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「……あなた、太一くんでしょ?」
唐突だった。いくぶん声を裏返し気味に女性が尋ねてきた。
たちどころに女将の器を洗う手がとまる。横の常連客からも下世話な目を向けられる。女性の顔に何となく見覚えがあるような気もするが、それとは別に、見ず知らずの他人から冷やかな視線を浴びることがたまらなく嫌で、わざとぶっきらぼうに返した。
「そうだけど、君は?」
「あら、残念だわ。初恋の人が覚えてくれないなんて、よっぽどわたしは悲惨な人生を送ってきたのね」
「初恋って、私が?」
考えてもみない展開だった。そんなこと従妹の美佳以外に言われたことがなかったからだ。
年齢は私より五歳ぐらい下なのだろうか、でも故郷の人ではないのは直感でわかる。だったら学生時代に知り合ったと考えられるが、十四、五歳の少女というのはまだ女として孵化する前で、熟したこの女性と一致させるのはかなり難問だ。私は無視した。
「ビールをもらえないか」
椅子を引いて座ると、不愛想に言った。
「思い出してからのほうが、よくはなくて」
なおも女性が言う。しつこさに閉口し肩をすくめると、女将が慌てて冷蔵庫からビールを取り出してきた。
「ごめんなさい、我儘な娘で」
だんまりを決め込んでいた常連たちも、女性の態度を見て、いよいよ色めき立った感がする。二人して中身の少なくなった焼酎のグラスを手で揺らし、興味津々に状況を見つめ出す。
「あたしって、そんな記憶に残らない女なのかな」
女将からビールを受け取った女性が、グラスに注ぎながらまた独り言のようにつぶやいた。注ぎ終えると気だるそうにカウンターの上へ頬杖をつく。
「人によると思う」
それが嘘でもほんとでも、どちらでもいいことだった。どうせビールを飲んで勢いを付けたら、すぐに出ていくつもりだ。そもそも友里以外の女性に興味を持てない。
そんな心理を微妙に感じとった常連客たちが、喜色満面うなずく素振りを見せた。二人とも中年の域をとうに越えているが、たぶんこの女性を目当てに通っているのだろう。彼らをつつむ空気から、ほっと安堵感みたいなものが伝わってくる。
私はさらに白け、話題を変えたくて聞いた。
「それより、隣に住む人のことを聞きたいんだ」
「どうしてもそっちのほうが気になるのね」
「すまない。でも、とっても大事なことなんだ」
「じゃ、しょうがない。もう初恋のことは忘れることにするわ」
女性が空のグラスを取り出してきた。「一杯くれるかしら、そうしたら教えてあげる」
断る理由もない。どうせ一本も飲めそうにないのだ。私はビールを注いだ。
「苦いわ」
女性が一気に飲み干すと言った。
「そしたら、飲まなきゃいいのに」
ついに横から、常連客の一人がしゃがれた声を出してきた。
「あらやだ、妬いてるの」
女性が、悩ましい眼差しを客へ当てる。「でもいいの。これで、十年間恋焦がれていた愛に終止符を打てたから」
「何が十年間だよ。隣に、三才の娘がいるシングルマザーのくせしてさ。今頃、引きこもりの兄さんが娘を寝かしつけているんじゃないの」
調子に乗った客が意味深な合いの手を入れると、もう一人が、連れの脇腹を肘で小突いた。女性が睨みつけていたのだ。気づいた客は、たちまちしゅんとして口に手を当てた。
引きこもりの……兄?
私は女性を見すえた。「なら君は、智也の妹の愛美ちゃんなのか」
「そうよ、やっと思い出してくれたみたいね」
間違いなく十年前、私が十九歳のときにこの女性から告白されたことがあった。確か当時十五歳だったはず。興味が持てなくて一蹴したが、初恋というのも満更嘘ではないかもしれない。けれども妙に何かが引っかかる。
私と分かったら、どうしてすぐ智也に会わせなかったのか。何か秘密を隠している気がしてならなかった。
「会いたいんだ、兄さんに」
一転、懇願した。愛美は押し黙る。というよりも拒絶している。
仕方なく私は立ち上がり、愛美から目を外して奥にいる女将に頭を下げた。
「今から、お邪魔してもいいでしょうか」
「どうぞ。ぜひ会ってほしいわ」