁。

闇夜を切り裂き喉元へと繰り出される刃の攻撃を間一髪避け、二、三歩後方へよろめいた朱王の目は、女の薄汚れた髪の間から覗く、陰鬱かつ不気味な笑みをはっきりと捉えていた。


 垢で真っ黒に汚れた着物を引っ掛け、焼け焦げた煙の中に汗のすえた臭いを撒き散らし、首や胸元など急所を的確に狙い凶刃を振るう女。

高々と掲げられたそれが、朱王の首元へ突き立 てられようとした、その瞬間だ。

『かぁちゃん!』と、金属板を引っ掻くが如き金切り声が、女の腕をぴたりと止めた。


 「その物騒な物、さっさと下ろさねぇかっ!」


 有無を言わさぬ力強い一喝。

弾かれるように顔を振り上げた朱王の目に映ったもの、それは仁王立ちとなった志狼の腕にがっちりと抱えられ、手足を振り回して暴れる真っ黒な子供の姿だった。


 「平助っ!」


 「かぁちゃん……かぁちゃん! 助けてくれっ!」


 平助と呼ばれた子供の細い首に、志狼の逞しい腕が回される。

その傍らでは、鮮血の滴る鼻を押さえる高橋と、加勢に入ったのだろう都築が泣き喚く全裸の少年の首根っこや肩を掴み、地面に捩じ伏せていた。


 「さっさと、包丁を捨てろ。早くしねぇと……このガキの首へし折るぞっ!」


 怒号と共に腕へ力を込めれば、子供の顔が苦悶に歪み、こぼごぼと空気の籠る音が苦し気に開く口からこぼれる。

月夜を汚す暗幕の煙、そして宙を舞う紅蓮の火の粉を浴びて、女の口から掠れた悲鳴が迸る。

冷光を放つ刃、それが垢染みた手から滑り落ちたと同時、女は伸びるがまま、傷むがままに放置した乱れ髪をなびかせ、そして乾燥しひび割れた唇わ震わせて、天を仰いで獣の咆哮を張り 上げる。


 夏の空気を、そしてその場にいる者全ての鼓膜を打ち震わせて、辺りに木霊す絶叫。

やがて女は、全身の力が一気に抜け落ち、がくりと大地へ汚れた両膝をついて、その場へと崩れ落ちた。






 『あれは完全に化け物親子だ』そう呆れ果てたように吐き捨てて、高橋は未だ腫れの引かない鼻を軽く撫でる。

黒塚の大騒動から三日が経ち、瓦版には連日、『人喰い鬼婆』は乞食母子の成れの果てだ、との記事が踊った。

江戸の街を恐怖のどん底に陥れていた下手人がお縄になった、今度ばかりは奉行所のお手柄だ、と人々は口にするが、今ここに、柳町の番屋に集まった者らの表情はどこかすぐれない。


 その理由は、桐野が持ってきた話しにある。

言わずもがな、あの母子に関しての話しだ。


 「牢に入れられてから、一度も飯に手を付けないというのは、本当ですか?」


 上がり框に腰を下ろした朱王が奥に座する桐野へチラリと視線を向ける。

留吉から手渡された茶を一口啜り彼は無言のままに小さく頷いた。


 「子供ら二人も母親も、水以外何も口にしない。―― 人の肉が喰いたいと、子供が母親に泣きついている。『人の味』をしめてしまった以上、あれらはもう人ではないわ」


 苦々しげな口調で告げる桐野。

その言葉を肯定するかのように、都築と高橋は顔を見合わせ渋い表情を作り出す。

そんな彼らを前にして、この場に呼ばれてた朱王、そして志狼は返す言葉も見付からず、ただ口をつむぐしかできないでいた。


 「いくら食う物が無かったからと言って、人を襲って食うなど畜生よりもおぞましい。まさに鬼だな」


 「全くだ。しかも、最初に食ったのが、まだ乳飲み子だった実の娘ときたものだ。世も末とはこのような事を申すのかもなぁ」


 憤慨し、そして嘆息しつつ言葉を漏らす都築と高橋。

そんな二人とは反対に、朱王と志狼はどこか浮かない顔だ。


 「―― どうしたお前達。どこか具合でも悪いのか?」


 いつもとは違う二人の様子をいち早く察知した桐野に訊ねられ、場を取り繕うような笑みを作る二人。 都築らの台詞を完全に否定する訳ではない、しかし『世も末』『畜生にも劣る』の言葉に違和感を抱えているのも事実なのだ。


