夜空に浮ぶ月と星
視界を覆っていた薄い膜が無くなり、消えかけていた世界がはっきりと映し出された時、俺は自然と涙していた。
大切な人たちが死んだ時に流していたものとは違う、なんだろう……。言葉に出来ないものが溢れて止まらず、はらはらと頬を伝っていく。
壁は無かった。天井も。あるのは俺を見下ろす限りない輝き。こんな景色、白銀の記憶でも見たことがない。
驚きすぎて口を開けてしまっていると風が急き立ててきて、俺は横たえていた身体を起こして前を見た。
そう、風が通り抜けている。身体を震わせるすきま風ではない、世界の息吹きが俺の世界に流れている。
「き……、れい、だ」
「当たり前です。当たり前でしょう! 全てがわたくしたちの色を持っているのですから!」
前後左右、壁の消えた塔の最上階の部屋で、空へと伸びる鉄格子を中心に二つの黒が線を結ぶ。
あんなにも強固で絶対で、どうにもならないと思っていた鉄の棒は、透明度の高い肌をした手に掴まれてひどく滑稽に映る。細い手首に細い指、丸い爪を持った手が何かを求めて伸ばされていた。
ふらつく頭を押さえつつ立ち上がる。疲労困憊な身体は不思議と軽い。長年背負っていたものをやっと下ろせたような感じだ。
「そんなに泣いてしまったら、干からびてしまう。俺の周りには泣き虫が多いな」
散らばる本に足を取られながら、最後は鉄格子にぶつかるようにその人の元へと辿り着いた。
勢いがついてしまったせいで、伸ばされた手を取ってはやれなかったけれど、濡れる頬に無意識で手を添えていた。夜風のせいかひんやりと冷たくて、涙は熱い。綺麗な瞳が俺を見上げる。
「あなたが中々泣かないから、きっと皆が泣きたくなるのです」
「そうか……。それなら、もう良い。一番の泣き虫が、やっと泣き止んでくれたみたいだからな」
「え……?」
「あなたが導いてくれたのだろう? ありがとう。おかげで俺は、俺のままで逝くことができるようになった」
手のひらで涙を拭ってやりながら、ずっと近くに居たらしい眠っていた同胞に礼を言う。
けれど、意味が分からないと困惑していた白銀の力を受け継ぐ彩色士は、頬から離した俺の手を取り逃してはくれない。
「冗談を言わないでください。わたくしはそんなことをさせるため、ここに来たのではありません」
「なぜ? 俺は役立たずの彩色士だ。元凶が誰もいなくなったのなら、役目を果たせない俺は、この力を世界に返して正常に戻す必要がある」
状況を把握できずとも、俺の中から白銀を感じられないことぐらいは分かる。
ここぞとばかりに笑ってやりたいはずなのに、どうしてもそんな気にはなれず。むしろ、それでも力が使えないままな自分にホッとした。
あの罪深き彩色士は憎しみを置き土産に、しっかりと俺を喰っていったのかもしれない。頭が冴えてくると、目覚めた時の感動を最後にすぅっと心が冷えていく気がするから。
母さんや先生のことを考えても、悲しみはあまり浮かんでくれない。俺の中の何かが減ってしまった。
「一人にしないでと言いました!」
「俺とあなたは出会ったばかりだ。どうとでもなる。それに、俺があなたを見送るから、残しはしない」
塔の周囲では、徐々に喧騒が近付く気配がしていた。十中八九、俺を、俺たちが目的なはずだ。
それでも、この同胞は逃げ果せられるだろう。褒められたことではないが、白銀の力は戦いと相性が良い。元々は、彩色士たちを護るために世界が用意してくれていた力であり、彼女はしっかりとそれを理解している。
「……分かりました」
しかし、俺と違って聞き訳が良いと安堵したのも束の間。捕まった手首に痛みを覚えていると、黒々とした瞳が淡い光を帯びる。
「長年の仕打ちに加え、あの愚か者のせいで大分疲弊しているようなので、出来れば後回しにしておきたかったのですが。致し方ありませんね」
「は……?」
「分かりませんか? わたくしの力は、呪いを生み出した白銀のものと同じです。ならば、解けないはずがない」
