第四話
「話し続けて構わないわよ? あたしがお邪魔なら、あっちに行ってましょうか?」
畳に膝をつき、湯呑みを二人に手渡した海華は、そのまま僅かに腰を浮かす。別に邪険にしている訳じゃない、そう口走り彼女をその場に引き留めて、朱王は軽く眉根を寄せながら湯呑みに口を付けた。
「聞きたいなら聞いていても構わん。だが、後で気分が悪くなっただのと言うなよ?」
「大丈夫よ。あたしそこまでヤワじゃないわ。さ、早く続きを話してよ」
盆を胸に抱き、にこやかな笑顔を浮かべる海華。一瞬躊躇う様子を見せた朱王だが、一度小さく咳払いした後、再び唇を開いた。
「消えた母子の骸が、見付からないのは不自然なんだ」
「でもよ、今旦那様方があの塚辺りを蝨潰しに探しておられるはずだ。それで骸が見付かるかもしれねぇぜ?」
「それならそれでいいんだ。俺の言った事が、ただの検討外れ、戯言だっただけの話しさ。だが、見付からなかった時が問題なんだ。 ―― また、誰か殺されるかもしれん」
新たなる犠牲者、鬼の食材になる物が増えていくばかり、それがわかりながら指をくわえて眺めているほど無様な話しはないだろう。問題は、どうやって鬼を見付け捕らえるかだ。
「取り敢えず、その母子の人となりを調べなくちゃならないわよね。もしかしたら、どこかで生きているかもしれないし」
「河原乞食だぜ? どれだけの奴が覚えているかわからねぇ」
半分まで減った茶を飲み干し、そうこぼす志狼をよそに海華は盆を片手にその場から立ち上がる。
「あたし、ちょっと出掛けてくるわ。志狼さん、悪いけどお台所お願いね」
「出掛けるって、どこへだ?」
いそいそとその場を離れようとする海華の背中へ声を掛ければ、彼女はくるりと振り向きざまに柔らかな微笑みを投げる。
「こないだの包丁研ぎのところよ。あの話しを持ってきたのはあの人なんだから、きっと何か知ってるはずよ」
『お昼までには戻ります』 そう言い残して着替えをすると海華は自室へ向かう。『気を付けて行けよ』と声を掛け、志狼は何事もなかったかのように空の湯呑みを片付け始めた。
「…… お前、止めないのか?」
穏やかな静けさ訪れた客間に、いささか不満げな朱王の声が響く。 湯呑みを二つ器用に持ち、志狼はそんな朱王を横目で見遣った。
「ありゃあ止めても無駄だ。聞きゃあしねぇさ。あの顔は、そういう時の顔だ」
「へぇ……、よくわかるな?」
「まぁ、夫婦だから、な」
照れ臭そうに視線を泳がせて、片付け物をしに台所へ行こうとする志狼の背中を目で追いながら、『仲の良いこった』そう口の中で呟いて、朱王は胡座を組んだ足、その膝先をじっと見詰める。障子越しに射し込む陽光が、細い背中を光の翼でそっと包み込んだ。
女の情報収集能力というものは、男に比べ格段に優れているらしい。その事を朱王と志狼は今、改めて痛感することとなる。『お昼までには戻ります』その言葉通り、海華は太陽が頭上高く登った頃に屋敷へ帰宅。しかし、頭の天辺から足の先まで汗で濡らし、頬を紅潮させて帰ってきすた彼女を出迎えたした者は誰もいない。
この時、屋敷で留守番中だった男二人は客間で寝そべり高鼾、心地よい夢の世界に旅立っていたのだ。
自分の気配にも気付かずぐぅぐうと寝こける二人を唖然とした面持ちで見下ろしていた海華だが、やがてその柳眉がきつくつり上がり、固く握りしめられた拳が力一杯客間の壁を打ち据 える。
だんっ! と空気を震わせ響く衝撃と凄まじい音に、水面へと跳ね上がる鯉よろしく、横たわる二つの身体が跳び跳ねた。
「人が暑い中走り回ってたってのに、呑気に昼寝なんて、いい気なもんねっ!」
胸の前で腕組みし怒りの眼差しで見下ろされた二人は、今だ夢から完全に抜け出せないような呆けた面持ちで、おたおたとその場に座り直し、気まずげに顔を俯かせてしまう。
「あたしはね、お留守番していてって言ったのよ、二人して寝こけちゃうなんて、誰か来たらどうするの! 無用心にも程があるわ!」
「いや、すまん。腹は一杯だわ、程よく暖けぇわで、つい……」
