ヴァルプルギスの夜御前会議
「――そう! 教官から聞きました!
先日、不運にも魔力暴走に陥ったミノーレアの留学魔導師を、ほぼ無傷で保護されたそうですね! さすがノイゼンヴェール中尉です!!
我々帝国のみならず、他国の魔導師の間でもこの話で持ちきりですよ!」
両の拳を握り目を煌かせて話す留学生の一人――リートミュラーに、ハノーニアは「あぁ、まあな…」と返すほかなかった。
あの騒動は、かん口令をしくどころか、きれいに整えられてあちこちで囁かれていた。情報局局長でもあるシュエンディルの手腕に舌を巻くと同時に、敵にだけはなりたくないとハノーニアは自分の体を抱き締めたい気持ちでいっぱいだ。
「私がすべてやった訳じゃないさ。クレヅヒェルト軍を手伝っただけだ」
「そうであってもすごいです!
あ…ですが…その、お怪我の具合はどうですか?」
急に勢いをなくしてしゅんと俯くリートミュラーに、ハノーニアは微苦笑を浮かべた。
「この通り、元気だ」
「包帯が…見えています」
「そりゃあな。だがまぁ、痛みもほとんど治まってる。…そんな顔をするな」
袖口や襟元から覗く真新しい包帯を見て、上目遣いで此方を心配そうに伺ってくるリートミュラーの頭をハノーニアは少し乱暴に撫でてやった。少し小柄な彼は、嫌がるどころか嬉しそうに目を閉じてされるがままだ。
「名誉の負傷だ。痛みに呻くことはあっても、傷を負ったことを嘆きはしない」
「はい」
「ま、怪我もない、騒動もない。それが一番だがな」
「はい!」
良い返事だと、ハノーニアはもう一度、今度はぐしゃぐしゃにしてしまったきれいな金髪を整えるよう優しく丁寧にリートミュラーの頭を撫でる。
相変わらず、彼は嬉しそうに手を受け入れた。
「…そうだ。他にはなにか、話題になっていることはあるか?」
危機があっても、世界はまわる。流石にミノーレア勢は警戒というか不安そうに固まっているが、留学自体は大きな混乱もなく進んでいた。
帝国も、念のため常に二人以上で行動するように通達している。今こうしてハノーニアと近状報告を兼ねて談笑しているリートミュラーも勿論一人ではない。彼がハノーニアと話し慣れていて、それを分かっている他の留学生が補佐にまわっているためだ。
「今週末、市街地への立ち入りが解禁されますので…それについての話題も多くなっています」
「先学の方々にどこの店がおススメだとか…色々情報収集しています」
「それもまた勉強…実践あるのみ、だな。励みなさい」
「はい!」
「あ、でしたら…その、誠に恐縮ではありますが…。あの、ぜひ、ノイゼンヴェール中尉のおススメを一つ、教えていただけませんか?
中尉殿は、留学時代どのような場所へ行かれていらっしゃったのですか?」
「あっ自分も! 自分も知りたいです!」
急に賑やかになった後輩たちにハノーニアはぱちくりと目を瞬き、二ッと笑う。
「今言ったばかりだろう。励みなさいと。
ほら、私から引き出してみせろ。安心しなさい。腹芸は全くもって下手であるから。私なんて初級も初級だ」
「!!」
途端、真剣な顔つきになり、視線でもって、小声でもってやりとりを始めるリートミュラーたちをハノーニアは微笑ましく見守る。
青々と茂る若木の、瑞々しい若葉。なんて眩しいんだろうと、琥珀色の目を柔らかく細めた。
そうしてもうしばらく談笑を続けた後、頃合いをみて終わりを告げる。
「――あぁ。そろそろ昼の休憩も終わるか…。貴重な休みを悪かったな」
「とんでもありません!」
「此方こそ。お時間をありがとうございました」
「お聞き出来た情報に基づき、週末実際巡ってみます。その答え合わせに、またお時間頂けますか?」
「あぁ良いとも。…とはいえ、年若い君たちには些か退屈かもしれんがな…」
「存外、興味関心があります。…その、予想が当たっていればですが…」
恥ずかしそうに微苦笑を浮かべたリートミュラーを始め、後輩たちの肩を順に叩いてハノーニアは軽やかに笑う。
「感想、もとい答え合わせを楽しみに、諸君らの報告を待っている」
「ハッ!」
綺麗な敬礼をして早歩きで去っていくリートミュラーたちを見送ってから、ハノーニアも席を立つ。ほぼ同時に少し離れた席から立ち上がった帝国軍人と出入り口で自然と合流し、並んで廊下を行くことになった。
自分より背が高い彼を横目で見やれば、菫青色の瞳とぱちりと視線が合う。彼――シュッツエの鋭い眼差しが和らいだので、ハノーニアも釣られるようについつい眼を細めた。
本来なら本国に居る筈のシュッツエが、自分の護衛として至急呼び出されると聞かされた時には申し訳なさで胃の辺りが痛んだ。しかし、実際こうして傍に居てもらえると安心感が半端なくある。
「…本当に、遠いところまでありがとう、シュッツエ准尉」
「いえ。感謝のお気持ちは、もう何度となくいただいております。すでに過分でありますよ」
微苦笑を浮かべるシュッツエと共に歩きながら、ハノーニアはゆるく首を振る。
「感謝に過分もないだろう。…ないといい」
「確かに。…では、心配にも過分はないという事でよろしいですね」
「……だな」
僅かに開いた間がお気に召さなかったのか。和らいでいたシュッツエの視線がキュッと引き締まったのを感じて、ハノーニアはサッと前を向く。足も早まったが、そこはベテラン。遅れることなく随行する。
「少将からご報告を頂いた時、己が耳を疑いました。ついで、何故付いていかなかったのかと自分を殴りました。ルシフェステル准将より召喚命令を頂き、飛んできて…一先ず中尉のご無事を確認出来て…えぇ、やっと息が出来ました」
殴ったのは事実らしい。再会した時、頬は腫れて赤くなっていた。加えて、飛んできたというのも事実だ。シュッツエはバイカラーでこそないが、高い航空適性を有している。小隊を率い距離も時間も最短で駆けつけてくれたと聞いて、申し訳なさと有難さで視界がかすんだことは記憶に新しい。
(ほんとマジでなにしてくれんだヒロイン!!)
