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夢の寿命の限りまで  作者: 真神
第一部
2/50

夢の寿命の限りまで


「――閣下。閣下。

 嗚呼、閣下。お慕いして、おりました」

「…嗚呼、知っていた。

 わたしは、いまだ貴様を想っているぞ」

「……ああ、ああ……。

 さすがは、閣下。なんて…ああ、お上手ですこと」


 『私』の言葉に、閣下の目がそっと細められる。まるで苦しみを耐えるようなお顔だ。本当に、そうであったらいいのに。『私』は、もう笑うしかない。

 精一杯の微笑みを浮かべて、『私』はもう一度――最期の呼びかけをする。

 ああ、名残惜しい。口惜しい。うらめしい。憎たらしい。

 いとおしい。閣下。


「…閣下」

「ああ」


 いとおしい、閣下。かっか。『私』のかわいい御人。


「閣下。どうか。おしあわせに。おさらばです」


 囁きを終えて、一呼吸――後、『私』は閣下の喉笛目掛けて牙をむく。

 両手は後ろで縛られているが、それがなんだ。足は動くぞ。ほら! 磨き上げられた大理石の床を蹴り、シミも皺もたるみもない毛氈の上を跳ねるように、『私』は駆ける。閣下のもとへ。ああ今更だ衛兵どもめ! 足を潰しておかなかったことに臍を噛め!! 貴様が動いたところでもう遅い!! 誰も『私』には追い付けない!! 嗚呼!! ああ!!!

 ――ああ…ご尊顔を拝することが出来、誠に幸せであります。

 ですから、ですからかっか、どうか、どうか、あなたさまも、こうふくのうちに、どうか、死ぬことができますように。


「――か…っか…」

「ああ。聞こえている。わたしの、可愛い、可愛い…」


 無様に倒れ込んだ『私』を、閣下は抱き留めてくださる。いつかのように。閣下の手が、『私』の頬を撫でてくださる。前と変わらない。

 ああ、けっきょく、いまも、『私』の牙は、閣下に、届かない

 『私』の時間は、足りない。また、足りない。まだ、足りない。足りない。足りない、閣下。


「もっと、早く…お前を迎えにいくべきであった。

 もっと早く、お前と…出会うべきであった。わたしの失敗だ。…ああ、許してくれ」


 閣下、かっか、かっか……かっか。

 ああ、目が、閉じてしまう。ねむい。死が、『私』の手をひいていく。


「許してくれ」


 かっか。あ、あ……おなじ、きもちです。

 おゆるしを、かっか。かっか。かっ―――……




「――ぁ……」


 ポカリと口を開けた状態で、ハノーニアは目覚めた。

 名前を呼ぼうとして、しかしするりと逃げていった夢の残りを捕まえることは出来ず、ただ空気だけが吐き出された。

 息を吸えば、強い消毒液のにおいがツンと鼻の奥を刺す。

 小さく呻いたハノーニアは顔を覆おうとして、両手が思うように動かないことに気が付く。加えて鈍痛が体の隅々まで駆け抜けた。


「ぅ、ぐ、ん、っ?」


 何事だと首を巡らせようとして、再び痛みを感じる。先ほどよりも鋭く強い痛みに、息を呑んだ。


「っ、はッ、ぐ…ぁ?」


 痛みが混乱を呼ぶ。それに呑み込まれそうになるハノーニアを引き留めたのは、男の落ち着いた声だった。


「――ああ、起きたか」

「ッ」

「そのまま横になっていろ。貴様はまだ休まねばならぬ」


 ベッドから少し離れた壁際、そこに置かれていたソファから立ち上がった男が、歩み寄りながらそう言う。

 ハノーニアは男の言葉に従う――否、従わねばならない。何故ならば。


「――…か、閣下…?」

「ああ」


 男――トゥエルリッヒ・フォン・エルグニヴァルは、ハノーニアが属する軍の最上位であるから。


「ぁ、え? なぜ、かっかが、こちら、に?」


 自然な動作で枕元に置かれていた椅子に腰を下ろしたエルグニヴァルに、しかしハノーニアは目を白黒させる。だってそうだろう。雲の上の存在が、わざわざ自分のような一兵士と部屋を共にするだなんて、ある意味一大事だ。

 護衛官は何処だと、ハノーニアは最小限の目を動きで室内を探るが、人っ子一人見当たらない。どうしたらいいのか。先ほどとは全く別の混乱と焦りの渦に落ちかける意識は、頬を撫でられる感触に呆気なく霧散した。


「………か、かっか…?」


 手袋が外された指先が、まるで壊れ物を扱うようにそぉっと肌の上を滑る。事実、ハノーニアは壊れもの一歩手前だと言ってもいい。それくらい、彼女はガーゼと包帯と、消毒液にまみれていた。

 ハノーニアは、せめて間抜けに見えないようにと、きゅっと唇を閉じた。出来ることなんてそれくらいだった。実際には数秒の間だろうが、その何十倍何百倍にも長く感じた。

 エルグニヴァルの指が輪郭をなぞり、顎をほんの少しだけ持ち上げて離れていく。拍子に、視線が合った。

 薄い青の瞳だ。高く澄み渡った秋の空のような、美しい青。

 そんな、まさに空色と言うに相応しい瞳が柔らかく細められたことで、ハノーニアはハッとした。見とれていたことが恥ずかしい。ぎゅっと強く瞬いた拍子に零れた涙は、羞恥からくるものだ。絶対。きっと。

