起-6-
「…………」
懲罰部屋に窓はない。闇に閉ざされた空間に端座し、ただただ、己に向き合う為に設けられた部屋だ。規律を乱した者の反省を促す為の暗闇なのだ。
人間は本能的に闇を恐れるものだ。だからこそ、この部屋に入れられる事を門下生は恐れている。この部屋はどちらかというと、抑止力の意味の方が大きかった。
しかし、聡耶が驚いたのは、扉に背を向ける形で眠りについている事ではない。
「……仁」
呆気に取られていたのは数秒。呼びかける声は自然と控えめになり、近寄るその足取りも殊更慎重になる。呼名に目を覚ます気配もなく、元々それ程広くはない室内で、彼女との距離はたった数歩で埋まってしまった。
その傍らに座しても、やはり、彼女は眠ったまま。板張りの床では寝心地は最悪だろうに、淡い光に照らされた寝顔は実に気持ちよさそうで。こんなにも穏やかな気配を纏う彼女は、久し振りな気がした。
自然と伸ばした手。優しく撫でた銀髪は、絹糸のように柔らかい。口元を綻ばせた聡耶の視線の先で、僅かな反応を示して見せた相手を、もう一度呼んだ。
「仁」
心地よい眠りの淵から浮かび上がる事に抗う様に身じろぎ、それでも、ゆっくりと瞼は開かれていく。緩やかに焦点を結んでいくその碧の輝きは、確かに、美しいと思った。
闇に差し込む淡い輝きに眩しそうに瞬き、傍らに座す聡耶の姿を映し出すと、怪訝そうにその碧の双眸が細められた。
「……聡耶?」
何故ここにいるのかと、言外に問いかけてくる仁に、聡耶は苦笑する。高見家当主を呼び捨てにする者は、彼女を除けば正師範くらいだろう。その彼等も、門下生や他家の前では決して彼を名前では呼ばない。
当主が見守る前で仁は上体を起こす。その動作が止まり、横顔が僅かに顰められたのを、聡耶は見逃さなかった。
「痛むのか」
短く問えば、一瞥を寄越したその口元が歪む。舌打ちが聞こえてきそうなその反応に、聡耶は敢えて盛大に溜め息を吐いて見せた。
「頑固なのも困りものだ」
小言など、彼女は聞きたくないだろう。見ない振りをしようと思えばいくらでも出来た。主という座に就いた時から、己の感情を腹の底に押し込め、表面を取り繕うのはより必要になった。
それは、目の前にいる相手も同じだろうと、聡耶は思う。
「取り繕う必要がない」
端的に言い切る言葉は、その響きだけでは確かに冷淡に聞こえるだろう。取り繕う必要性を感じないのだ、と。
「それは、仁。お前の甘えなのだと、私は思っているよ」
敬称は関係性に一定の距離を設ける。彼女が名を呼ぶのは、より近しい者と認識している証拠だった。
「……屁理屈」
辟易したような吐息に紛れた皮肉。しかし、一度として明確な否定が返ってきた事がない。それが何よりも、聡耶の持論を肯定していることを彼女は承知しているだろう。
慈しむ様な笑みを湛え、その銀髪を撫でてもこの手を払われる事はない。眠気が相当強いのだろうか、髪を梳く優しい手に身を委ねたまま、再び瞼を閉じてしまった。
「しかし、驚いた」
「何がです?」
「呼びかけても応えがないから、てっきり抜け出しているものだと思っていたよ」
だから、確認の為に扉を開け、無人だと確信していた室内で気持ちよさそうに眠る姿を見つけた時は本当に驚いたのだ。
「勿論、私が傍らに立っても目を覚まさなかった事にも驚いたが」
育ってきた環境がそうさせたのか、仁は他者の気配に敏感だった。誰かがいる所ではまず隙を見せない。二人部屋の相方の気配に慣れるのにも随分と時間がかかったのだ。どれだけ深く眠っていようとも、人が近付けば必ず目を覚ます。
薄い唇から零れ落ちた笑い声が、闇を震わせる。
「徹夜だったので」
短く返された言葉が理由の半分しか語っていない事を、敢えて指摘はしない。
「それに――……、貴方を警戒する必要はないから」
もう半分の理由を形にされるとは思っていなかった聡耶は、意外そうに微かに目を瞠って見せる。まだ夢と現の狭間を彷徨っているのかと、そんな疑念は、見上げてきた碧の双眸が宿す凛とした輝きが否定した。
都には決してない色の瞳が開かれたままの扉を一瞥する。聡耶が無言をもって返せば、彼女は緩慢な動作で立ち上がった。左胸下を庇う様に再度動きを止めた背に、追う様に腰を上げた聡耶は呼び掛ける。
「仁」
華奢な相手は滅多に痛みを表に出さない。示しをつける為だったとはいえ弟子に手を上げた事を悔やんでいるだろう師範の顔を脳裏に思い描きながら、肩越しに投げられた問うような視線を正面から受け止めた彼の顔は、高見家当主のそれだった。
「冠誕の儀は予定通り執り行う」
決定事項のみを短く告げた先で、警告を発した本人は一度、ゆるりと瞬きをした。そうして、珍しく逸らされた視線。
彼女が言った通り、保護者は師範の肩書を持つ南華であり、決定に唯一従う相手は高見家当主だ。それでも、思うところはあるのだろう。髪を掻き上げ、否と紡がぬ唇から、代わりに深い吐息が零れ落ちた。
「似た者同士ばかりだ」
風圧に揺れた銀糸が蝋燭の淡い光を弾く。
その眩しさに目を細めた聡耶が見守る先で、華奢でありながらも凛と伸びた背中が遠ざかる。呆れを含んだ声音で投げられた言葉に苦笑するしかなかった聡耶は、先程床に置いた蝶番を拾い上げる。鍵の掛かる重厚な音に重なる様に、年に一度の厳粛な儀式の開始を告げる鐘の音が響き渡った。
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