ハノーニアはシュッツエのお小言に耳を傾けつつ、どうにもならない憤りを心の中で叫ぶしかない。
「……また、傷が増えてしまいましたね…」
耐えるような声でそう言われて、ハノーニアは思わず笑みが零れてしまった。自分は、こうして心配してくれる周りにとても恵まれている、と。
「そうだな。…でもまぁ、いいさ。あの御方が…閣下が、気にされなければ」
そう呟いて、「あっ違う」とハッとする。
(めっちゃめちゃ気にされてたわ。あぁえっと、そう言う意味じゃなくて…心配はしていただいてるんだけど、それはもう、ものすごく! えぇっと…そう、うん、傷のある体でもいいって…、気にしないって…そう、言ってもらえたら…。…私は、それで、いい…)
一人心の中で騒いで納得したハノーニアは、しかし隣のシュッツエが異様に静かな気がしてそっと顔を向けた。
「……じゅん、い?」
シュッツエは、見開いた目で虚空を睨みつけていた。引き結ばれた唇は、力が入り過ぎて白くなっている。
「…准尉、シュッツエ准尉!」
「、…。…申し訳、ありません。お見苦しいところを、大変失礼しました。どうか、お許しください、ノイゼンヴェール中尉…」
「……許すも、なにも…。…私は、何も見ていない」
「…中尉…」
「なにも、だ」
「……はい。
……行きましょう」
「あぁ」
いつの間にか止めてしまっていた足を再び動かし、広い廊下を歩く。靴音に紛れるくらいの声で囁かれた「ありがとうございます」という感謝の言葉を、ハノーニアは他の誰かに拾われる前に心の中へ仕舞った。
*
部屋へと戻ったハノーニアは一度シュッツエと別れ、待機していた侍女たちの餌食――もとい世話になりめかしこむ。礼装のスカートスタイルの軍服か、それともドレスかで軽いひと悶着があったけれど、そこはハノーニアが頼み込んで礼装軍服に落ち着かせた。
少し伸びてきた髪を、香油でもって艶やかにまとめられる。ほどこされた化粧は流石というか、上品な華やかさが形作られていた。
「…これなら、ちゃんと女って分かるだろうな」
思わず呟いてしまったハノーニアに、侍女たちがにっこり笑う。
「当然でございますわ」
「ですが、その口ぶりですと…まさか、ラルヴァの殿方たちはお分かりにならないのですか?」
「まぁ! なんて嘆かわしい!! いくら鷲が多いとは言え…あんまりではございませんか。さぞお辛い思いをされたことでしょう、ノイゼンヴェール様」
「いや、えぇ…まぁ。ははは」
拳を握って語気を荒くする侍女たちに、ハノーニアはたじたじだ。笑ってごまかせないかと口の端を持ち上げたが、引きつって仕方がない。
「お綺麗です」
再び合流したシュッツエには開口一番そう頷かれて、ハノーニアはそっぽを向いてしまう。言われ慣れていない賛辞は、ありがたく受け取りたくてもすんなりいかないのだ。
なんとか首を戻せば、菫青色が柔らかく笑っていた。
「お綺麗ですよ、とっても。
これからお会いするノエリア女王陛下も、きっとそう仰るでしょう。…准将においては、言わずもがな、かと」
「准尉、流石に自惚れが過ぎる。不敬だなんだと、クレヅヒェルトから嫌われたくない。
……准将については…まぁ…そう、だと…いいが…」
咳払いと共にハノーニアが窘めれば、シュッツエは「申し訳ございません」と深く頭を下げる。侍女たちは気を悪くした気配もなく、微笑みながら「いってらっしゃいませ」と送り出してくれた。
その事にホッとしつつ、ハノーニアは部屋を出て数歩も行かない内にとって返したい気持ちに駆られる。案内役の侍従に先導されながら重たくなる足をどうにか動かすが、隣を行くシュッツエにはバレバレのようだ。
「やはり気乗りされませんか?」
「…名誉であるとは、分かっている。光栄だとも思っている。
だがな。何故、一介の魔導兵である私が、呼ばれるんだ。同席を許されるんだ。女王陛下と准将の、お茶会に」