 だが、それをどうやって説明すればよいのか適切な言葉を未だ二人は見付けられずにいたのだ。

『近いうちに市中引き廻しだろう』と、都築が何気無く口にした台詞にほんの僅か、胸の奥が痛むのは、きっと自分達だけなのだろう。

そんなことを考えつつ朱王が湯呑みを唇へ当てた、その時だ。

番屋の戸口が軽い音を立てて叩かれ、滑るように真横へ開く。

『ごめん下さい』と、柔らかな声色を引き連れ姿を現した風呂敷包みを手にする海華へ、全員の視線が集中した。


 「お邪魔します。やっぱり皆さんここにいらしたんですね」


 にこにこと朗らかな笑みを浮かべるみ海華の出現に、どこかささくれ立っていた空気が若干柔らかなものへと変わる。


 「おお、海華。どうした、用足しか?」


 「はい、旦那様の羽織と、兄様と志狼さんの着流しを受け取りに。焦げ跡は繕いに時間がかかりますね」


 重たそうに風呂敷包みを抱え直し、さもおかしそうに笑う海華へ桐野は困ったように微笑み、そして頬を掻く。

着物に付いた焦げ跡、言ってしまえば、それは桐野のせいになるのだろう。

穴蔵の前で火を起こせ、と朱王らに命じたのは彼なのだから。


 「余計な手間を掛けさせすまぬ」


 「着物なんて、いくらでも繕えるからいいんですけど、兄様や志狼さんは繕えませんから。あまり無茶はさせないで下さいね?」


 「おい海華! 失礼だぞ」


 眉をつり上げ、厳しい声を出す朱王へ向かいチロリと赤い舌を覗かせ、海華は肩を竦める。


 「あら、申し訳ありません旦那様」


 「なに、よいのだ。海華の申す通りだからな。朱王にも志狼にも代わりはおらぬ。そうだ志狼、せっかく海華が来たのだ、お前達一緒に屋敷に戻れ」


 「もう、よろしいんですか?」


 目を瞬かせ桐野を見る志狼だが、内心では海華の出現に内心胸を撫で下ろしていた。

このままここにい続ければ、この室内に充満している目に見えない、重たく暗い何かに押し潰されてしまいそうな気がしたからだ。


 「もうよいぞ。いつまでもここに留めておく訳にもいかぬ。朱王はどうする?」


 「では……私もこれで、失礼させて頂きます」


 上がり框から腰を上げ、桐野に向かって一礼する朱王の横顔も心なしかほっとしているように見える。 きっと、彼も志狼と同じ気持ちだったのだろう。

海華の荷物を朱王が代わりに持ち、三人は番屋を後にする。


 降り注ぐ太陽の熱波を青々と葉を伸ばした柳の大木が遮り、木漏れ日が黄金の煌めきと化して世界を彩る。

汗で額に張り付いた髪を指先で払い退け、二人の後ろを歩いていた海華が、木漏れ日にも負けぬ笑みを生み出した。


 「あそこから早く出たい、って顔してたわね?」


 唐突に掛けられた言葉に、二人は思わずギクリと背中を跳ねさせ、ほぼ同時に足を止める。

気まずげな顔で振り返る二人に、海華はニヤリと口角をつり上げた。


 「図星でしょ?」


 「まあ、な。どことなく、居づらくて…… な、志狼さん」


 「ああ……。鬼だの鬼畜だのと聞くとさ。 間違っちゃあいないと思うが……。なんだかこう……」


 妙に歯切れの悪い二人の様子に、海華はちょこんと小首を傾げる。


「あのな海華、もし……俺達の間に子供ができたとして、だ。もし……何かの理由で生活ができなくなって、何にも食う物がなくなったとしたら、お前……」


 「人を食べさせるか、って言いたいの?」


 にこやかな微笑みを崩さないままで海華が問う。

彼女の口からどんな答えが返るのか、二人は固唾を飲み、その瞬間を待つ。


 『食べさせるに決まってるじゃない』


 さも当たり前だと言いわんばかりの口調で紡がれた返事。

朱王と志狼は表情を固まらせ、そこ場に立ち尽くした。

しかし、その心の奥に感情の荒波が立つ事はない。

二人は無意識に確信していたのかもしれない。

海華が返す答え、その内容を。


 揺らぐ陽炎が海華の姿を歪ませる。

三人の間で、時間が刹那に歩みを止めた。


 「自分の子供だもの。イザとなったら人の肉でもあたしの肉でも、なんだって食べさせるわ。……男の人にはわからないかもしれないけど、母親って、そういうものじゃないかしら」


