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 いったん店を出て玄関へ回ると、すぐにドアチェーンを外す音がした。扉の向こう側から、愛美が屈託のない笑顔を覗かせている。どうやら性根は、それほど悪くないみたいだ。

「さっきはごめんね。いろいろあってさ」と、廊下を案内しながら言った。

「いろいろって?」

「だから……いろいろ」

「それは、私に関係のあるいろいろなの」

「少しはね」と、愛美が向き直る。「ううん、大ありかもしれないよ。だって人の命が掛かっているんだもの」

 人の命? それは友里のことなのか。私は愛美の袖口を掴んだ。

「聞かせてくれないか」

  

 だが愛美は答えようとしない。心なしたじろいだものの、自分が言うべきではないと判断したのだろう。智也の部屋を指さした。

「兄に聞いてみて。そこの階段上ったら、右の部屋よ」

 扉は閉まっている。何の物音もしない。

「誰もいなそうだけど、智也の部屋なの?」

「ううん、あたしと娘の部屋」

 また突拍子もないことを、いけしゃあしゃあと言う。この状況で冗句は必要ないと思いつつ、これだけ機転が利くのなら心配ない、十分シングルマザーでも通用する。

「君の部屋は興味がないんだ。私は智也と話をしにきた」

「冷たいのね」

 これ以上話を続けても埒があかないと私は思った。愛美は私との会話を楽しんでいる。つらいシングルマザーどころか彼女は典型的な楽天家、そして接客のプロだ。

「じゃ、左の部屋をノックする」

「ノックなんか、しなくてもいいかもしれない」

 愛美が言葉を遮った。

 階上に、幽鬼のように青白い顔をさせる智也が立っていた。その印象は、女子学生に囲まれていた頃の智也とは別人の雰囲気を醸し出していた。もちろん引きこもりという先入観があるので仕方ない気もするが、それを差し引いてもかなりの様変わりといえた。

  

「ずいぶん時間がかかったね。ここへ辿り着くのが」

「どうかな。この世界に来てまだ二日目だから、遅くはない気もするけど」

「君にとってはね。でも僕は三年も待ちわびた」

 と、笑いながら手招きする智也に続いて部屋へ入った。

 暖房の効いた十畳ぐらいの洋間。南側にベッドがあって、その横の机にパソコンが置かれている。隣の本棚には美佳の数倍の本が整然と並べられていた。掃除も行き届いているようで、引きこもりの小汚い部屋を想像していた私の想像はものの見事に外れた。

 そればかりか、部屋に入って智也の顔を見たら薄暗い階段の所で感じた印象とは違い、知的で端正な以前の智也でしかなかった。いったいどうしてなのだろう。もしかして先入観だけで、また勝手に想像してしまっていたのだろうか。

「やっとブログを見てくれたんだね」

 智也が指でソファーに座れと促してくる。私は困惑を覚え、智也がベッドへ腰かけるの待ってから座った。

「さて、どこから話そうか」

「わたしのことは、話さないでね」

 まだいたのか、愛美がちらっと私のほうへ視線を流してくる。

「別に聞きたくない」

「なら、愛美のことから話すことにするよ」

 智也が飄々と言い返す。この辺りの風変わりさは以前のままだった。

「もう、二人ともあまのじゃくなんだから」愛美が、階下を気にしながら口を尖らせる。「勝手にして。わたし、片付けもしなくちゃいけないし、まだ客も残ってるから、店へ戻るわ」

  

 どかどかと音を立てて、愛美が階段を降りていく。私は、それを見とどけてから智也に向き直った。

「いいのか、怒らせてしまったみたいだけど」

「怒ってなんかいないよ。あれでけっこう愛美は楽しんでいるんだ。辛い分だけね」

「分かる気もするな。現実って、案外残酷だから」

「ずいぶん人ごとだな。じゃ、その残酷な愛美の生きざまを、聞いてみるかい」

「遠慮しとく。ほかに聞きたいことがある」

 愛美がシングルマザーということと、私に対する思慕。美佳もそうであったよう、見る目が養われていない思春期の錯覚というのは残酷だ。もう友里以外の情報を与えられても頭の中が混乱するだけ。そもそも私の一番の弱点は情に負けてしまうことなのだ。

  

「ところで、お父さんは寝てるの」

 確か厳格な教師だったと記憶している。それを踏まえ、こんな遅い時間に来て申し訳ない気持ちになった。

 すると智也が、逆に聞き返してきた。

「僕と愛美の義父のことかい、それとも愛美の娘の父親かな」

「もちろん、君らの父親だ」

 きっぱり言った。愛美の娘の父親が誰であるか知りたいと思わなかったし、シングルマザーだからいないのはわかっている。

「なら寝てるよ」

「だったら深夜に訪問して済まないと、明日にでも、非礼を詫びてくれると助かる」

「そんなこと気にしなくていい、父には昼も夜もないんだ。ここ数年、ずっと寝たきりだからさ」

 智也はこともなげに言い、歩いて冷蔵庫の扉を開けた。私はその背中へ向かって言った。

「じゃ、もしかして脳梗塞か何かになってしまったの」

「違うよ、交通事故さ。それも義兄の作為的な、ね」

 衝撃的なことをあっさり言うと、缶コーヒーを二本取り出し、そのうちの一本を私へ手渡してくる。

  

「義兄?」タブを空けながら聞いた。

 たぶん面識はないはずだ。作為的という部分が気になるが、兄がいること自体初耳だったし顔も浮かんでこなかった。

 しかし十年前、ちょくちょく遊びに来ていたとき、愛美が冗談交じりに「あたしが十八歳になったら、太一くん絶対お嫁にもらってね」と言ったことがある。そのとき笑ってごまかしたが、奥の部屋から正体不明の粘っこい視線を浴びせられた記憶が残っている。それも昨日友里と一緒にいたときと同じ陰湿な視線を。

 ひょっとしたら――? 私は突飛な発想を口にした。

「その義兄って、赤ら顔で水商売風じゃない。それとも品のいいサラリーマンなのかな」

「ああ、見た目は小奇麗なサラリーマンだよ」智也が醒めた口調で吐きすてる。「中身は薄汚い卑劣漢だけどね」

 間違いない、あの男だ。図星とはいえないけれど、もしこれがほんとうに同一人物だったら、何て恐ろしい巡り合わせなのだろうか。考えるだけでぞっとしてきた。


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