「どういう……」
「ご安心を。いざとなったらしばらくは、ここで篭城できますし。……壁も屋根もありませんが」
今度はこちらがうろたえたが、俺の出会う人は皆、どうしてこうも自分勝手なのだろうか。
勢いよく腕を引かれ、鉄格子の一本に頬骨をぶつけて呻く俺に、見た目だけなら人形のようで可愛らしい彩色士が血塗れた唇を押し付けた。
満天の星空の下、初めて浴びる風に祝福されながら、何故か俺は同胞からの口付けを受ける。しかも、鉄格子の間から。直前に噛んで流した血液を、彼女は俺に分け与えた。
「っ――」
「良かった。今まで失っていたものを戻すので、何かしら反動があるのではと思っていましたが。どうやら大丈夫のようですね」
「な、に……を」
「ですから、かつて白銀が黒の彩色士から奪ったものを返したのです。あなたの色を」
「俺の色は元から黒だ」
「はい。けれど、本質と力はまた別でしょう? 白銀はそこを突いたのですよ。わたくしたちは特殊ですから」
口内に広がる鉄臭さと自分以外の温もりに慄く俺と違い、至って冷静な様子に思考が追いつかない。
とりあえず、唇が離れた瞬間に数歩下がったが、会話を聞いている内に足元がぐらついた。
彩色士の間で理は平等だ。ただ、当たり前だが無いものは理解できない。だから俺は例外として、力に関してとても疎かった。その知らなかったものが一気に押し寄せてくる。
視界が急激に回転し、それでも耐えようとしてたたらを踏んだ。
「大丈夫ですか?」
「だい、じょうぶだ」
「それは良かった」
白銀が消えた部分を埋めるように、力が満たされていく。ずっと望み、それでも得られず、何も出来ないままに失ってきた俺が本来持っていたはずのもの。
なにが良かったものか。今さら戻ってきたところで、これを使いたい相手は誰も残ってはいない。
「……新たな白銀の彩色士、お前は」
「わたくしをその名で呼ぶな!」
虚しさがつのり、何もかもが零れ落ちた手のひらを見つめながら呼ぶと、思いがけず苦しげな声で叫ばれた。そのせいで、どうしてか俺まで苦しくなってくる。
見つめてみると彼女の背後から矢が飛んできて、とりあえずそれを無効化しておく。矢羽に極限まで色を与えて破壊する。初めて力を使ったけれど、それは言うまでもなくしっくりと馴染んだ。
彩色士は人間のようで人間では無い。色そのものが形となり、世界に根付いた命だ。だからこそ、全ての色が合わさってできた俺たちだけは使える力が強すぎて、一方向からしかそれを発揮できない。
「わたくしの髪が黒ではないのは、確かに同胞の中でただ一人、色を奪いつくせるからです。けれど!」
かつての俺はよほど嫌われているらしい。まあ、好かれるはずがないけれど、せっかく泣き止んだのだから放っておいてやりたいと思う俺は、やっぱり狂ってしまったのか。
美しい髪を乱暴に引っ張る同胞を宥め、だったらと名を問うた。
「星屑……。わたくしは星屑の彩色士」
なんだか今決めたというような顔をしている。けれど、まさしく相応しい名だ。そう思う。
星屑の彩色士が生まれ変わったとき、そこには数多の願いが込められた流れ星が見えていた。彼女の色はすでに、この世界を飛び回っていることだろう。俺とは違って。
「では、星屑の彩色士。これ以上は逃げるのが難しくなってくるだろう? この礼はいつか必ずするから、先に行け」
「まだそんなことを。わたくしたちは、あの罪深き二人とは違う。あなたは色を与え、わたくしは奪い、そうして共に自由を手にできるのですよ!?」
「それは無理だ」
次第に数を増やしていく矢をお互いに消しながら会話をする。俺が鉄格子から離れていくと、星屑の声量が増していった。
意固地だと思うだろう。何故だといぶかしんでいるはずだ。
けれど、それでも彼女が鉄格子を消さないのは、俺の意思なく壊したところで無意味だと気付いているから。
最後の一歩はいずれも本人が踏み出すもの。そうだよな、先生?