 淡々と海華が語るその言葉に二人は無言のままに聞き入っている。

簡単に『そうだ』と肯定はできない。

それ以上に、否定する事などできないのだ。

母性愛とか、無償の愛とか、そんな在り来たりで薄っぺらな言葉では表し切れない。


 死んだ娘を切り刻み、息子に食わせた時、あの母親はどんな気持ちだったのだろう。

あの狭く汚い穴蔵で、息子達に人が喰いたいとせがまれた時、母親はどんな思いで彼らに向き合ったのだろう。

今、牢屋に繋がれているのは、畜生にも劣る鬼なのか、深き業を背負いながらも、必死で子を生かそうとした一人の母親なのか……もう、二人にはわからなくなっていた。


 「本当の事言うとね、あたしも最初は惨い事する化物だ、って、思ってたわ。でも、瓦版に書かれている事や、旦那様のお話し聞いていたら……なんだか考え変わってきちゃった」


 いささか恥ずかしそうに顔を伏せ、海華は足下に転がる小石をチョンと爪先で蹴り転がす。


 「あの人、鬼でも鬼畜でもなくて、ただの平凡な母親なのよ。ただ、どうにもならないところまで追い詰められただけ。勿論、許されない事をやったのは事実よ。でもね、あの人が特別じゃない。誰だって、鬼になる可能性はあるのよ。……ほんの些細な出来事でね」


 最後に漏れた一言が、熱を孕む空気に重く沈む。

人を鬼と変えてしまう原因、それは人それぞれ、理由など星の数ほどあるのだろう。


 「……そう考えりゃぁよ、あの母親も子供も不憫だな」


 やっと口を開いた志狼の髪に、風で飛ばされた千切れた柳の葉っぱが引っ掛かる。

それを指先で取り去って、海華は小さく頷いた。


 「そうね、もしも、あたし達に子供が出来たら……絶対あんな風にはさせたくないわ。 まぁ、いつになるやらわからないけど」


 「あ……子供、な。そりゃお前、そのうちに、だ。あんまり遅くならないうちに……」


 みるみるうちに頬を赤く染め、照れ隠しのように笑う志狼は、もうしどろもどろ。

『まだ早い』『でも早い方が……』などとぶつぶつ言い出す志狼の姿を眺める朱王は、無意識のうちに仏頂面に変わり、海華は悪戯っ子の如くニヤリと笑う。


 「作るもんは、さっさと作った方がいいぞ」


 突然そう言い放った朱王。

彼の口から出たとは思えない、まさに予想だにしなかった台詞に、志狼は勿論海華までもが驚きの表情で朱王を凝視する。


 「なんだ、俺の顔に何か付いているか?」


 「いっ、や……。朱王さん、その……」


 「そんなこと言っちゃって、いいの?」


 「別に構わないだろう? お前達は夫婦なんだ。あまり年増になってからじゃ、生むのも育てるのも大変だと思って……あぁ、お前は十分年増だったな」


 ニヤ、と白い歯を覗かせ斜な目付きで海華を一瞥し、朱王は持っていた風呂敷包みを志狼へと放り渡す。

呆気に取られた表情の海華の柳眉が、きりきりとつり上がった。


 「年増って! なによ、嫌な人っ! あ! ちょっとどこ行くの! 着物はどうするのよっ!」


 「後で部屋に届けてくれ。急ぐもんじゃないだろう? じゃあ、俺はこれで」


 何事も無かったように踵を返し、一人先へと進んで行く朱王。

風呂敷包みを抱えたまま苦笑いを見せる志狼とは正反対に、腹立たしいやら悔しいやら、顔を真っ赤に上気させた海華は次第に小さくなっていく背中に、延々と文句を投げ付けていた。





 「お前、まだ臍曲げてるのか?」


 どんよりと厚い雲が垂れ込めた空の下、呆れたのか困っているのかわからない、朱王の声が響く。

その問い掛けに返事もしないまま、すたすた前を行く海華。

その隣には、笑いたいのを必死でこらえる志狼の姿がある。


 『年増』発言から、今日で五日が経った。

あのとき出来上がっていた朱王の繕い物の着流しを、今日、海華はやっと返しにいったのだ。

いくらいつでもいいとは言われたものの、早く持って行ったがいいんじゃないか、そんな志狼の意見も聞かず、今の今まで放り出していた海華の機嫌は、この様子をみると未だ直っていないらしい。

