第三話
「……迷惑掛けてすまなかった」
弱く掠れた声で頭を下げる朱王を前に、志狼は眉間へ深い皺を寄せつつ、胸に前で腕を組む。ひどく不機嫌な様子の志狼を前に、海華は叱られた子供よろしく肩を竦めて、目を伏せた。
「何が迷惑だ。こんな時まで水臭せぇこと言ってんじゃねぇよ。それに、謝るなら俺じゃなくて海華に謝れ」
誰よりも朱王の身を案じているのは海華だ。今だって提灯の準備をする間も無く屋敷を飛び出してきたのだから。志狼の言葉に感極まったのか、はたまた張り詰めていたものがプツリと切れたのか、海華は両の目から大粒の涙を一つこぼし、小さく鼻を啜る。
「そう、だな。海華すまん。心配掛けたな、悪かった」
「ううん、いいの……。兄様が無事なら、それでいいの……」
着物の袖で乱暴に目元を拭う海華の頭を朱王はそっと撫でる。ふと顔を上げれば自分を手招く志狼の姿がある。
「朱王さん、ちぃっと話があるんだが……。 こじゃなんだ。外でもいいか?」
「ああ、わかった。海華、悪いが少し待っていてくれ」
涙を拭いながらも、不安げな表情を崩さない海華を忠五郎らに託し番屋を出る二人。時が経つのに比例して深くなる闇と冷たい輝きを増す満月の光に包まれて、朱王の包帯と志狼の三角巾が、鮮やかに浮かぶ。
「こんな時に悪いんだが、これからあの場所に行ってくれないか? 旦那様が話を聞きたいと仰ってるんだ。勿論、俺も一緒について行く」
「わかった。俺もお話ししたい事があったんだ。―― 海華はどうする?」
まさか一人で帰らせる訳にも行かない。 一緒に連れて行くのか、そう尋ねる朱王に、志狼は慌てて首を横へと振った。
「冗談じゃねぇ、あんな所に女子供を連れてなんか行けるか。家までは忠五郎さんに送って貰えるよう頼む」
「そうか? だが、あいつが素直に言うこと聞くかな? 絶対に一緒に行くと言い出しそうだ」
ポツリと朱王がこぼした台詞に、志狼はどこか、自信ありげに、大丈夫だ、と返す。 一抹の不安を抱えたまま、朱王は事の次第を海華へ説明するため、再び番屋へと戻って行った。
「……な? 大丈夫だったろ?」
襲撃場所へ向かう道すがら、顔色一つ変えずそう口にした志狼へ、ああ、といささか低い声色で答えながら、朱王は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて闇の彼方を睨み付ける。番屋の中で待たせていた海華に事情を話し、先に屋敷へ帰ってくれるよう志狼が話すと、以前なら『心配だからついて行く、絶対帰らない』と駄々を捏ねるのだが、今日はあっさりと首を縦に振り、早々と忠五郎に送られて番屋を出て行ったのだ。
夫の言う事を妻が聞くのは当たり前、そうわかってはいるのだが、それでも長い間共に暮らした朱王としてはどうしても面白くないのである。
痛む腕と陰鬱な心を抱え、志狼と共に道を行く朱王は、手にした提灯がぼんやりと照らし出す周囲の風景を目にし、何故か怪訝な様子で小首を傾げる。この道は、以前確かに通った覚えがあった。
「志狼さんちょっと待ってくれ。もしかしてこの道は……」
「道? 道が、どうかしたか?」
朱王の呼び止めにこちらを振り返り、志狼は目を瞬かせる。
「ここは……黒塚に通じた道じゃないか?」
提灯を顔の高さまで掲げ、ぐるりと辺りを見渡して、朱王は確信する。ここは、以前塚に向かう際に通った道だ。
だが、朱王が接待を受けた屋敷は、こことは全く別の場所。この道を通る事は無い。なぜ塚へ向かうのか、そう問いたげな朱王の様子を見て、志狼は『あぁ』と一言呟いて黒に溶ける道の彼方へ視線を投げた。
「実は、俺も旦那様から言われて初めて気が付いたんだが……朱王さんが襲われた場所な、黒塚の裏なんだ。雑木林を挟んで、ちょうど真裏に当たる場所だ」
