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第一話 1.

 その家は駅から程近い新興住宅街の中に、ぽつんと建っていた。

 都が普段利用する駅の繁華街側とは反対にあり、閑静な住宅街なのでめったに足を踏み入れない。

しかしその日都は、会社帰りに最寄駅で降りると、繁華街側に位置する自宅とは反対方向へ迷わず歩き出した。少し遠回りをして散歩をしたい気分だった。


 都は散歩が好きだった。健康を気にしてのウォーキングというほど大層なものではない。あてもなくぶらぶらと知らない街並みを見ていると、混沌とした頭の中も整理されていくのだ。

このところ仕事が立て込んで毎日忙しく、気分転換がしたいためでもあった。

──どうせ急いで帰ったところで部屋には誰もいないんだし。

 日が暮れかけた空を見上げて、少しずつ暖かくなってきた夕方の空気を吸い込む。

都は幼い頃から夕暮れの住宅街を歩くのが好きだった。どこからともなく漂ってくるそれぞれの家の夕食の匂いから「ここの家はカレーかな」「ここの家は焼き魚だろう」と推測するのは楽しかったし、暖かそうな明かりが窓から漏れているのを見るのが好きだった。


都には両親がいない。

 都がまだ幼い頃、飛行機事故で二人とも亡くなってしまったのだ。都は両親の死後、母の姉一家に育てられた。伯母は都を実の子供のように可愛がってくれたが、共働きの夫婦だったため、都はいつでも一番に家に帰ってきた。当然のことながら、毎日都は暗い部屋に進み入ると、自分で部屋の明かりをつけた。明かりが空間を満たすと、都の気持ちも少し暖かくなった。

明かりが灯る家に憧れながら都は大人になり、一人暮らしを始めた。結局都は今でも明かりのついていない部屋に帰る生活を続けている。

家並みを眺めていると、少しずつ都の気持ちは軽くなってきた。

そのときだった。ひっそりと佇むように建っている古い一軒家を見つけたのは。

瀟洒なデザインの新築一戸建てが数多く建ち並ぶ中で、その家の古さは浮いていた。

──こんなところに、こんな古い家があったんだ……。

都は何故かその一軒家に心惹かれ、立ち止まって見上げてみた。扉は閉ざされ、窓の明かりも消えている。庭には家に沿うように背の高い木が植えられ、雑草とも故意に植えたものともつかない草花が茂っていた。

──空き家かな。

長いこと人が住んでいない気配を感じる。けれども庭木以外は、荒廃した印象はない。

赤い屋根にくすんだ緑色の外壁は、現代の家には見られないセンスだと思ったが、どことなく懐かしさがある。

──こんな家に住んでみたいな。

閉ざされた窓を見上げ、そんなふうに考えていると突然庭の草木が左右に揺れ、音を立てた。都はびくっと体を震わせた。

「……どなた?」

──うわ、人がいたんだ。

しかし声は女性のものだったので、都は少し安堵した。

伸び切った雑草を縫うように現れたのは、意外なことに少女だった。きびきびとした動作でまっすぐに都の前に進み出る。都は自分の方がよほど年上であるにも関わらず、思わずたじろいだ。