せっかく来たんだ、どこかで昼飯でも食おうとの朱王の誘いに乗り、日本橋近くまで来てみたはいいものの、この間も海華は一言も朱王と言葉を交わそうとはしなかった。


 「いつまでも仏頂面ぶら下げてんじゃねぇよ、早く機嫌直せ」


 「別に、機嫌悪くなんかないわよ」


 「なら、なんで眉間に縦皺寄せてんだ?」


 「お腹が空いてるから!」


 なだめるように顔を覗き込んでくる志狼へ河豚よろしく頬を膨らませつつ、海華はそう小さく叫ぶ。

これには、朱王と志狼も顔を見合わせ苦笑いするしかない。


 「そうか、腹が減ったか。蕎麦にするか? それとも寿司がいいか?」


 「……お蕎麦」


 ふて腐れた面持ちで、ぼそりと放たれたその言葉が、今日海華と初めて交わした会話だ。

『じゃぁ蕎麦にするか』そう軽く微笑み返した朱王の目の前を、若い男二人連れがやたらと慌てた様子で駆けて行く。

普段より人の行き来が激しい天下の日本橋。

今日はいつも以上に人で溢れ返り、真っ直ぐ歩くのも困難なほどだ。


 「随分と賑やかだな。何かあるのか?」


 「さぁな? 俺は何にも知らねぇが……。おい海華! はぐれるなよ!」


 人混みに揉まれ押されて徐々に離れていってしまう海華の手を引き、己の方へ引き戻す志狼の隣では、皺くちゃの老婆に思いきり足を踏まれた朱王が顔を引き攣らせる。

前後左右を人で挟まれ、盛大に顔をしかめた海華は、何を思ったのかすぐ右横にいる中年女の肩を軽く叩いた。


 「あの、すみません。この辺りで何かあるんでしょうか?」


 「あら、あんた知らないのかい? これから鬼がここを通るんだよ。ほら、あの黒塚の人食い鬼さね」


 「ここを、通るって……じゃあ、あの母親、市中引き回しに……」


 「そうだよ。人の子拐って食い殺すなんて、どんな女なのかねぇ。皆、興味津々さ」


 にや、と、どこか意地悪にも思える笑みを残し、女は人の間を縫ってどんどんと前へ進んで行く。

後ろには次から次へと押し寄せる人の波、もはや引き返せる状態ではなかった。


 「志狼さん……どうしよう」


 出来ることなら見たくはない。

早くここから立ち去りたい。

そんな気持ちを伝えるように強く志狼の手を握れば、彼は朱王と素早く目配せし、辺りを見渡す。

しかし抜け出られるような余裕はなかった。


 「駄目だ、これじゃ身動き取れねぇ」


 「しばらく待って遣り過ごすしかないだろう。海華、少し辛抱しろ」


 無理矢理動いて怪我でもしたら大事だ。

このままここに留まる他ないだろう。

そう判断したものの、海華は勿論朱王までもが、そわそわと落ち着かない。

やがて、人々のざわめきが一段と激しくなった頃、その一団はやって来た。


 『来たぞ!』とすぐ近くから聞こえた叫びに、志狼が反射的に顔を跳ね上げる。

乾いた大地を踏み締める規則正しい馬の足音を引き連れ、罪状や罪人の名が記された木製の捨て札が天に突き刺さる。

北町奉行所の与力や同心、そして刺股や槍を手にした男らに囲まれた一頭の馬、その背中に鬼と呼ばれる女が乗せられていた。


 無地の粗末な着物に身を包む、気の毒な程に痩せこけた女は、解れ髪を一筋頬に張り付かせ、がくりと頭を垂れたまま、その虚ろな瞳は既に光は失われている。

馬の歩みに合わせて大きく揺れる体、荒縄に緊縛された胸元は会わせ目が乱れ、あばらがくっきり浮き出ていた。


 ざんばらだった髪は結い上げられ、垢染みた顔は拭き清められ、黒塚で対峙した時とはまるで別人だ。 『あれが人食い鬼なのか?』そんなひそひそ声が辺りから上がるのも無理はない、そんなことを考えながら馬上の女へ目をやっていた朱王の視界の端に、ふと、ある一人の女の姿が映り込む。


 何気無くそちらへ顔を向けた刹那、朱王は『あっ!』と小さな叫びを上げていた。


 「ん? どうかしたか?」


 ともすればざわめきに掻き消されていただろう朱王の叫びを拾い上げた志狼が、不思議そうな面持ちで彼を見上げる。


 「志狼さん、あれ……。あの看板の前にいる女、わかるか?」


 「看板の前? あれ……野菜売りの女じゃねぇか!」


 驚きに目を見開き叫ぶ志狼の声に、海華も二人が凝視する先に目を向ける。

朱王と志狼に驚愕の声を上げさせたもの、それは、馬上の女を一目みようと押し寄せる人波の間から垣間見える、この場にそぐわぬみすぼらしい、もっと言えば汚ならしい身なりの小柄な女だった。