背後で床が途切れたので下をのぞき込んでみると、そこには明々とした光が並び、殺気立った人間がひしめいていた。
「残念ながら力を取り戻したところで、俺は役立たずのままだ」
「何故!」
「約束だから。それが、俺にできるせめてもの償いだ」
未来を生きるのなら、思い出はいずれ薄れてしまうだろう。悲しみはすでに失ってしまった。
だったら、彼らがたしかに居たという証は、約束を守り続けることでしか俺には残せない。忘れるぐらいなら、それこそ死んだ方がましだ。
〝いつか〟必ず礼をする。そう言えただけでも十分、未来を込められた。
「力を使わないと?」
「違う。彩色士であることを放棄するつもりはない。ただ……」
「ただ?」
「たとえば、そう。塔の周りを取り囲んでいる人間を、俺はあなたの為に満足に退けてやれないだろう」
「殺しはしないと」
「そうだ」
おそらく普通の彩色士であれば、俺の言葉を理解しようとすらしてくれない。どれだけ理由を述べようが、結果として人間を優先していることになってしまうから。
けれど、目の前の同胞ならば……。この罪なき同胞殺しならば、きっと。
「これまでで、あまりに死に近付きすぎた。そんな俺が直接手を出せば、もう戻ってこれなくなってしまう」
先生は、それに気付いていたんだと思う。だから手を染めるなと言った。たった一人を皮切りに、歯止めが利かなくなってしまうことを恐れて。黒い髪の新たな白銀が生まれないように。
母さんを染め上げた白が、それだけ美しかったのが悪い。俺は魅入られてしまった。
ひときわ大量の矢が襲い、俺たちの間で数本が石の床に拒絶されていた。上がってこないのは、統率がなっていないからか。それでもそろそろ限界だ。
俺の告白に黙ってしまった星屑を安心させるため、なんとか微笑む方法を思い出して精一杯浮かべる。
しかし彼女は、自分勝手に加えてどうやら強引さも兼ね備えているらしい。それはとても甘美で情熱的な誘い文句。いや――殺し文句だった。
「ならばわたくしが殺します」
「なにを言っているんだ?」
「あなたが誰も殺さないというならば、あなたの代わりにわたくしが、わたくしたちに仇なす全てを捻じ伏せましょう」
「危険な状況でも、俺はけして助けないぞ。俺の手は、血の一滴も流せない。一欠けらの命も奪えない」
「構いません。そうならないよう、強くなればいいだけです。相手がたとえ〝粛清者〟であろうとも。だからあなたは、好きなだけ与え続けてください」
迷いは微塵も窺えず、至極真面目に言い放つ。なんて力強く、そして短絡的な言葉だろうか。
星屑はふくらみのある胸に手を添え、鉄格子から一歩引いて満面の笑みを浮かべてくれた。
「あなたが出来ないことを精一杯、わたくしが代わりに請け負います。けれど、それでは不公平ですから。あなたは傍で見続けてください。わたくしたちが混ざり溶けるその瞬間まで、ずっと」
「……お前を白に染めてしまうかもしれない」
「それは違います。なぜ、白の彩色士が居ないのか。わたくしは思うのです。その色は唯一、混ざり合うのではなく染まってしまう。死が世界にさえ訪れるものであるように、それはきっと誰もが持つ色。だからあなたは護ってくれさえすれば良い」
「何を?」
「わたくしの心を。あなたの色を全て与える勢いで。わたくしもまた、奪います。何度だって、迷い立ち止まるあなたの心を」
威風堂々と立つ姿は身震いがするほど美しかった。それこそ母さんの首を越えるほど。
星屑の言葉は、すんなりと収まっていく。そうか、と呟けば、そうですよと返ってきた。まるでずっと、そうすることを待ち望んでいたように。
「死は元々、皆が持っている色……」
「はい。それをどう映し出すかで変わってくるのでしょう」
まばたきによって、目尻から零れる想いがあった。たった一粒、小さなものだったけれど、それが床に落ちる瞬間、俺は口にしていた。
「ずっと外に出たかった……。生きたいと、言ってやりたかった!」
「わたくしも。ずっと自由を夢見ていました。ただ呼吸をするだけではなく、生きてみたかった」
