第1話「消えた師範代」
月明かりを映した湖面を、ディーネは退屈そうに眺めていた。
人と精霊が共存する世界――ダイタニア。
その世界を支える四つの神殿の一つ、水の神殿。
柱として人々から崇められる立場にありながら、彼女の胸の内を満たしているのは誇りではなく、空白だった。
「……こんな夜更けに、冷えますよ。ディーネ師範」
背後から掛けられたのは、穏やかで太い声。
振り返らなくてもわかる。道場で誰よりも木刀を振っている、筋骨隆々の大柄な青年――彼女の弟子の一人だ。
「……あんたか」
ディーネは身を翻し、ふっと不敵に笑う。
「ねえ。あんたさ、毎日毎日こんなところで素振りばっかりしてて、退屈じゃないの?」
「退屈などしません。俺にとって、師範のそばで武の道を歩む日々がすべてですから」
大真面目な顔で真っ直ぐに答える朴念仁に、ディーネは「はぁ」と呆れたように息を吐いた。
「ほんと、あんたってば筋金入りだね」
ディーネは、この男の“熱”を理解していない。
正確には、理解するための感覚が欠けている。
好きも、憧れも、執着も――彼女の中では輪郭を持たない。
それでも彼は、まるで当然のようにそこに立っている。
「……でもさ、あたしはもう、飽きちゃったんだよ」
「……飽きた、とは?」
「十六でここを守り始めて四年。道場だって、もう副師範代に任せとけば立派に回る。だから……あたしはもっと、面白くて広い世界が見たいのさ」
ディーネは青年の目の前まで歩み寄り、その顔を見上げた。
「あたしはここを出るよ」
言葉にすれば、それだけだ。
だが、その一歩がどれほど重いかを彼は知っていた。
彼にとってこの道場は、積み上げた時間そのものだった。
師範のそばで剣を振るう日々は、人生の意味に等しい。
それでも――
拳を握り、視線を落とす。
そして、もう一度顔を上げた。
「……なら、俺も行く」
ディーネの眉が僅かに上がる。
「どこへでも、お前と」
ディーネは、その言葉の意味を深くは理解しなかった。
だが一つだけ分かったことがある。
この男は、“自分の行動基準”を持っている。
そしてそれは、自分の空白とは違う種類のものだ。
それが少しだけ、興味を引いた。
「……あっそ。後悔しても知らないからね」
「するはずがない。俺はお前についていく」
ディーネは満足げにニッと笑い、青年の無骨な手を無造作に掴んだ。
「なら、さっさと荷物まとめな」
月明かりの下、重なり合った二つの影が神殿の奥へと消えていく。
それが、気高き《水の柱》が自由を求め、ただ“自分のことを好きだと言う男”ではなく、“理解できない熱を持つ存在”に興味を抱いて歩き出した、旅の幕開けであった。