 「あの人誰? 知ってる人?」


 「前、うちに来てた野菜売りだ。……あの母親に、子供殺された女だよ」


 埃にまみれた髪を無造作に後ろで束ね、継ぎはぎだらけの汚れた着物をだらしなく纏う姿は、志狼が見知っている女とは別人のようだ。

日焼けした顔に険しい表情を張り付け、射るような眼差しを馬上の女へ向ける女。

その泥で汚れた手が、そっと袂へ差し込まれる。


 目にも止まらぬ速さで、銀色に研ぎすまされた出刃包丁を握り絞めた手が引き抜かれた瞬間、鼓膜をつんざくが如き悲鳴が周囲に響き渡った。

金切り声を張り上げ、蜘蛛の子を散らすが如く逃げ惑う人々。

狂乱と悲鳴、怒号と罵声が入り乱れる阿鼻叫喚の世界に飲み込まれ、甲高いいななきを上げた馬が筋肉質の馬体を振り乱し、口から泡を吹いて暴れ出す。

縄で緊縛された枯れ木のような女の身体が、軽々と宙に舞った。


 もはや必死で叫ぶ与力の制止など意味はない。

後足で立ち上がり、前足を宙に浮かし暴れる馬は、ちりじりに逃げ散る群衆に中へと飛び込む。

一際激しくなる悲鳴、倒れ転がり泣き叫ぶ人の群れは、黒い波と化して道を覆い尽くした。


 「海華ッ! 志狼ッ!」


 「兄様……ぁっ!」


 必死に志狼へしがみつく海華は、怒涛の黒い波にまかれて朱王と離れ離れ。

互いの姿が完全に見えなくなったその刹那、朱王の足元で、どんっ! と何か重たい物を打ち付ける鈍い響きが上がる。

反射的にそちらへ顔を向けた朱王は、一瞬で言葉を失った。


 血走り、どろりと濁った二つの瞳が逆さまに朱王を睨む。

仰向けに倒れる縛り上げられた小さな身体へ馬乗りになり、野菜売りの女が一心不乱に出刃を降り下ろしているのだ。

鮮血に染まる二つの身体。

一度、二度と出刃が骨の浮いた胴体へ沈むたび辺りに紅い滴が飛び散る。


 「子供を、返せッ! うちの子を……子供を、子供を返せぇぇっ!!」


 髪を振り乱し、醜く顔を歪めて、もはや動かぬ肉塊を突き刺さし続ける女は、朱王の目の前で一匹の鬼と化していた。







 顔面から足先まで血塗れとなった女が、岡っ引きの手によって引き立てられていく。

地面に染み込むどす黒い血溜まりの上には古びたむしろが被せられ、その端からは土に汚れた足がにょきりと突き出していた。

未だ騒然としたままの現場。

黒羽織の役人らが慌ただしく行き交い、野次馬が人の壁となり道に押し寄せるその片隅で、三人は暗く沈んだ面持ちで去り行く女の後ろ姿を見詰めている。


 『あれも、鬼なのかしら?』そうポツリとこぼす海華に、二人は返事を返す事ができなかった。


 「子供、これからどうなるんだろうな」


 誰に尋ねるともなく呟いた志狼の問い掛けは、世界に広がるざわめきに虚しく消えていく。

目の前でひどく後味の悪い幕引きを迎えたこの事件。

母が鬼になったのか、鬼が母になったのか……。

三人には遂にわからないままだ。


 「―― 兄様、志狼さん、帰りましょう? あたし……ここにいるの、いや」


 転がる骸から目を逸らせ、志狼の腕をきつく掴んで海華が呻く。

目前に広がる残酷な現実から逃げるように固く目を閉じる彼女の肩を静かに抱いて、志狼は無言のままに頷いた。


 「鬼が、伝染うつったのかもな……」


 黒髪をたなびかせ、踵を返す朱王の口から生まれた一言は、誰の耳にも入ることなく空気に溶ける。

むせかえる死臭と立ち込める陰鬱な空気から逃れるように、三人はその場を後にした。


 ここは情愛と狂気の交差点。


 残り短い夏を昼下がりに漂う血潮の臭いに誘われて、腹を膨らませた銀蝿が海華の頬を掠め、骸へまとわりつく。

新たな命を産み付けるために。


 生と死のせめぎあいは、今日もどこかで、静かに淡々と繰り広げられているのだ。






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