空を仰げば星がまたたき、弱々しい光が降り注ぐ。俺はこの夜が明ける様子を、いつか見ることができるのだろうか。全身で受け止められるようになるまで、何度も陽の光を浴びれるのか。鉄格子の向こうで待ってくれている星屑の手を取ったならば、自分の足で草を踏みしめ歩くことが叶うと確信した。
一歩一歩、前に向かって進んでいく。その邪魔をする弓矢は全て、彼女が排除してくれる。
触れた冷たい鉄の棒は、空へと必死に背を伸ばすも届くことはできず、先生の色でもあった赤を与えることで錆び朽ちていった。派手な音をたてて崩れていく。
こんなにも簡単なことだったなんて。今さら気付いても、失った人たちは返ってこないけれど。それでもこれまでの想いの数々は、耐えてきた苦しみは、これからの未来で彼女を護る糧になれるだろうか。
「足手纏いにしかならないぞ」
「恥ずかしながらわたくし、お金の使い方すらまともに分からないのです。あなたが居ないと野垂れ死に確定かと」
「……そういえば、お姫様だったな」
「はい。呪われた姫でした」
「俺は呪われた彩色士だった。ただ、師匠のおかげで知識だけなら無駄にある」
一人ではままならないことも、誰かがいれば可能になる。本当だ。今まさに、ずっと分からなかった生き方が見付かった。
今度は嬉しそうに肩を揺らす星屑の頬に手を添え、少しだけ腰を落とす。その気高き魂に誓おう。全ての色を込めながら。
「俺は、あらゆる白を背負おう。お前がこれまでもたらしたものも、これから先、俺のためにもたらすものも。そうしてお前の心を護ろう」
「えぇ、わたくしの彩色士。わたくしだけの色。あなたの全てがわたくしのものです。そうでしょう? ――月白の彩色士」
「月白……」
「星によって輝く月。そしてあなたにとって特別な白。ぴったりだと思いませんか?」
それもまた、今決めたのだろう。
だというのにその自信。きっと彼女には、星の数だけ様々な顔がある。可愛らしいだけでなく、凛々しいだけでなく。時に残酷で、悠々と。その姿を傍で見続けられるなど、夢のようだ。
そう――俺を閉じ込める檻はどこにもなく。盲目の人形を縛る枷は消えうせた。周囲は変わらず剣を向け、矢を放つだろうが、俺たちはもう何者にも染まらない。
さらに腰を落として熱を分け合う。あれほど大胆に人の唇を奪っておきながら、小さな身体を僅かに震わせ目を硬く閉じる星屑がおかしくて仕方がなかった。
「仰せのままに」
耳元で囁くと、頬をほのかに色付けて、くすぐったそうにはにかむ。それだけで、未来が明るく感じられた。
それから星屑は、目に鋭さを備えて塔から色を奪い瓦礫へと変える。悲鳴が響き砂埃が舞う中、今度は俺が大地に緑を与えて空に草の階段を作り、二人でその上を駆けだした。
「すごい! わたくしたち、二人で居れば無敵ですね!」
「そうだな。どれだけお前が色を酷使しても、俺ならその分を補ってやれる」
白だけが残されるその時まで――
夜空を彩る月と星は、長い時を経てやっと、遠い遠い地上にて結ばれた。眩い光を放てるわけではないけれど、かつての自分たちが叶えることの出来なかった光景を作りあげる。
始まりの地に築かれていた国が敗戦するのは、俺達が旅立ったその日の午後のことだったらしい。国王は玉座にて、静かにその瞬間を迎えたそうだ。既に首だけだったという。
これで少しは、彩色士が生きやすくなれば良い。誰にも邪魔されず役目をまっとうできればそれが理想だが、それは難しいだろう。世界はままならないことばかりだから。
「これ、本当にあなたのお母様が?」
「そうらしい。……本当に、凄いな」
それでも、生きていこうと思う。今度は護られるだけでなく、お互いに護り合いながら。俺は弱いから、格好つけるのは無理だけれど。
ただ、いつかもし、俺も両親のように未来を残せたとして。そこに理不尽があるならば、どんなことをしてでも抗うつもりだ。俺を想ってくれた全ての者に胸を張れる形で。
「いつかきっと、陽の下で会いにきましょうね」
約束しよう。いつかきっと。
夜空に咲く母さんの花に、俺たちは未来を誓った。