志狼の口から語られた台詞に、朱王の時は一瞬止まる。足音を忍ばせ迫りくる暗闇が、二人が手にした提灯の灯りをふらふらと揺らめかせた。『わかんねぇのも無理ねぇや。あっちとここはだいぶ離れているし、抜け道ったって獣道が一本だからな』そう続けた志狼は、これからその抜け道を使い現場へ向かうと言う。彼が口にした抜け道は朱王のすぐ隣、つまりは今いる場所にひっそりと隠れていた。傍らに生い茂る雑草が志狼の手で掻き分けられ、細い細い獣道が姿を表す。
着流しの裾や袖を木の枝や雑草に引っ掛け、凸凹の足場に四苦八苦しながら志狼の後を行く朱王、その目が雑木林に奥でぼんやりと光る橙色の灯りを数個映し出す。誰かいる、そう思った刹那、一気に視界が拓け広がった世界に数多の人影が蠢いているのが目に飛び込んでくる。
「旦那様!」
「ん? おお志狼! やっと来たか」
薄ら闇に動く人影の一つに向かい、声を上げた志狼がその場から駆け出す。片手を上げて彼を迎えたのは、北町奉行所与力組頭であり、志狼の主人でもある桐野だった。
「夜分に、すまぬな。ところで海華はどうした?」
「忠五郎さんに頼んで、屋敷まで送ってもらいました」
「そうか。―― 朱王、お主災難だったな」
こちらを振り向き、案じるような声色を出す桐野へ、朱王は申し訳なさそうに深々と頭を下げる。そんな彼へ、黒い羽織の同心達はちらちらと興味と不審が入り交じる視線を投げ付けた。
「このような時に呼び立ててすまぬ。腕は平気か?」
「はい、掠り傷です。それより桐野様、志狼さんから聞いたのですが、骸が見付からないというのは、どういう……」
「どうもこうも、そのままの意味なのだ朱王。―― あまり気持ちのよい物ではないが、ちょっとこっちへ来てみろ」
そう言い残し、羽織を翻した桐野は朱王と志狼をある場所へ誘う。そこは今しがた朱王らが通ってきた獣道から更に奥へ入った所だ。目映いばかりに降り注ぐ月光、その光に照らされて、白く浮かび上がる道の真ん中に、その黒い水溜まりはあった。
ねっとりと粘り気を帯びたそれは、まるで木の幹から流れ出た脂のよう。表面に薄く膜が張り、乾いた土の間をじわじわと広がる黒い液体、そこからは、胸が悪くなる生臭さと錆びた鉄の臭いが撒き散らされていた。
「これは……血、ですか?」
鼻の上に皺を寄せ、着流しの袖で口と鼻を覆った朱王が、くぐもった声で尋ねる。
「そうだ。血だ。これだけの量だからな、お主が見た女は、もう生きてはおるまい。問題は、死骸が何処に消えたか、と言う事だ」
胸の前で腕を組み、そう呻いた桐野は日焼けし浅黒い顔を朱王へと向ける。猛禽類にも似た鋭い眼差しに射られ、朱王は一瞬息を止めた。
「朱王、お主を襲った輩は、間違いなく女だったか?」
「女……と言われれば、女だったかもしれません。ですが……私にはとうしても、鬼としか……」
そこまで口にした朱王は、はっと我に返ったように目を見開き、ぎくしゃくと桐野へ頭を下げる。
「申し訳ありません、下らない事を申しました」
鬼などいるはずがない、あれは、只の追い剥ぎ。 いや、残忍な殺人鬼、只の人間なのだ。ばつが悪そうな面持ちで頭を上げる朱王の肩をポンと叩き、桐野は気にするなと言いたげに小さく笑う。
「なに、良いのだ。ところで朱王、それと志狼よ。お主らが夜道で女を襲ったとしよう。何を目的で襲う?」
突然投げ掛けられた突拍子もない質問に、朱王と志狼はお互いきょとんとした様子で顔を見合せる。最初に口を開いたのは、志狼だった。
「私なら……やはり金子目的です」
それに続き、朱王が口を蠢かす。
「そうですね、やはり金……財布でしょうか。他の目的があるならば、犯すとか」
いささか言いにくそうに声量を抑え、答える朱王の横で眉間に皺を寄せる志狼が顎の先を擦った。