蝋で封印された招待状が届いたのは一昨日だった。急で申し訳ないという謝罪から始まった書面からは、香だろうか、とても安らぐ好い香りがした。
何かの間違いでは?と准将やシジルゼート、シュッツエたちに恐る恐る聞き返せば、否と首を横に振られた。駄目押しで届けに来たクレヅヒェルトの使者に尋ねても「間違いございません」と柔らかい微笑でもって返事がされて、ハノーニアは宇宙を感じる猫になるしかなかった。
そして当日である今日。従者役であるシュッツエを伴い、震えそうな体を叱責しながらハノーニアは指定された会場へ向かっていた。左手で右手首――そこに填まる補助演算珠に触れると、幾らか息がしやすくなった気がする。
(……閣下…)
心の中で呼び掛ければ、返事のように星座石が灯った気がした。とっくの昔に末期だったなぁと自嘲して、ハノーニアは前を向く。
幾つかの廊下を渡り、幾つもの扉を潜った先――一際大きい扉に行きつく。色彩美しいステンドグラスの向こうには、大きな中庭が見える。一瞬先日の騒動が頭を過るが、周りを何重にも守り固める魔導式や軍人たちの気配を感じ、ハノーニアは「大丈夫だいじょうぶ」と自分を落ち着ける。
「お守りいたします」
「准尉?」
声にシュッツエを見上げれば、揺らぎの無い菫青色の目とかち合う。恐ろしいほど真剣なその視線に、ハノーニアは言葉を咄嗟に見付けられない。
「この身にかえても。この命にかえても。お守りいたします、ノイゼンヴェール様」
「……。
……それは、私ではなく、准将や女王陛下へ向けるべき言葉であり、態度だ。
…だが…、ありがとう、シュッツエ准尉。
そうならないよう、気を引き締めていく」
「…貴女らしい」
ハノーニアは正面へと顔を戻したのでもうシュッツエを見てはいない。それでも、聞こえた柔らかい声に、きっと彼は仕方ないなぁとでも言うように微苦笑しているのだろうと分かった。
「ハノーニア・ノイゼンヴェール様、ご到着いたしました」
「――あぁ、入りなさい」
しっとりとした女性の声――ノエリア女王の許可が下り、扉が開かれる。
進みでて礼をしたハノーニアが顔を上げれば、紫の左目を優しく細めた彼女に微笑まれた。
「ノイゼンヴェール中尉、参上いたしました。
本日はお招きいただき、誠にありがとうございます。女王陛下」
「ようこそ。此方こそ…突然の誘いであったのに、快諾してくれてありがとう。とても嬉しく思っている」
「勿体ないお言葉でございます」
そこで、ノエリアから淡く笑いが零れた。彼女も身を包むのは礼装軍服だった。口元を隠すのは扇ではなく手袋に包まれた拳であった。それでも、気品に溢れる姿は淑やかで美しい。
「仰々しいのも堅苦しいのもここまでにしよう。
ほら、おいで。ハノーニア。席は坊やの隣だ」
「ぼ、んんッ…はい。ありがとう、ございます、陛下」
出かかった言葉をどうにかして呑み込んで、ハノーニアは指し示された通りに『坊や』の隣へと腰を下ろす。一瞬だけ目のあったシジルゼートから「天の助け!」みたいな表情を貰ったが、果たして期待に添えるかどうか。幸先は決して良くない気がするなんて、口が裂けても言えない。言わない。
「お前もだ、坊や。脱ぎたいなら脱いで構わないぞ、その化けの皮」
鷹揚な手付きで紅茶に口を付けるノエリアの向かいで、ルシフェステルに扮するエルグニヴァルが鼻を鳴らす。途端、髪は銀灰から朽葉色へ、目は瑠璃色から秋空の色へと瞬く間に変化した。何度見ても息が漏れてしまうハノーニアとは違い、ノエリアは勿論、彼女の斜め後ろに控え立つ灰髪に紫目の青年も、シジルゼートやシュッツエも、誰ひとり驚いた様子はない。それを見て、疎外感に似たなにかを感じながら、ハノーニアはきゅっと口を閉じた。
「ふふ。
改めて…ようこそ。招きに応じてくれてありがとう。とても嬉しく思う」
女王主催の密やかな茶会が、幕を上げる。