承-2-
「僕達よりもきっと、彼女はこの森の事を熟知している。ここに存在しているモノ達のこと、ここが神の座す森と呼ばれる理由、――そもそも、この森が存在するその意味」
読書を好み、識ることへの好奇心が誰よりも強い彼は、物静かで穏やかな顔の下で、誰よりも真剣に、純粋に、先の言葉の意味を考え続けてきたのかもしれない。
「ねぇ、宵」
名を呼ばれ、再度、臣を見る。黒縁眼鏡の奥の瞳は宵がよく知る静かな輝きのはずなのに、何故、こんなにも背筋が凍るような感覚に陥るのか。まるで、目の前の友が得体のしれないモノに変貌してしまったかのような不気味さは、この森が孕む異質な気配が見せる幻影なのだろうか。
「僕達は、この森から都を護ろうとしているけれど。でも本当は、この森に護られているのは、寧ろ僕達なんじゃないか、て。考えたこと、ない?」
時間が止まったかのように葉擦れの一つもしなくなった静寂が、いつの間にか二人の世界を支配していた。疾走する心臓の音が耳の奥、頭の中で響く。
友は、何を言っているのか。
理解したくないだけで、本当は、わかっている。
沈黙、張り詰めた静寂が満ちる。視線を交わしたまま動かず、互いの呼吸音だけを聞いていた。
凪いだ水面に刻まれた波紋、不意に、臣の視線が彼方に移る。
「仁なら、その答えを知っている気がするんだ」
ここにはいない姿を求めるその視線に、宵は羨望とはまた違う色を見た気がした。それが果たしてどのような感情に起因していたのか。それを知る前に瞬かれ、宵に向き直った臣は既に、困ったような微笑を浮かべていた。
「ごめん。変な事、言ったね」
宵の反応を待たずに、今度は臣が先を行く。いつの間にか辿ってきた道は途絶え、そこそこの身長がある二人の腰まで届く草が生い茂る。臣は迷うことなくその草を掻き分けて進み、彼の姿はすぐに森の闇に取り込まれてしまう。
そのまま消えていなくなってしまいそうで、夢から醒めた様に、宵は大慌てで友の後を追った。地面には雪が降り積もり、更に腰まで伸びた草木に足元を掬われないように最大の注意を払いながら進んだ宵の耳に、臣の感嘆の声が届く。その声が消えないうちに、宵も草木のトンネルを抜けた。
「あ……」
視界が開けて、目を眩ませたのは果たして、頭上から差し込む陽の光だけが原因か。そういえば今日は晴れだったのだと、意識の片隅でそんなどうでもいい事を思った。
「宵」
立ち止まったままその場を動こうとしない宵の腕を、微苦笑を浮かべた臣が取る。彼が動かない理由が、臣にはよくわかる。静かに手を引いて、新雪に刻む二つの足跡もまた新しい。否応なく、最初にこの場所に辿り着けた高揚感が二人の身体を包み込む。
陽光を照り返す雪原に栄光の軌跡を刻みながら辿り着いた場所は、思いのほか小さかった。行く道を塞いでいた草木よりも低い。それでも、お互いに顔を見合わせ、頷き合い、ゆっくりと社の扉を開く指は酷く、震えていた。
扉を開けた先、小さな社の中に鎮座する鍔は、合計で六つ。隣り合わせで並んだそれぞれの鍔を、宵と臣は同時に手に取った。
掌に伝わる鍔の感触を噛み締める。その冷たさを、重さを、きっと一生忘れる事はないだろうと思った。
それは、傍らに立つ臣も同じなのだ、と。
「……ようやく、だね」
「……ああ」
「やっと……、立てるね」
「ああ……やっと――、護れる」
手にした唾を握り締め、宵は目を閉じる。未だ収まらぬ震えは、歓喜、充実感、決意、そして、一抹の不安――様々な感情を内包し、そんな己の手を包み込む温もりは、優しかった。