「こっちは徹夜みたいなもんなんだ。そうぎゃあぎゃあ騒ぐなよ」
大欠伸を一つ放ち、そうぼやく朱王に呆れ果てた眼差しを送りつつ、海華はその場に腰を下ろす。
その横から、志狼がきれいに洗い畳まれた手拭いを差し出す。
それを受け取り、首の後ろや鎖骨辺りの汗を拭き取って、海華は小さな溜め息をついた。
「で、何か収穫はあったのか?」
眠たげに目を擦り、そう訊ねる朱王。
『まぁね』そう答えて、意味ありげな笑みを見せる海華が一度咳払いし、手拭いを膝の上に置く。
「色んなところ回って話し聞いてきたわよ。 他にも母子を知ってるって人にも会えたわ。あの母子ね、江戸の人じゃないわ。えっと……なんとかって村の出よ。黒塚辺りに住み着いたのは、去年の秋くらいだって。ここまでが包丁研ぎから聞いた話しよ」
そこまで一気に言い終えるなり、喉元を擦りながら軽く咳き込む海華。
けほけほと乾いた咳を連発する彼女をの背中を軽く叩いて、志狼は慌ててその場を去る。
そう時間をおかずに戻ってきた彼の手には、水の満たされた湯呑みがあった。
「喉の奥が引っ付いたんだろ? ゆっくり飲めよ、噎せるぞ?」
「あり、がと……。あぁ苦しかった。でね、これからは黒塚から少し離れたところに住んでたおばあちゃんの話しなんだけど、その人、乞食の子供らにご飯やら着物やらを恵んであげてたんだって」
一口二口水を飲み、身ぶり手振りを交えて話しに熱中していく海華のこめかみから、一筋の汗が流れる。
寝汗で身体にまとわりつく着流しに顔をしかめながら、顔にかかる髪を鬱陶しそうに掻き上げて、海華の話しを聞いていた朱王は、乾いた唇を一舐めし、障子から射し込む真っ直ぐな日の光に目を細めた。
「子供は三人、上から六つ、四つ、二つで、男二人に女が一人。母親は、三十路手前だって。上の男の子二人がよく来てたみたいよ」
つまり、子供に物乞いをさせていたという訳だ。
朱王が考えるに、その間母親は幼い娘を背負い道端で銭でも乞うていたのだろう。
その方が、親子四人で動くより効率がいい。
「二人とも痩せて垢だらけで可哀想だったって話してたわ。何日かおきに食べ物ねだりに来てたみたいだけど、冬近くにぱったり見えなくなってたんだって。で、久し振りに来たのが春 も終わり頃よ。今までどうやって食べてたんだ、っておばあちゃんから聞いたのね」
一度言葉を区切り息を整えて、海華はニヤと白い歯を見せる。
「そうしたらその子、なんて答えたと思う?」
意味深な台詞を放つ彼女を急かすように、朱王が胡座を組んだ足を小さく揺さぶった。
「あまり勿体振るな、早く話せ」
「わかったわよ、もう。―― その子達のね、『ウメを食ってた』って、答えたんですって。その時に渡そうとしたおにぎりも、腹が一杯だって受け取らなかったんだって。おかしいと思わない?」
朱王と志狼へ交互に視線を送り、海華の紅い唇が弓の形につり上がる。
『確かにおかしい』そうポツリと呟いて、朱王は小さく頷いた。
志狼も同じ反応を見せて、眉間に皺を刻んだ。
「梅を食ってたなんて……まさか梅干しを食い続けてあた訳じゃあるまいよ」
「そんなことしてたら、あっという間にくたばっちまう。冬に梅の実なんざならねぇし、生梅食ったら腹ぁ壊すぜ?」
首を傾げて考え込む二人を見遣りながら、海華は笑いの形に歪めていた唇を引き締めて静かに呟く。
『ウメって、木になってるウメの事じゃないのよ』と……。
「木になってる梅じゃない? なら、なんの梅なんだ?」
キョトンとした面持ちで自分をまじまじと見る朱王に、海華は眉を寄せたまま口許を手のひらで覆った。
「その子達の妹の名前よ、おばあちゃんはね、確かおウメって名前だったって言ってるの。まぁ、年寄りの記憶だから、間違いないとは言い切れないけどね」
「ちょっと待て、いくらなんでもそりゃねぇだろうよ、てめぇの妹喰うなんて……母親が許すはず……あ、まさか……」
己の脳裏に浮かんだ台詞に戦慄を覚えたのだろうか、志狼の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
