第十三話「君の傷跡」
夕食も食べ終え、リビングでゲームをしてみたり他愛のない話をしていたらすっかり夜も更けてきた。
そろそろ寝る準備をしようと先に志真を風呂に入れているうちに自室へ追加の布団を用意する。床で寝るか、ベッドで寝るか。優海としては志真にベッドで寝てもらいたいが、性格的に断られる可能性が高い。それならば床へ二組の布団を敷こうかとも考えたがやめた。一度声をかけて断られたらそのまま自分はベッドで寝ようと決めたところに風呂から上がった志真が戻ってきた。
ドライヤーで乾かしたてのいつもよりふんわりとした髪の毛に温まって僅かに血色の良くなった肌、寝るためとはいえゆったりとした長袖の寝巻き、その全てが優海にとっては新鮮で同時にその貴重な姿をした志真が自身の家にいるという事実を噛み締めて心の中で小躍りしていた。
部屋に入り近づいてきた志真から自身と同じシャンプーの匂いがするという事実に思わず頬が緩む。
「お風呂ありがとう。あがったよ」
そう言いながら優海が座っていたベッドの隣へ腰掛ける志真に寝る場所について相談を持ちかける。
「おかえり、もうお布団備してあるよ……志真がお客さんだしベッド使って」
「いや、流石に使えないよ。布団用意してくれただけでありがたいから」
自然になるようにとベッドで寝てもらうよう誘ったつもりだったが、軽く笑いながら流されてしまった。こういう時の志真は基本的に意見を変えない。あまりしつこく言っても微妙な雰囲気になってしまうため、そっかと返事をしてそれ以上勧めることはしなかった。
志真と交代に風呂へ入った優海は湯船で今日1日を振り返りながら今度こそ存分に頬を緩ませていた。
自宅、ともすれば自室に志真がいるという事実が優海にとってこの上なく幸せであり奇跡のようなものだった。と同時にふと志真の寝巻き姿を思い出して静かにため息をついた。
「長袖、だったな」
前髪をかきあげながら天井を眺める。今は夏であり、ある程度快適な空調にしているとは言え流石に寝る時は半袖の方が過ごしやすい気候だ。それでも志真が長袖を選んできた理由はおそらく自身の腕にある傷跡を優海へ見せないためだろう。
志真が自身の腕を傷つけていることを優海は知っているが、優海が知っているという事実を志真は知らない。だからこそ学校でも遊んだ時も、そして今も。知られないようにと隠しているのだろう。
揺れる水面を眺めながら少しばかり己の無力さを感じ、それでもどうすることもできないこの関係にもどかしくなる。いつか、打ち明けてくれるのだろうかと淡い期待を抱きながら小さく気合を入れ直した。
風呂から戻るとすでに布団の上で志真が寝息を立てていた。待っていようとしたのだろうか、手元には携帯が握られたままかけ布団の上に寝転がっている。
寝ているところを起こすのは気が引けたが、夏とは言え布団を被らずに寝ては風邪をひくかもしれないと志真を起こしながら布団をかけるように促す。
「志真、寝るのはいいけど布団入って。風邪ひいちゃうよ」
「ん……ごめ、寝てた。布団、はいる」
眠い目を擦りながら僅かに起き上がった志真が再び布団の中へと潜り込む。優海の計画としては夜寝る前にも色々と話したかったが、どうやら志真の眠気の方が限界のようだった。1日課題をやったりゲームをやったのなら疲れるのも仕方がないかと22時を過ぎた時計を見て自身もベッドへ移動する。
一言二言言葉を交わしていたらいつの間にか再び寝息が聞こえてきた。志真は警戒している場所では基本的にあまり眠ることはしないため、こうして無防備に寝てくれるというのは優海のことを信頼しているように感じられて心の奥が暖かくなる。
しかし、それとは別に優海は緊張で眠れない状態が続いていた。
何を隠そう好きな人が自分の部屋で寝息を立てているのだ。この状況に目が冴えない方がおかしいというもの。床の布団で寝ている志真の方へと体を向けてその寝顔を伺う。緊張しているのにも関わらずその寝顔を見れば心が暖かくなるというのだから人の気持ちは不思議なものだ。
しばらく眠る志真の顔を眺めていると、ふと穏やかだったはずの表情が徐々に歪んでいくのが見えた。
「志真?」
声をかけてみるが、眠りが深いのか返事はない。起こさないようにとベッドから出て志真の横へと腰を下ろす。僅かに浅くなった呼吸と何かに縋るように伸ばされた手が苦しげに動いている。伸ばした左腕の袖口から僅かに傷跡が除き、優海の心を締め付ける。せめての力になればと志真の手を握り、浅い呼吸を繰り返す体をそっと抱き寄せる。
冷たくなっている手にも関わらずじんわりと滲む汗に起こした方がいいかと悩むが、この状況で目が覚めても混乱するだけだろうと判断し、柔らかな髪の毛を撫でながら呼吸が落ち着くのを待つ。時折何かを呟いていることに気がつき、そっと志真の言葉に耳を澄ませる。
「なぃで……、俺のこと、置いていかないで、頑張るから……見捨てないで」
その言葉に優海は改めて志真の左手を握り返しながら、そっと抱きしめる。
「大丈夫。大丈夫だよ。僕がずっとそばにいるから、だからーー泣かないで」
目尻に滲む雫とシワが刻まれた眉間をゆっくりと撫でて声をかける。大丈夫。この言葉に偽りはない。頼ってくれなくとも、劣等感を抱えていようとも、今度は自身が志真のことを守るのだと改めて優海は誓うのだった。
夢を見た。いつも通りの嫌な夢だ。
誰かの背中を追いかけて走り続けていたらいつの間にかその背中も見えなくなり、ガラガラと足元が崩れて奈落の底へと落ちていく。そして落ちていく視界の中を皆が前へ前へと走り、自身のことを置いて行ってしまう夢。
父も、兄も、友人も、奈落の底へと落ちていく志真のことを気にすることなくその距離はどんどんと開き、どこまでも志真だけが落ちていく。崩れた足場が戻ることはなく何かに縋るように伸ばした手は空を切る。
お願いだ、置いていかないでくれ。努力が足りなかったのだろうか、実力が足りなかったのだろうか、必死で足を動かしても足場がなければ前に進むこともできない。他人のためになっている。自身は努力をしているというその自尊心で出来た足場。
ーーそれはお前の実力じゃないだろうーーいつまでも頭の中に出てきては戻りかけた足場を砕いていく父親の言葉にもうどこを目指しているのかもわからなくなってしまった。
見捨てないで、なんて誰に向かって言っているのだろうか。自分に価値と言えるだけのものもなく、ただただ周りの評価からでしか自分を形取ることができない弱い存在。努力など無駄だ。したところでどうせ兄には敵わない。自分に価値がないのであればせめて人のためになることをして、必要とされたい。
そうすることでしか自身の存在価値を認識できない。いつからこんなにも脆くなってしまったのだろうか。
誰かに必要とされたい。ただ、それだけだった、認められたかった。存在してもいいと言ってもらいたかった。
底などない奈落に落ち続ける、もう手を伸ばすのも疲れてしまったその時、初めて誰かが手を握ってくれたような気がした。落ち続ける背中を支えて包みくれたような気がした。
大丈夫ーーどこからともなく聞こえてくるその声に、少しだけ前に進めるような気がしたのだ。
足場のない暗い世界でその声と誰かが繋いでくれた手を頼りに漂う。進むべき方向など暗闇の中ではわかりもしないが、それでも僅かに明るい方角が初めて見えた気がした。