「だが、今回の下手人は女だ。犯すってなぁねぇだろうな。だとしたら、やはり金?」
しきりに首を傾げて考え込む二人へ、桐野はやおら懐をまさぐると、何やら細長い物を引っ張り出す。月光に照らされたそれに二人の目は釘付けとなった。
「これが、藪の中に棄ててあった。中身もそのまま、手付かずだ。……今回の下手人は、金目当てではないようだ」
低く、そして陰を含ませた声色が桐野の薄い唇から生まれる。骨ばったその手に握られていた物、それは、べったりとどす黒い血潮の染み込んだ、まだ真新しい女物の財布だった。
「先ほど都築が見付けた物だ。十中八九、この血溜まりの主の持ち物だろう。着物も帯も簪も、めぼしい物は何もかも棄てられていた」
財布を再び懐へしまいながら、桐野が呻くようにそう口にする。金品は残されたまま、死骸だけが消え失せた。この事から考えられる下手人の目的、それは一つしかない。朱王と志狼は、互いの顔を見合せた。
「おい、こりゃまさか……」
「それしか無いだろう。あの女、人の死骸が欲しかったんだ。生肝を取るために……」
自らが口にした台詞に、身体の奥から氷の如く冷たい何かがせり上がってくる。志狼も顔色を蒼白にさせ、生唾を飲み下した。『どうして肝なんかを欲しがるのか』そんな疑問を抱く朱王の頭の中に、遥か昔に巻き込まれたある事件が浮かんでくる。上方から下ってきた姉弟が起こした凶事、今回と同じく人の腸を狙った彼らの目的は、効きもしない薬を造り、人々をたぶらかすためだった。
「前は蛇、今度は鬼か……」
無意識にこぼれた朱王の言葉は、暗闇の彼方から迸った尋常ならざる悲鳴に掻き消される。鼓膜を突き破らんばかりの絶叫に三人が顔を跳ね上げ、道の奥を凝視すると、全てを飲み込む闇の彼方から、転がるように二人の侍が飛び出してきた。
『頭が、胴体が!』と、何やら訳のわからぬ事を口走り、口角から泡を吹き出し、こけつまろびつ駆けてくる侍は、まるで幽霊にでも鉢合わせしたかのように真っ青だ。
「どうした! 何があった!?」
血相を変えて駆け寄る桐野。石に躓き地面へと派手に転がる一人の侍、その後方では同じく地に伏した一人がゲェゲェえずきながら、胃袋の中身を吐き散らしている。半狂乱になり、自分へしがみつこうともがく侍の胸ぐらを桐野が力一杯鷲掴んだ。
「落ち着かぬかっ! 何があったのかと聞いておるのだっ!」
激しく前後に揺さぶられ、喚くのをピタリと止めた侍は呆けたような眼差しで桐野を凝視する。
「死骸が……女の死骸が、林の中にありました。首が千切れて、腸が……」
額から玉の汗を滴らせ力の抜けた声色で呟く侍。その場の空気が一瞬で凍りつき、手に手に提灯を下げる侍らからどよめきが上がる。 『死骸はどこだっ!』そう大声を張り上げる桐野へ侍は震える腕を伸ばし、雑木林のある一点を指差した。
ガタガタ戦慄く指先、それが指し示す場所へ高橋と都築、そしてその場にいた侍らが脱兎の如く走り出す。 周りにつられるように走り出した朱王と志狼、 鬱蒼と生い茂る雑草や木々を掻き分ける侍らの間から顔を突き出した刹那、二人の目が張り裂けんばかりに見開かれる。
その場にいる誰もが一言も発する事が出来ない、身動き一つとれない。数多の視線が集中する先にあったのは、これ以上出来ないと言うほど滅茶苦茶に破壊された人体の一部だった。胴体から無惨に断ち切られた首は、光を失った虚ろな瞳に侍らを写し出し、縦一文字に切り裂かれた腹部からは、ドロドロと滑る血潮と鈍色に光る腸が流れ出ている。四肢は根本から切り落とされ、臀部や大腿部からは、すっかり肉が削ぎ落とさ、赤く血塗れた骨がはみ出していた。
破壊の限りを尽くされた肉体、息も詰まる血脂と、胃袋が引っくり返りそうな死臭……。目の前に広がる地獄絵図、朱王の視界がぐらりと揺れ、世界から全ての音が、そして感覚が一瞬のうちに消え失せていった。
