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第14話 倒さずに持ち帰る

 硬い殻が石を擦るような音は、一度きりではなかった。


 浅層迷宮の第一標識手前、古い荷運び口へ続く通路で、俺たちが足を止めている間に、今度は二度続けて響いた。


 俺――レクトは灯りを低くし、略図と壁の擦れ跡を見比べた。


 次の曲がり角を越えれば、入口側の間引きが届く最後の地点である第一標識だ。


 その向こうは未処理の区画で、今回の依頼では立入禁止になっている。


「音は正面ですが、距離は分かりません」


 退路を守る重装士のガレンが、盾を通路の奥へ向けたまま告げた。


「風で響いている可能性もあります」


 封緘術士のフィナが壁へ片耳を寄せる。


「だから、安全とは判断しないで進む」


 俺は綱でつながる三人を順に見た。


「役割は昨日決めたままだ」


 俺は経路と指示、フィナは封緘と確保、ガレンは退路守護、調薬師のリゼは薬と状態判断。


「この役割で、第一標識までの調査を続けることに同意するか」


「同意します」


 フィナが封緘紙を手にして答えた。


「退路は任せろ」


 ガレンが短く頷いた。


「薬と状態判断を引き受けますが、昨日決めた薬量の条件は変えません」


 リゼは腰の薬袋を確かめてから答えた。


「俺も、第一標識を越えない」


 全員の了承が揃うと、《最適編成》による四人の流れが薄く重なった。


 腕力も魔力も増えず、知らない技能が頭へ浮かぶこともない。


 ただ、誰の声を待って次に動けばよいかが、四人の間で揃っている。


「前進する、歩幅は半分」


 俺たちは曲がり角まで進んだ。


 フィナが壁の傷を確認する間、ガレンは背後へ盾を向け、リゼは足元の黒い染みへ近づかないよう合図を出す。


 互いの動作を追い越さず、声が重ならない。


 昨日、宿舎で試した時と同じ補正が、迷宮の狭い通路でも四人へ同時に働いていた。


 だが、補正があるから先を急げるわけではない。


 俺は全員の確認が終わるたび、短く進み、短く止まった。


 曲がり角の先には、腰ほどの高さの石柱が立っていた。


 入口からの間引き範囲を示す第一標識で、奥を向いた面には越境禁止を示す印が刻まれている。


 第一標識へ着いたところで、俺は調査開始のための補正を切った。


 古い荷運び口は標識の手前で横へ折れ、半ば崩れた広間につながっていた。


「標識はここです」


 俺が位置を記録すると、フィナが床へ目印を置いた。


「この線より奥へは行きません」


 彼女が全員へ見えるように示した線は、石柱の手前を横切っている。


 俺たちは古い荷運び口の周辺だけを調べ始めた。


 先に探すのは、状態を確かめた脱け殻だ。


 卵殻の堆積や空気の異常を見つけても、まず記録し、確かめる前に近づかない。


 壁際には腐った木箱の跡があり、その間に薄灰色の破片が挟まっている。


「殻片かもしれません」


 リゼがしゃがまず、灯りの角度だけを変えた。


 俺は長い留め具で破片を裏返す。


 外側は鈍い灰色で、内側には淡い青の筋が走っていた。


 端は割れているが、薄い割に刃先で押しても簡単にはたわまない。


「鎧殻鎌虫の脱け殻と見てよさそうです」


 リゼは表面に汁や新しい傷がないことを確かめた。


「生体から剥がれたばかりではありません」


「希少殻素材として扱える部分は?」


 俺が尋ねると、彼女は青い筋が残る箇所を指した。


「ここなら、少量ですが採取できます」


「この脱け殻の採取が終わるまで、今の役割で補正を使う」


 三人が応じると、短い採取手順だけに四人の動作順が重なった。


 フィナが周囲を短く封じ、破片が飛び散らないようにする。


 俺が示した順でリゼが状態を確かめ、専用の袋へ収めた。


 袋の口が閉じた時点で、俺は補正を切った。


 ガレンは作業中も標識と退路の両方が見える位置を守る。


 希少殻素材の換金額は分からないが、調査の証拠として持ち帰る価値はある。


「壁際にも何かあります」


 フィナの声で、俺たちは採取を止めた。


 崩れた木箱の陰に、白く薄い欠片が何層も重なっている。


 大きさは揃わず、乾いた薄皮のように見えるものもあれば、縁が硬く反ったものもあった。


「触れずに見ます」


 リゼが先に宣言し、俺たちは灯りを二つに分けて壁際を照らした。


 積み重なった欠片の形は、放棄水路で見つかった卵殻と似ている。


 しかも、荷へ偶然一片が混じったという量ではない。


「卵殻の堆積として記録します」


 俺は断定できる範囲だけを口にした。


「ここが繁殖源だとは書かない」


「原因も、まだ分かりません」


 リゼが壁と床の境を指す。


 卵殻の奥、石の継ぎ目から、陽炎のような薄い揺らぎがにじんでいた。


 灯りの煙とは流れる向きが違い、空気には舌の奥へ残るかすかな苦みがある。


「薄い瘴気の可能性があります」


 リゼは薬袋へ手を置いたが、中身を使わずに距離を取った。


「濃さも影響も、ここでは測れません」


「発生原因も決めない」


 俺は卵殻の位置、石の継ぎ目、揺らぎが見えた範囲を図へ写す。


「長居して吸い込む理由はありません」


 リゼの退出判断に従い、卵殻は一片だけ留め具で採取することにした。


「卵殻一片の採取だけ、同じ役割で補正を使う」