そんな彼へ海華は無言で頷いた。
「そうよ。母親が子供に食べさせたのよ。それ以外考えられないじゃない。殺したのか、別の原因で死んだのかはわからないけど」
「そういえば、塚の近くに血塗れの着物が捨てられてたと包丁研ぎが言っていたな。婆さんの言った事が真実だとしたら、奴らは人の味をしめて……」
「だろうな。街中で金だの食い物だのせびるより、女子供襲う方が手間掛からねぇ。飛んでもねぇ親子だ」
奥歯を強く噛み締め、瞳に怒りの色をにじみませる志狼を横目に朱王は掠れた溜め息を漏らし、バリバリと頭を掻きむしる。
「問題はこれからだな。海華、今の話しを桐野様に……」
「もう話してきたわ。……食い婆なんて、子供騙しの話しをするなって、都筑様に笑われたけど、桐野様はちゃんとお話し聞いて下さったわ。塚の辺り、もう一度よく調べて下さるそうよ」
ようやく表情を和らげて、そう口にする海華は、『お茶でもいれてくるわ』と腰を上げる。
廊下から聞こえる軽い足音を聞きながら、朱王と志狼は顔を見合わせ視線を交わす。
「朱王さん、なんだか、厄介なもんに巻き込まれちまったな」
「本当だ……。志狼さん、厄介なのもある、それ以上に、いたたまれないよ。―― 自分の子供を喰うなんて、どんな気持ちなんだろうな?」
海華の話しが真実ならば、どんな理由があったにせよ常人にはとても考えられない行為。
鬼、いや、畜生の所業と糾弾されても致し方ない。
「そんな気持ちわかりたくもねぇ。畜生の気持ちなんざ、わかってたまるか」
苦々しい表情で吐き捨てて、志狼は畳へ視線を落としてしまう。
暗い静けさが満ちる室内。
庭で餌を食む雀の囀ずりが、二人の鼓膜を忙しなく擦り上げた。
本格的な鬼の捜索は、翌日から始まった。
海華から消えた母子に話しを聞いた桐野は、その日のうちに黒塚周辺の雑草を全て刈り取れと指示を下す。
しかし、塚の周りは雑木林が生い茂り、この暑さも手伝ってか、地面を覆い尽くし天へ昇らんばかりの勢いで雑草が青葉を茂らせ、全てを刈り取るにはかなりの日にちが必要に思えた。
どれだけの人間を動員し、現場はどうなっているのか、気になる三人だがまさか見物に赴く訳にもいかない。
毎晩汗まみれ、疲労困憊の状態で帰宅する桐野にもうるさい事は聞けないでいた。
この日も朝早くから奉行所へ出掛けた桐野を見送り、朝餉の片付けに部屋の掃除にと忙しく動き回っていた二人。
何事もなく昼を過ぎ、そろそろ晩飯の支度に取り掛かろうとした時だった。
表から響き渡る男の喚きとも叫びともつかぬ大声。
鼓膜を震わすその叫びに、井戸端で米を磨いでいた志狼は仰天した様子で顔を跳ね上げ、台所で芋の皮を剥いていた海華は包丁を握ったままに外へと飛び出してくる。
唖然とした面持ちで顔を見合わせる二人の目の前に舞い上がる土埃、志狼と海華の名前を叫びながら、転がるように裏庭へと駆け込んで来たのは、千切れた青草と乾いた土、そして顔のあちこちにどす黒く変色した血潮をこびりつかせた高橋の姿だった。
「たか……高橋様!?」
「高橋様! どうなさったんですか! こんなに汚れて……大事ですか!?」
勢いよくつんのめり、井戸端に転がる高橋に慌てて駆け寄り、その身体を抱き起こす志狼と海華。
からからに乾いた唇をぱくつかせ、張り裂けんばかりに両目を見開いた高橋の指は、関節が白く変わるほどに強く自らを助け起こす志狼の腕を握り締めた。
「志狼……志狼、一大事だ……桐野様が、桐野様が……」
恐怖と動揺に塗り潰された瞳をカッと、見開き、高橋は額から脂汗を滴らす。
尋常ではない高橋の口から飛び出た主人の名に志狼は一瞬で顔色を変えた。
「旦那様が……? 旦那様が、どうしたのですか!? 何があったのですかっ!」
「ちょっ……止めてちょうだい志狼さんっ! そんなにしたら、高橋様が……!」
「うるせぇ離せっ! 旦那様が、一大事だって、どういう意味なんですかっ!?」