「海華、連れてこなくてよかったな」
額ににじむ脂汗を拭いつつ、志狼がポツンと呟く。地面から突き出る大きめの石に腰を掛けていた朱王は、返す言葉が見付からないのか、それとも口をきく気も失せてしまったのか、渋い表情を崩さないままに小さく頷くのみだ。
それは桐野も、都築も高橋も他の侍らも同じ事。目も覆いたくなるばかりの惨い有り様の骸を目の当たりにし、もはや大騒ぎする者は誰一人としていなかった。 ただ、固く唇を結び、ある者は恐怖に凍り付いた、またある者は陰鬱な面持ちで黙々と勤めをこなすだけだ。
五体を切断され、腸を抜かれて肉を削がれた骸は捨て置かれた場所に筵を掛けられたまま、数刻以上が過ぎた今も放置されたままだ。東の空を見上げれば、そこはうっすらと白み始め、新しい朝の訪れを知らせる。 しかし、それは決して爽やかでも希望に満ちたものでもない、陰気な一日の始まりである。
「海華、志狼さんの事を心配してるぞ?」
「あんたの事も心配してるさ。……ところで朱王さん、どう思うよ、あの骸」
癖のある前髪をぐしゃぐしゃに掻き回し、そう尋ねる志狼は、自らの背後にある木に凭れかかり紫色に変化していく明けの空を見上げる。僅かに充血した目を擦りながら、朱王は忙しなく目の前を行き交う侍らを視線だけで追った。
「どう思うって……あんな殺し方、まともな人間ができるはずないだろう? 金品が目的でない上に肉が削ぎ落とされている……。志狼さんだって、大体わかっているんじゃないか? 鬼が何を目的に人を殺めているのかをさ」
「ああ、わかってるさ。だがな、言いたくねぇだけだ。人食いなんざ……考えただけで吐き気がすらぁ」
眉間に深々と皺を寄せ、忌々しげに吐き捨てる志狼。 はぁ、と微かな溜め息をつきながら朱王はその場から立ち上がり、雑木林に片隅で忙しそうに指示を飛ばす桐野を眺めた。
「乞食の母子も野菜売りの子供も、皆、食われたんだろうか?」
「そうだろうな……。子供らが鬼に食い散らかされたなんて、あの母親が知ったらと思うとよ……」
『可哀想だよな』押し殺した低い声でそうこぼす志狼を、腕組みした朱王が穴の開くほど凝視する。彼と出会った頃感じた他人への無関心さを思うと、今のような台詞が出てきた事態驚きだ。だが、朱王はその台詞の中に全く別のある違和感を感じ取っていたのだ。
「―― 志狼さん、今、なんて言った?」
闇と同じ漆黒の瞳で見詰められ、志狼は怪訝な顔付きで朱王を見詰め返した。
「何、って……母親が可哀想だと……」
「いや、違う。その前だ」
少々の苛立ちをにじませ、朱王が先を急かす。 いよいよわからない、そんな様子を見せながら志狼は薄い唇を動かした。
「だから、子供が食い散らかされたなんて知ったら……」
「そうだ! そこなんだ志狼さん、子供は食い散らかされたんだ。前も、今回も、骸は見付かっているんだよ」
ポン! と一つ手を打って、朱王は骸が横たわる雑木林の方向を向く。そんな彼の背中を見遣りながら口許をひくつかせる志狼は、やがてガックリと肩を落とした。
「悪りぃ朱王さん、俺……あんたの言ってる事がさっぱりわからねぇや」
朱王が一体何を言いたいのか、皆目検討がつかない。わかりやすく説明してくれ、そう背中へ声を掛ければ、朱王は口角を僅かに吊り上げながら、くるりと踵を返した。
「勿論、説明はするさ。桐野様のお許しが出たら、一度八丁堀まで引き上げよう。話しはそこでだ」
「わかった、もう帰ってもいいか聞いてくる」
そんな一言を残し、桐野の元へ駆けてい志狼の後ろ姿を見送りつつ、朱王は天に向かって大きな伸びを一つ。 肺の中から空気を絞り出すが如くに、深い深い溜め息を吐き出した。