 三人の同意を確かめてから、俺は短い補正をつないだ。


 採取袋をフィナが開く。


 俺が卵殻を拾う。


 リゼが袋の外側に付着がないかを見る。


 ガレンが退路から動かない。


 余計な一歩を踏み込まずに採取を終え、俺はすぐ補正を切った。


「目的物は得た、戻れます」


 フィナの声に、俺は頷きかけた。


 その時、崩れた木箱の下から石を弾く音がした。


 灰色の塊が、床を滑るように這い出した。


 鎧のような殻はまだ成体ほど厚く見えないが、鎌状の前脚は人の腕より長い。


 未成熟の鎧殻鎌虫が一体、卵殻と退路の間へ姿を現した。


 先ほどの採取補正は、すでに切れている。


「未成熟でも、Dランク上位相当です」


 リゼが声を抑えて告げる。


「正面から倒そうとしない」


 俺は全員へ聞こえる声で指示した。


 素材を得た直後なら、硬い殻をさらに持ち帰りたいという欲は出る。


 だが、討伐は依頼に含まれず、俺たちは倒すための退出条件を決めていない。


「フィナ、足元を短く封じる準備」


「準備できています」


「ガレンは退路を守るだけでいい、前へ押し返さない」


「了解だ」


「リゼ、四人の毒と傷を確認」


「現時点で異常なし」


 三人の応答で同意を確かめ、俺は封緘から全員が退路へ入るまでの短い手順だけに《最適編成》をつないだ。


 補正が整えるのは、事前に決めた役割へ俺の声を合わせる順番だけだ。


 俺は鎧殻鎌虫の向きと、出口までの障害を見比べた。


 魔獣が鎌を持ち上げた瞬間、順番を告げる。


「フィナ、今だ」


 フィナの封緘紙が床へ滑り、鎧殻鎌虫の前脚が踏み込む一帯だけを短く封じた。


 紙から伸びた封じは魔獣を傷つけず、足元を一瞬だけ重くする。


「採取袋を確保、後退」


 俺は殻素材と卵殻の袋を持ち上げ、フィナが口を閉じたことを確かめる。


「リゼ、後ろへ」


 リゼがガレンの脇を抜け、薬袋を守りながら退路へ入る。


「フィナ、戻れ」


 フィナが封緘紙を残して下がる。


「ガレン、最後尾」


 ガレンは鎧殻鎌虫との間に盾を置いたまま、俺たちの歩幅に合わせて後退した。


 全員が退路へ入ったところで、俺は補正を切った。


 攻撃力は増えていないし、フィナの封緘が長く保つようになったわけでもない。


 短い封緘の間に全員が退路へ移れたのは、四人が自分で引き受けた役と声掛けの順を守ったからだ。


「封じが切れます」


 フィナの警告と同時に、鎧殻鎌虫が前脚を振り上げた。


 刃のような先端がガレンの盾を擦り、耳を刺す音が鳴る。


 ガレンは打ち返さず、盾の角度を変えて鎌を外へ流した。


「支えられるが、二度目は受けたくない」


「全員、後退を続ける」


 俺たちは標識から離れ、曲がり角まで戻った。


 補正は使わず、ガレンを最後尾に置く事前の役割と、一声ずつの確認で後退を続けた。


 鎧殻鎌虫は一度追ってきたが、崩れた荷運び口から大きく離れようとはしない。


 その様子を記録する余裕が生まれた直後、第一標識の奥から別の音が響いた。


 先ほどまでの擦過音より低く、重い。


 硬い殻同士が触れ合うような音に続いて、床の小石がわずかに震えた。


 一体分の軽さではなかった。


「奥に、もっと重い何かがいます」


 フィナが第一標識の向こうを見た。


「立入禁止線は越えない」


 俺は即座に告げた。


 あの音の正体を見れば、報告は詳しくなるかもしれない。


 だが、入口側で間引かれた魔獣と、未処理区画に残る魔獣が同じ強さだという保証はない。


「音の回数と方向だけ記録して撤退する」


 俺の判断に異議を唱える者はいなかった。


 未成熟個体はなおも荷運び口の近くにいるが、追って倒す理由もない。


 ガレンを最後尾に置いたまま、俺たちは決めた順番を崩さず入口へ戻った。


 迷宮の外へ出ると、午後の光が眩しかった。


 リゼは真っ先に四人の手足と呼吸を確かめた。


「毒の兆候なし、傷もありません」


 盾の表面には鎌が擦った跡が残ったものの、ガレンにも出血はない。


 フィナは採取袋の封が破れていないことを確認し、俺は経路記録の紙を開いた。


 希少殻素材が少量、卵殻が一片、壁際の堆積を描いた図、薄い瘴気のにじみ、未成熟個体一体、第一標識の奥から聞こえた重い音。


 原因も全容も、まだ分からない。


 それでも、禁止線を越えず、誰も傷つかず、調べた事実を持ち帰れた。


「倒していないのに、仕事をしたと言えますか」


 リゼが採取袋を見ながら尋ねた。


「倒すことが目的じゃなかった」


 俺は記録の最初に書いた依頼範囲を示した。


「見つけて、持ち帰って、帰る条件を守った」


「なら、今回は成功ですね」


 フィナが穏やかに言う。


 ガレンは盾の傷を一度撫で、重い息を吐いた。


「勝てるか分からない相手へ進まないのも、四人の仕事か」


「四人で帰るところまでが仕事だ」


 俺が答えると、三人の顔から同時に力が抜けた。


 短い補正を切った後にも、互いが決めた役割を守った実感だけは残っている。


 俺たちは出口の光の下で、持ち帰った殻と記録をもう一度並べた。


 危険の先を暴くことより、信頼して止まれたことの方が、今日は大きな成果だった。

採取物:鎧殻鎌虫の希少殻素材少量、卵殻一片。

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