「何かこの家にご用ですか?」

 毅然とした態度と声で少女は訊ねた。

まっすぐな目と、顎のあたりで切り揃えられた黒い髪。夜目にもとても美しい少女だとわかる。

少女の眼差しは、暗闇の中でも刺すように強かった。都の視線を捕えて離さず、目を通して心の奥底まで見透かされてしまいそうに感じた。

「い、いえ……何でもないんです。すみません」

都はしどろもどろになりながら頭を下げ、慌ててその場を立ち去った。少女の視線を背中に強く感じていた。悪いことをしていたわけではないのだが。


逃げるように古い家の前から離れた都は、仕方なく自分の家に帰ることにした。途中コンビニに寄って夕飯の買い物を済ませる。この頃は料理を作る元気もなかった。

駅の繁華街側にある無機質なワンルームマンションが都の住処だ。

小さく呼吸を整えると、都は鍵穴に鍵を差し込んだ。扉を開くと塗料のような刺激臭が鼻をつく。部屋にいると気にならないが、外から帰ってくるとこの部屋の匂いを感じる。

──この部屋の匂い。

 夕飯の匂いや、人の醸し出す暖かな匂いではないことが少し寂しかった。

部屋の奥に入ると、都の視界に段ボールが映る。途端に絶望的な気分になった。

──ああ。

 思い出したくもなかったが、思い出さないわけにはいかない。

 都は引っ越しを控えていた。引っ越しの時期が迫っているわけではなかったが、もうこの部屋にはできるだけ居たくなかった。


 三年間付き合ってきた雄一との別れは、都にとって晴天の霹靂だった。

 都はあと一週間ほどで誕生日を迎えようとしていた。かつて何年かそうしてきたように、都と雄一は二人で気に入ってよく通っていたレストランを予約していた。

「ごめん。今年は誕生日を一緒に過ごせないんだ」

 唐突に都は、電話口で雄一から告げられた。持って回った言い方だと都は思った。

「あっ、じゃあ予約別の日に変更する?当日じゃなくても私……」

「無理なんだ」

代替案を提案しかけた都を、雄一がすばやく遮る。

「詳しいことはまた連絡する」

電話は都の返事を待たずに、一方的に切られた。都はしばらくぽかんとした後、放心したまま電話を切った。

──またこういう感じか。

都は言いたいことが言えない性格だった。ことに雄一に対しては、いつも言葉を飲み込み極力彼に合わせるようにしてきた。

雄一とのデートは、雄一の趣味に都が付き合うことが多かった。SF映画もフィギュア店巡りも都の趣味ではなかったが、楽しそうな雄一を見ると都も嬉しかったし、自分の世界が広がっていくような喜びも感じた。自分の主張を殺して相手を立てている、そんな自分が都は好きだったのかもしれない。

二人の関係はそれなりにうまくいっていると、都は勝手に思っていた。

しかし先ほどの雄一の電話の感じから、さすがに不穏な空気を感じ取った。けれども本能的に都は深く考えることを止めた。

 考えなければ事態はこれ以上悪い方向にいかない、そう思い込もうとしていた。

 嫌なことに直面したとき、見て見ぬふりをする。それも都の特徴であり、処世術の一つだった──はずだ。

 レストランに謝りの電話を入れると、店の人はとても好意的で、「またお二人でいらしてくださいね」とまで言ってくれた。何度も店に通っていた都と雄一の存在を認識してくれていたようだ。その優しさが都にはこたえた。

「食事はできないが話はある」

と、またしても一方的な電話があったのは翌日だった。雄一は誕生日のキャンセルの件と同様に、重々しい声で告げた。

──もう絶望的だ。

考えないようにしていても、確実にその時は近づいていた。都は自然と体が震え出して止まらなくなっていた。

 がたがた震えながら都は雄一に呼び出された指定先の路上に出向いた。雄一と都の家のちょうど中間にあるコインパーキングの自販機の前が待ち合わせ場所だった。二人の思い出の場所とまではいかないが、時々待ち合わせの場所として使ったりもした。

都はコインパーキングを目指しながら感傷に浸った。

──別れ話を切り出されるんだろうな。

 体の震えが治まらないので季節外れの厚着をしてきたが、一向に震えは止まりそうにない。先に到着した都は、両手で自分の体を抱くようにして待っていた。

 ほどなくして、都とは反対の方向から雄一が歩いてきた。ひどく陰鬱な表情をしていた。

──これから新しく関係が始まるのならいいのに。

 都は埒もないことを願った。すべては終わろうとしているというこのタイミングで。

雄一は見たことのない春物のジャケットを着ていた。この時期になると、都がプレゼントした薄手のコートを羽織っていることが多かったけれど、今日は着ていなかった。当然だと思いながらも、都は少し寂しかった。雄一は軽く片手を挙げて都に挨拶をすると、すぐに口を開いた。