 もう消えていってしまった夢のせいでは、決してない。


「すでに気付いているかもしれんが、此処は軍病院の特別室だ。

 わたしはこの通り、五体満足である。して……貴様は何処までの記憶がある?」


 問われて、ハノーニアは目を瞬く。

 そして。気を失う前の状況、および自身のとった行動が、勢いよく押し寄せてきた。

 襲撃。魔力数値の膨張――。


「――閣下!」


 思い出した。敵兵の襲撃があり、しかし此方が優勢でほぼ撃退。ただ最後の一人が自爆したのだ。自営の間近で。標的のエルグニヴァル、彼を庇う護衛官たちを視界の端に、ハノーニアは自爆態勢となった敵兵目掛けて突撃した。自分の持つありったけの魔力をぶつけるために。タイミング、ぶつける魔力量――その他諸々が上手くいったのだろう。

 エルグニヴァルは言葉通り無傷のようだ。護衛官や他は、もしかしたら多少の傷は負ったかもしれない。それでもいい。


「ぁ、ああ…閣下、かっか…ご無事、で…」

「ああ」


 その言葉を聞けただけで、いい。ましてや本人から直接だ。目頭がじんわりと熱くなって、ほどなくして溢れた涙が傷にしみたけれど、ハノーニアにとっては些事だった。


「あ、う…よっ、か…た…っ、よかった、ごぶじで、かっか…ぅ、っく」

「ああ。貴様のお陰だ。…だから、あまり泣くな。体力を温存し、回復に努めろ」

「っ、ぅ…は、はいっ…」


 空色の目が、また柔らかく細められる。それだけの些細なことが、堪らなくハノーニアの胸を締め付けた。堪え切れない涙が頬を覆うガーゼを濡らす。呑み込もうとして失敗した嗚咽のせいで喉が痛い。


「ああ…泣くな。すまぬ、慰め方など分からぬのだ…」

「っ、もうしわけ、ありま、っく…せ、…かっか…」


 柔らかく微苦笑を浮かべるエルグニヴァルに、ハノーニアもつっかえつっかえ返事をする。

 成人したのに、否、そもそも軍人として情けない。ついでに傷にも響いて痛むので、早く泣き止まねばと、ハノーニアは大きく息を吸った。


「…ふむ、やはり会議の決定なんぞ待たずに連れて帰るか」

「――んえ?」


 吐き出そうとした息は、何とも間抜けな声になって、ハノーニアの唇から抜けていった。

 目の前の御仁はなんと言った? 連れて帰ると言ったか? なにを?

 ぱちくりと目を瞬くハノーニアに気付いたエルグニヴァルが、微笑んだ。口元や目元に淡く刻まれ始めたしわが、薄い陰影を作る。


「ふむ……その様子であると、忘れてしまったか。まぁ確かに、遅くなってはしまったが…」

「……えっ?」


 顔を少し俯け、視線さえ下げてしまったエルグニヴァルを見て、ハノーニアは嫌な汗をかき始める。


「迎えに来たのだ、ハノーニア」

「ひゅッ」


 心臓がおかしな音を立てた気がする。ついでに息も呑んだ。

 だってそうだ。何がどうして組織の最上位から名前を、しかも親しげに呼ばれることになっているのだ。ほぼ零距離で浴びた魔力、それに伴う衝撃のせいで記憶障害でも起こしているのだろうか。いっそその方が良い気すら、ハノーニアはしてきた。

 必死に記憶を漁る。漁る。漁る――が、エルグニヴァルとそんな関係になるような出来事は出てこない。頭を抱えたいが、包帯とギプス固定によって阻まれる。


「か、かっか? そ、その…恐れながら申し上げます…」

「うむ」

「…ど、どなたか貴人と、小官を、お間違え、では…」

「いいや」


 ハノーニアがやっとのことで出した言葉は、エルグニヴァルの否定によって潰される。表情同様に、柔らかい声音だった。それがまた、これが異常事態であるとの証拠のような気がした。


「お前だ。

 お前の願いを…夢を、叶えにきた」


 ハノーニアは硬直した。エルグニヴァルの言葉を聞き、途端、記憶の奥から飛び出してきたものが、あった。

 そんなハノーニアの様子に、エルグニヴァルが気付かない訳もない。彼は、空色の瞳を柔らかく細めて微笑んだ。


「あぁお前は、相も変わらず美しく、そして可愛らしいな。…いや、より一層…」

「! っ、かっ――」


 重ねられた手。耳元へ寄せられた唇。


「――…より一層、愛らしくなった」


 囁かれた言葉に、いつの間にか絡められていたエルグニヴァルの指を、ハノーニアは握った。握ってしまった。


「では、ゆこうか。わたしの可愛い、可愛いハノーニア」


 エルグニヴァルの声は、とろりと甘かった。そんな気がする。

 はっきりと分からないのは、ハノーニアの意識が、瞼と共にそこで落ちたからだ。

 全身打撲。裂傷多数。至近距離で浴びた魔力の放出熱によるひどい火傷。満身創痍であるからこそ、意識を深く完全に落とすことが出来たハノーニアの頬を、エルグニヴァルは努めて優しく撫でた。


「さあ、ゆこうか。わたしとお前の、悪夢を殺しに」


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