「人食いだなんて、朝から気持ちの悪い事言わないでちょうだい」
梅干しを埋め込んだ握り飯を皿の上に置いて、海華は握りたてのそれを頬張る朱王を横目で睨む。炊きたての飯と味噌汁の香りが漂う桐野家の台所では、腹を空かせた朱王と志狼を横に、襷姿の海華が大急ぎで朝餉の仕度に取り掛かっている最中だ。
「だが、他に考えられないんだ。お前は見ていないからわからないだろうが、あれだけ綺麗に骨から肉を削ぐなんて……。おい、少し塩加減強すぎだ」
「あら、そう? でも、そんな話ししながら、よくご飯食べられるわね。はいこれ、客間に持って行って」
お握りが山と乗せられた大皿を朱王へ手渡して、味噌汁を注ぐ志狼の手伝いヘ向かう海華。朱王と志狼が帰宅を許され、共にこの屋敷の門を潜った時、彼女はまだ自室の布団に潜り込んだまま、夢の世界をさ迷っていた。前触れもなく帰宅した二人に腹が減ったと急かされて、慌てて飯炊きを始めたものだから、未だに寝巻き姿のままである。
「右から、おかかに昆布の佃煮、梅干しよ。 はい、召し上がれ」
『いただきます』言うが早いか握り飯に、かぶりつく兄と亭主を苦笑混じりに眺めて、海華は欠伸を噛み殺しつつ麩と葱が浮かぶ味噌汁を一口啜った。
「旦那様は、いつ頃お戻りになるの?」
「昼には戻りたいと仰っていた。だが、帰れるかどうかはわからんと」
飯を頬張ったまま、もごもごと口を動かし答える志狼は早くも次の握り飯へ手を伸ばす。 大皿一杯こしらえた握り飯は、あっという間に三人の腹へと消えていった。一息つきつつ満足そうに腹を撫でる二人を置いて、海華は茶の仕度をしに台所へ向かう。 その背中が見えなくなったのを確認し、朱王は胡座をかいていた足を組み直した。
「食ったばかりですまないが、さっきの話しの続きをいいか? 俺も、あまりゆっくりしてはいられないからな」
「構わないぜ、ゆっくりしていられないって、朱王さん仕事か?」
畳の上に足を投げ出してそう尋ねてくる志狼に、小さく首を振りつつ朱王は僅かに視線を逸らした。
「違う、ただ……朝っぱらから妹の嫁ぎ先で、だらだらしてる訳にもいかないだろう」
言い難そうに、朱王は言葉を濁す。すると志狼は少しばかり呆れた表情を見せて、困ったように笑った。
「そんな事気にしてたのかよ。あんたやっぱり水臭いぜ。いいか? 朱王さんは、俺の女房の兄貴だ。って事は、俺にとって大事な家族なんだぜ? 妙な心配してねぇで、ゆっくりしてってくれよ。さ、話しを進めた進めた」
にや、と白い歯を覗かせて笑う志狼と同じ表情を見せて、朱王はこめかみ辺りを指先で掻く。
「そう、か? なら、遠慮なく。―― 志狼さん、さっき俺の言いたい事がさっぱりわからんと言ったな? 俺が言いたかったのは、なぜ子供と女の死骸は見付かって、母子の死骸は出て来ないのか、って事なんだ」
背中を丸めて頬杖をつく格好をつくり、眉を 潜める朱王を横目に難しい面持ちで畳の目を見詰める志狼は、しばらくしてから、静かに唇を動かした。
「そりゃ、あれだ。どこか人目のつかねぇところに隠されたか埋められたかしたんだろうぜ。女子供の骸だ、簡単に……」
「だがな、先の二人は隠されも埋められもしていない。それどころか、人目につきやすい場所に棄てられていたんだ、まるで塵みたいにな。しかも、肝だの肉だの食そうな場所以外はみな棄てている」
「あ……言われてみりゃあ、そうだな。いくら子供だからって、頭からバリバリ食う訳にゃあいかねぇ。―― 朱王さん、もしかして…… 見えなくなった母子ってのが、黒塚の鬼、だってぇのか?」
驚きを、含ませた志狼の問いに、朱王は否定も肯定もせず、ただ澄んだ瞳を瞬かす。 湯気の立つ湯呑みを三つ盆に乗せた海華が客間に姿を現したのは、このすぐ後の事だった。