首も飛ばんばかりの勢いで高橋の身体を前後に揺さぶる志狼。
なすすべなく、目を白黒させながら揺さぶられる高橋を見て、海華は咄嗟に志狼を引き剥がす。
しかし、彼は海華を振り切って、なおも高橋へ掴み掛かった。
「高橋様! お願いします教えて下さいっ! 旦那様に何があったのです!? 無事なんですか? ……旦那様は無事なんですかっ!?」
殴り掛からんばかりの勢い、先ほどの叫びに負けず劣らずの絶叫を張り上げて、高橋に詰め寄る志狼の前で、彼は背中を丸めて息を整えた後、蚊の鳴くような弱々しい声色で『食われた』と一言呟く。
「桐野様が、くわ……食われたのだ。鬼…… 鬼に、黒塚の近くに祠があって……そこから、 鬼がっ!」
掠れた声で途切れ途切れに紡ぎ出された台詞に、今しがたまで激しく高橋の身体を揺さぶっていた志狼の腕がピタリと止まり、呆然と見開かれた瞳が微かに揺れる。
声にならない悲鳴を上げた海華が崩れるように地面へとへたり込んだと同時、志狼は力一杯高橋を突き飛ばし、脱兎の如くその場を駆け出していった……。
網膜に焼き付く鮮烈な、そしてどこか毒々しい夕焼けの広がる世界を志狼が駆け抜ける。
息を切らし、時には足を縺れさせ、必死の形相で走る彼が向かうのは、件の黒塚だ。
桐野が食われた、そんな信じられない台詞を高橋から受けた志狼の頭の中は、文字通り真っ白、もう何も考えられない状態である。
とにかく早く、一刻も早く主の元へ…。
家を急ぐ人々を蹴散らすように走りに走って、 黒塚に辿り着いた志狼の目に飛び込んできたのは、塚の下に集まる黒羽織りの集団だ。
皆が一様に心配そうな面持ちで地面へと視線を落とし何かを覗き込んでいる。
声にならない叫びを上げてその集団へ割り込んだ志狼。
驚きを多分に含ませた視線が突き刺さるのもお構い無しに、人垣を掻き分けたその先にあったものは、真っ青な顔色の都築に身体を支えられ、ぐったりと地面に倒れ込む主、桐野の姿だった。
首筋には渇きかけた鮮血がこびりつき、泥に汚れた羽織りはあちこに破れ裂けている。
よくよく見れば、足袋から覗く足首は肉が裂け、足袋、そして鼻緒がきれた下駄は真紅に染まっていた。
志狼の膝ががくがく笑う。
『旦那様……』と、掠れた声で志狼が呟いたと同時だった。
「―― なんだ、志狼か?」
閉ざされていた瞼がパチリと開き、どこか不思議そうな様子の桐野が唇を蠢かす。
その場から湧き上がるどよめき、喜びとも驚きとも取れるそのざわめきに包まれた志狼の足から、みるみるうちに力が抜けていった。
「桐野様! よかった、ご無事でしたか!」
「うむ、転んだ時に少々頭を打ったようだが、もう平気だ。不意討ちを食らうとは情けないがな。他に怪我人はおらぬか?」
ぐるり辺りを見回して、皆の無事を確かめた桐野は、再び視線を自らの傍らにへたり込む志狼へ戻す。
魂が抜けたように呆けてしまった志狼を前に、彼はわずかに眉をひそめた。
「志狼よ、なぜお前がここにいるのだ? 誰かに呼ばれたのか?」
「は、い……。高橋様、に。旦那様が……旦那様が、鬼に食われたと。だから……」
「なに、高橋が? 儂が食われたと? あの早とちりめ。確かに鬼に噛み付かれはしたが、この通り生きておる」
都築に支えられながらもその場から立ち上がった桐野だが、すぐに肩、そして足首の痛みにきつく顔をしかめる。
命に関わるほどではないだろうが、かなりの傷を負っているのは明々白々だ。
「ご無事でよかった。ですが旦那様、とにかく早く手当てをしなければ…」
「志狼の言う通りです。桐野様、ここは我々にお任せ下さい。一刻も早く手当てを」
真剣な眼差しで医者に行けと進言する都築と志狼。
周りにいた同心らもこぞって桐野の身を案じる台詞を口にする。
いささか困ったような表情を浮かべていた桐野だが、ようやく医師の元へ行く事に同意した。
「迷惑を掛けてすまぬな。ここは都築、お主に任せた。儂を襲った輩は塚の奥の穴蔵に潜んでおる、儂が見たのは三匹のみだが、他にいるやもしれん。下手に手は出すな。いいな?」