「ごめん。ずっと考えていたけど、俺、やっぱり都と結婚できないと思って。だから今年は誕生日を祝わずに別れようと思う。というか、別れてください」

 陰鬱な表情をしている割に、雄一の言葉はスラスラと淀みがなかった。ずいぶん前から練習していたんだろう、と思うと次第に都の震えも治まってきた。

──私だけが順調だと思っていただけだ。

 しかし予兆に気付いていたとして何が出来ただろう、とも都は思う。

「わかった」

 都はそう答えて、踵を返すと雄一を置いて歩き出した。雄一は追いかけては来なかった。

騒ぎも問い詰めもせずに去っていった都に、ほっとしているのかもしれなかった。

 三十歳の誕生日を共に祝ったら逃げられなくなると思ったのだろうか。

 浅墓な雄一。

 結婚してくれなくても、別に取って食いはしなかったのに。

 しかし正直なところ都のほうも、今年こそプロポーズされるかもなどと、わずかに期待していたのだった。

浅墓な私。

都はそうも思った。

──明かりの灯る家に住めるのかもしれない。

一瞬でもそんな期待をしてしまった愚かな自分が惨めだった。それから「結婚してもらう」という言い回しはずいぶん卑屈だと改めて感じた。

 都はかなりの距離を一人足早に歩き、振り返って後ろに誰もいないことを確かめると、ふいに涙が出てきた。

「三年か」

 都はつぶやいた。それは決して短い時間ではなかった。別れの流れも予想通りと言えば予想通りだったけれども、「結婚できない」と言う言葉は胸に突き刺さった。

 おまえは将来、未来永劫誰とも結婚できない。

 そんなふうに言われたような気がした。

 あっさりとした最後だったが、都は他にどう振る舞っていいのかわからなかった。陰鬱な表情を浮かべていたが雄一が好きだったし、雄一の恋人として時間を過ごせたことには感謝していた。


 その日はどうやって部屋に帰り着いたのかよく覚えていない。コンビニで酒を大量に買い、とにかく酔っぱらってシャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。

 何度か目を覚まして泣いたり吐いたりした。号泣している最中にふとおかしくなって大笑いし、夜中だったことを思い出して笑うのを止めた。

──隣近所に気を配れるほどには、私はまだ人を思いやることができる。

 都は、はたとそんなふうに考えてしんみりした。

 もっとメチャクチャに別れることもできたはずだ。しかし雄一を問い詰めることも罵ることもしなかった。しなかったというより、できなかったのだ。プライドが許さなかったのか、最後はいいところを見せたかったのか、都は自分でもよくわからない。

 震えが止まらないほど別れが怖すぎて、これ以上詳細を掘り下げたくはなかった。掘り下げなくても別れは決まっていたのに、そうせざるを得なかった。


 こうして都は、三年付き合った恋人の雄一とあっさり別れた。振られたと言うべきか。

 おまけに社内恋愛であったので会社で雄一と顔を合わせるのが苦痛なのもあり、都はこれもまたあっさりと退職を決めた。もともと派遣社員として雄一の会社に勤務しており、ちょうど契約期間が満了になるところだったのだ。

──何という皮肉な円満退社。

 都は部屋で一人つぶやき、派遣会社に連絡をして、担当者の島崎奈央に「すぐに紹介先を見繕ってくれなくても大丈夫だ」と告げた。都はこれまで同じ派遣会社を通して何社も渡り歩いてきたが、ずっと島崎奈央とは二人三脚だった。

 弱った気持ちのときに、馴染みのある島崎奈央の声を聞くと安心した。島崎奈央の声は常に安定していて、こちらを励ましてくれるような根源的な温かさがあった。

「……少し、ゆっくり考えてから次の仕事を探そうと思います」

 都が電話口で無理に明るい声を出すと、

「転機ってことですかねえ。頑張ってくださいね」

 これまた明るく切り返されて、都はずしんと来た。

──転機。

 通話を終えると、都はばたんとベッドに横たわり天井を眺めた。見慣れた生成り色のクロスが張られた天井をぼんやりと見つめ続け、突然おかしな勢いで起き上がると荷造りを始めた。

「この部屋を出る。一刻も早く出る」

部屋にいると、雄一との思い出のいい部分ばかりが取り留めもなく浮かんできて眠れなくなるのだった。

 都はぶつぶつ呟きながら、脱ぎ散らかしていた服を畳んで、うずたかく積み上げていった。

「しまった。段ボールないじゃん」

 物を固めただけでしまう箱がないことに気付いた都は、やる気を失くして再びばたんとベッドに横たわった。おまけに引っ越し先もまだ決まっていない。

──それでも私はこの部屋を出る。

 都はもう一度、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。



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