承-1-
冠誕の儀とは、年に一度の昇格試験のことだ。階位毎に試験内容も詳細に決められており、高位な階位であればある程、試験内容も当然の如く難しくなる。試験は朝一から始められ、三日間に渡って行われる。最下位の見習いの試験から始まり、最高位である正師範の試験に至っては、丸一日かかることもある。
一日目の早朝。見習いが半人前に昇格する為の試験開始の鐘の音が高い赤壁に囲まれた都中に響き渡る。厳粛な儀式は、まだ始まったばかりだ。
当主からの激励を受けた門下生は、開かれた扉を潜り、狭間の世界を超えて、昏き空洞へ身を投じる。携えを許されているのは短刀一本のみ。魑魅魍魎が跋扈する森を進むには心許無いが、命を預ける友がその不安を埋めてくれる。二人一組、相方は寝食を共にする同室者、お互いのことは知り尽くしているからこそ、安心して背中を任せることが出来る。
試験内容は至極単純。冠誕の儀の為に高見家が設置した社に安置されている鍔を持ち帰ること。高見家の家紋である鷹の意匠が施されているそれは、見習いから半人前になって初めて授けられる刀の鍔になる。名が刻まれた鍔を師範に届けることが出来れば、試験は終了。実に単純明快、ただ単に行って帰ってくるだけである。しかし、都から出る機会も滅多にない見習いが〝神座の森”に足を踏み入れるのは当然の如く初めてであり、そんな彼等にとって、行って帰ってくるだけでも非常に難しい試練なのであった。
短刀を片手に、命を預けた相棒を傍らに、極度の緊張状態の中を周囲に細心の注意を払いながら〝神座の森”を進む。葉擦れの音がするだけで足が止まり、瞬時に背中合わせの陣を作る。樹齢千年を優に超える木々が鬱蒼と茂る深い森が孕む闇に潜む気配を、注意深く探った。短刀の柄に手を遣り、合わせた背中から伝わる互いの鼓動音を聞きながら、数分。
結局、妖の襲撃はなかった。どちらからともなく安堵の溜め息を漏らし、強張らせていた肩から力を抜く。
「……駄目だ。些細な音にさえ、反応してしまう」
差し迫る危険はないと理解していながら、短刀の柄から手を離すことが出来ない。
「仕方がないよ、宵。ここは人の世界ではないのだし」
「だけど、臣。葉擦れの音一つひとつに反応していたら、社に着く前に日が暮れてしまう」
「気持ちは解るけど。そう焦らないで。慎重である事は、とても大事なことだよ。特に、この森ではね」
相方の浮かべる穏やかな笑みが、宵から言葉を奪ってしまう。代わりに、開きかけた口から重い溜め息を吐き出した。ようやく短刀の柄から手を離し、歩みを再開した宵を、仕方ないなぁという風に眼鏡を押し上げた臣が、一歩遅れで追った。
〝神座の森”は冬が早い。都ではまだちらつく程度の雪は、既に森を銀世界へ変えている。降り積もった雪に覆われて視界から消えた木の根などに足を取られ、それもまた、過ぎた時間に見合わずそれ程距離を稼げない原因だった。その事実が、冠誕の儀に臨む見習いの焦燥感を煽る。
一歩遅れた分の距離を、臣は縮めようとしなかった。それは決して、急いで足を滑らせる事を厭うているからでも、必要以上に妖の襲撃を警戒しているからでもない事は、前を行く宵にもわかる。それでも、どうしたのかと、振り返ることはしない。銀世界に沈む先をただ見据えて、辿り着くその場所に、望むべきものがあるのだから。
そう、その先に、希求したものがある。いつか誓った、この命を懸けることの出来る物が――刀が、ようやく授けられる。これでもう、夢の中で繰り返し失うことも、自らの非力に打ちひしがれることも、悲しみに泣き叫ぶことも、なくなる。護る為の力、それが、もう少しで手に入る。その為なら、どんなに危険だろうと、構わなかった。その覚悟は、高見家で学ぶ者なら誰もが持っているはずだ。今日この日を迎える為に、皆、どれだけの努力を積み重ねてきたのか。
(それを、あんな、たった一言で、踏みにじるなんて――)
握り締めた拳に力を籠める。唇を噛み締めるその背に、不意に、臣の声がぶつかった。
「……ハレの雨は凶兆の徴」
思わず、宵の足が止まる。一歩引いたまま立ち止まった臣を振り返り、向けた眼光は落胆の色が強かったかもしれない。
何故、その言葉を、彼の口から、今この時に聞かなければならないのか。
「僕はね、宵」
嫌悪感を隠しもしない宵の咎めるような視線を正面から受け止め、臣は普段のそれと変わらない穏やかな表情を浮かべていた。
「久賢正師範は下らないと取り合わなかったけれど。でも、僕は聞くべきだったと思う。少なくとも、警告は受け止めておく必要があった。だって、彼女は――」
す、っと。臣の示す指先を追い、見遣った先には薄暗い闇が鎮座する。その昏き闇に身を潜める様に、相容れぬモノ達は確かに存在している。
「この森の外から来た」
その言葉の意味を、恐らく多くの者が、敢えて考えないようにしてきた。