そう言い残し、数人の同心と共に傷の手当てへ向かうためその場を去る桐野。
後に残されたのは、緊張と恐れに顔を強張らせる同心達と、未だに動悸が治まらない志狼だけ。
ぎらつく夕陽は音もなく西の空に沈みかけ、 逢魔ヶ刻の静けさが、瞬く間に世界を支配していった。
「なら、食われたってのは間違いなんだな?」
端正な顔を盛大にしかめて、再度確かめるように朱王が訊ねる。
その横には、泣き腫らした目を真っ赤に充血させた海華が、ひくひくと小刻みに肩を揺らせてしゃくり上げていた。
血相を変えた朱王が海華と高橋を伴い黒塚へ駆け込んでけたのは、夕陽も空の彼方へその姿を隠し、澱む暑さを纏わせた夜が主役となる頃だ。
高橋からの一報を受けた海華が朱王の元へ走り、半狂乱のていで桐野が食われたと泣き喚いたものだから、朱王も吃驚仰天だ。
取るものも取り合えずここへと急いだのだが、到着した頃、既に桐野は傷の手当てのためこの場を離れた後だった。
「あちこちに怪我はしているが、命に別状はねぇ。驚かせちまってすまなかった」
こちらも疲れた顔をした志狼が、朱王へ軽く頭を下げる。
その後ろでは、がっくりと肩を落とし項垂れた高橋が赤鬼よろしく耳まで紅潮させた都築に大目玉を食らわされている最中だ。
「じゃぁ、旦那様は帰ってこられるの? どうしてそんな怪我をしたの?」
潤みきった目を強めに擦り、今にも消えてしまいそうな声色で海華が問う。
ちらりと塚へ目をやった後、志狼は彼女を安心させたいのか、小さく微笑む。
「今日中には帰れる。そう心配する事はねぇよ。どうしてそんな怪我をしたのかってのは……鬼三匹に噛まれたと。塚の奥に穴蔵があるらしい。そこから鬼が飛び出してきて……不意討ちだったと、旦那様は仰っていた」
「なら、その穴蔵が鬼の棲家なのか? ――桐野様は、これからどうするおつもりなんだろうな?」
じっと塚の向こうを見詰める朱王に小首を傾げて見せながら、志狼は左肘辺りに強く爪を食い込ませる。
「下手に手は出すなと言われたからな、都築様方も動くに動けねぇさ。…… 奴等はすぐ目の前にいるんだがなぁ」
心底悔しげに呻く志狼の頭上では、薄雲の衣を纏った望月がその顔を覗かせる。
このまま万事休すか、辺りに落胆の空気が漂い始めた、その時だった。
「どうしたのだお前達、何を暗い顔して突っ立っておる?」
闇にぽつりと浮かぶ暖かな提灯の灯り。
その向こうから響いたいささか低めの声が、その場へざわめきの波を産み出す。
『旦那様!』と、海華の口から歓喜の叫びが迸った。
「遅くなってすまぬ。変わりはないか?」
首と足首に真っ白な包帯を巻き、同行した同心に肩を貸されて足を引き摺り引き摺り歩く桐野は、穴が開くほどに己を凝視する海華の前で足を止め、微かな笑みを浅黒い顔に作り出した。
「海華、心配を掛けてすまなかった。儂は大事ない」
大きな手のひらに肩を軽く叩かれて胸がいっぱいになったのだろう海華は、きつく唇を噛み、何も言えないまま何度も何度も頷く。
潤んだ瞳から、大粒の涙が一粒転がり落ちた。
「桐野様、その傷では……」
案じるように慌てて駆け寄ってくる都築を片手で制し、同心の肩からも手を話した桐野は提灯を翳して塚の方へ視線を投げる。
「なに、たかが噛み傷の一つや二つどうと言う事はない。それより、あの三匹はまだ穴蔵の中だな?」
「はい、塚の四方八方へ人を置きました。奴等、全く動く気配はありせん」
「そうか、ご苦労だった。―― さて、これからどうするか、だが……」
顎先を擦り擦り考え込む仕草の桐野は、ふと己の傍らに立つ志狼と朱王を見た。
「…… 人手は多いに限る、か。朱王、それから志狼。迷惑掛けついでに、お前達にも頼みがあるのだが、聞いてくれるか?」
『労力がいる作戦なのだ』そう意味深な台詞を紡ぐ桐野へ、二人は一瞬戸惑い、顔を見合わせながらも首を縦に振る。
黒地の周辺から、もうもうと立ち昇る漆黒の煙が清らかな鏡の望月を汚したのは、それから数刻も経たぬ頃であった……。




