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「心配だから、ついてきちゃった。途中までだけど一緒に帰ろ」
頭の斜め上から沁みいる声がする。目線をたぐると友里が立っていた。
下を向いたまま胸ポケットに入っているはずのティッシュを探していたら、顔の前にすっと白い指が伸びてきた。その指には白いハンカチが。
「これ、使って」
「でも、風邪をひいてるかもしれない」
意地でも顔を上げることのできない私は、目線を伏せたまま手を広げて拒絶した。「汚れるんだ、鼻をかみたいから」
「いいよ、思いきり鼻をかんでも」
友里は無理やりハンカチを握らせると、私の肩にそっと手を乗せてきた。
よしてくれ。よけいとまらなくなる。と胸の内で叫ぶと、鼻水とともに伝った涙が通路へこぼれた。けれど、この温もりを感じたのはいつ以来なのだろう。もし友里と別れていなかったら、ぐしゃぐしゃの顔のまま激しく抱きすくめていたかもしれない。
だが待てよと思い、腕時計を見た。短針が十二を指し長針が五を指していた。ということは終列車だ、しかもクリスマス・イブ。なら運命はどうしてもこういう形で決着をつけたくて、この悪夢の舞台へ、懐かしい温もりを餌に友里を導いてきたのか。私はホームに並ぶ人たちを見た。終電のせいなのか乗客の数は先ほどよりも増えている。
させてたまるか!
たとえそれが予知でなかったとしても、助ける可能性が一パーセントでもあれば今度こそ友里を救いたい。それで、どのような結果になろうとも私のとるべき手段は一つしかないはず。
まずは、この忌まわしい場所から立ち去ることだ。
私は友里から渡されたハンカチで涙を拭うと、横を向いて鼻をかみ、やにわに立ち上がった。そしてむんずと友里の腕を掴んだ。
「ここを出よう。タクシーで送っていく」
戸惑う友里の返事も聞かず、私は強引にホームから連れ出した。
駅舎を出た。出し抜けに背後から刺すような視線を感じて足をとめた。陰湿的な敵意とでもいうのだろうか、目隠しをされて全身をくまなく舐めまわされるような粘っこい視線だった。思いだせないが、この嫌な感触は以前にもどこかで受けたことがある。居たたまれず振り返った。
男は三人。小奇麗なスーツ姿のサラリーマンと、頭を金髪にして革ジャンを着る二十代前半の若者、それと赤ら顔で腹の迫りでる水商売風の男だった。それぞれ私を射すくめている気もする。間違いなくこの中に睨みつけた男がいるはずなのだが、三人が三人とも陰湿に見えて視線の主を断定できなかった。
気を取り直して友里を見ると、困惑げに俯いていた。なぜか意識的に目を逸らしているようにも思える。もしかしたら私の態度が不躾の連続だからだったからかもしれない。そういえば友里を守りたい一心で、心が攻撃的になっていたような気がしないでもない。裏付けるかに、いまだ友里の腕を強く掴んでいる。
「ごめん」と腕を放して謝った。
「ううん、大丈夫」
友里が目を合わさずに言葉を返す。疑念を拭えぬままタクシー乗り場へ急いだ。
タクシーに乗って五分後のことだった。私は「そんな!」と言ったきり、次の言葉に詰まった。車は甲州街道に差し掛かっていた。すでに雪はやんで雨に変わっている。白く化粧された街の景色も水っぽく感じられ、ややもすると幻想さは消えかかっていた。
私は息を吸い直すと確かめた。「じゃ、今日は二十一日で間違いないんだね」
「そうよ」と不思議そうに首を傾げる友里に、私は「そうなると、イブは三日後なのか」と半信半疑でつぶやいた。もう訳がわからなくなっている。今日の昼間に従妹とささやかなイブの祝いをした。街もプレゼントを手にした家族連れでにぎわっていたし、テレビのニュースでも、今夜のイブはホワイトクリスマスになりそうですとテロップが流れていた。
「ほんとうに間違いない?」
「間違いないわ」
友里は身体の向きを少しずらして、私の額に手を当てた。「どうやら熱はないみたいね」
「ああ、風邪は出まかせなんだ」
「知ってたわ」
「だろうね。でもそんなことより、イブの日も、君はこの駅を利用するの」
大事なことだった。
なぜなら、従妹と別れて駅へ向かう途中から粉雪が舞いはじめた。その情景を私は三年前と重ね合わせた。そして路地裏に行って壁に頭を打ちつけた。そのとき景色が動いたのをおぼろげに覚えている。
気のせいだと思っていたが、おそらく何らかの力が働いて並行世界へ飛ばされてしまったのだろう。理屈はよくわからないが、この世界には同一次元の世界がいくつも存在していると理論物理学の本に書いてあったのを記憶している。
覚えているのは恋人として愛を育みイブの三日前には婚約指輪を入手していた。さらにあの駅で何が起きるかも知らずにイブの夜を待ちわびていた。危惧する事故が、この並行世界でも起きるかといえば微妙だが、根本に一つの芯があるのなら起きるはず。並行世界とは元々の世界から分岐したものなのだから。