第1話 封印されし左手と、終焉の朝
皇冥斗は、自分が選ばれし存在であると信じていた。
右目に宿るのは滅びを観る邪眼。
左腕に封じられているのは、世界すら破砕する禁忌の力。
そして己が真名は、《原初の夜を裂きし冥王ルイン=クロノス》。
――という設定だった。
「……くっ」
朝の通学路。春の風がまだ少し冷たい中、冥斗は左手に巻かれた包帯を右手で押さえ、眉間に深い皺を刻んでいた。
「やはり、今朝は抑え込みが浅いか……このままでは封印されし滅界左腕が目覚めてしまう……」
無論、目覚めない。疼きもしない。ただの左手である。
しかし皇冥斗は本気だった。
包帯は自分でドラッグストアで買った。
黒い指なし手袋も通販で取り寄せた。
制服の下には、自作した魔法陣を印刷したTシャツまで着込んでいる。
その完成度の高さゆえに、もはやクラスメイトたちも何も言わない。
「あ、おはよう皇くん」
「おはよう」
「今日は左手の調子、悪い感じ?」
「……ああ。今朝は封印が薄い」
「そっか。大変だね」
「大変なんだよ、たぶん」
同級生たちの反応は、いじめでも嘲笑でもなかった。
強いて言うなら、絶滅危惧種を見守る環境保護団体のような温度感である。
皇冥斗。中学二年生。
成績は中の上、運動神経は普通、顔も悪くない。
だが、そのすべてを台無しにするほど重度の中二病患者だった。
「皇くん、ホームルームまであと十分だよ」
「フッ、案ずるな。刻はまだ終焉へ至っていない」
「それ、遅刻しそうな人が言う台詞じゃないからね」
声をかけてきたのは、同じクラスの少女だった。
長い黒髪に、整った顔立ち。
控えめだが目を引く美少女で、クラスでも人気が高い。
名前は確か――
「天城、だったか」
「同じクラスになって一年目だよ?」
天城は呆れたように笑う。だが、その笑いに棘はない。
冥斗にとって、彼女は数少ない「普通に会話してくれる一般人」だった。
「貴様のような一般領域の住人が、深淵に棲む者の名を気安く呼ぶな」
「皇くんの方が普通に深淵から遠いよ」
今日も世界は平和だった。
冥斗は少しだけ口元を緩め、すぐに咳払いして表情を戻す。
危ない。今ちょっとだけ楽しいと思ってしまった。
冥王たる者、気安く頬を緩めてはならない。
その時だった。
「――危ないっ!」
鋭い悲鳴が通学路に響いた。
交差点。
曲がってきたトラックが、横断歩道へ大きく膨らむ。
歩道の縁で立ち止まっていた天城が、咄嗟の一歩を踏み出せないでいた。
一瞬だった。
冥斗は考えるより先に駆け出していた。
「っ、皇くん!?」
小柄な体を突き飛ばす。
そのまま視界が大きく傾いた。
アスファルト。轟音。衝撃。
身体が、宙を舞う。
痛い。
熱い。
息が、できない。
薄れていく意識の中で、冥斗は自分でも驚くほど冷静だった。
ああ、これで終わるのか、と。
封印も邪眼も真名も、結局は全部ただの妄想で。
俺は最後まで、痛いままの中学生で終わるのか、と。
だけど。
それでも。
せめて最後くらいは。
冥斗は血の混じる息を吐き、かすれた声で呟いた。
「……我が真名を……忘れるな……」
震える指先が、包帯の巻かれた左手を押さえる。
「《原初の夜を裂きし冥王ルイン=クロノス》……封印、解除……」
誰にも届かない、中二病の遺言だった。
世界が暗転する。
音が消える。
痛みが遠のく。
意識が沈む。
そして。
次に冥斗が目を開けた時、そこには青すぎる空があった。
「……は?」
身体を起こす。
吹き抜ける風。
見渡す限りの大草原。
知らない空。知らない匂い。知らない世界。
「ここは……どこだ?」
混乱のまま、自分の左手を見る。
包帯が巻かれている。
いや、違う。
包帯だけではない。
腕に黒い紋様のようなものが浮かび、脈動するように淡く光っていた。
「……え?」
右目の奥が、熱を持つ。
頭の中へ流れ込んでくる、知らないはずの知識。
魔法陣。契約。眷属。冥府。終焉。時間。支配。
そして不意に、背後で重々しい声が響いた。
「お目覚めになられましたか、我が王」
冥斗は、ぎぎぎ、と壊れた人形のように振り向いた。
そこには、漆黒の甲冑を纏った美しい女騎士が、片膝をついて頭を垂れていた。
その後ろには、異形の兵たちが果てしなく並んでいる。
「長き眠りより蘇られし冥王ルイン=クロノス様。再びこの世界に君臨なさる時が来ました」
「…………」
冥斗は数秒、完全に硬直した。
そして。
「……は?」
もう一度、同じ言葉を口にした。
ただし今度は、死にかけた中学生ではなく、世界を滅ぼせる力を宿した冥王として。




