広瀬さんの部屋で見つけたものは
「よし、と」
私は洗面所で髪の毛を整えてメイクも少し直してカバンを持った。
これから広瀬さんのマンションに向かう。実はずっと電子レンジを運ぼうと思って、そのまま動けてなかった。
私は会社を出て、少し離れたドトールに向かう。
するとドトールの角に広瀬さんが立っていた。
「海野」
「おつかれさまです」
「行こうか。いつも東西線まで歩いてた。少し遠くなるけど、あまり混んでなくて朝も快適なんだ。東京駅に向かうのと逆になるから」
「なるほど」
私は広瀬さんの横に立って歩き始めた。
広瀬さんは、
「どうしようかな……と思ってるんだが、部屋を手放す勇気が出ない」
「少し気になってました。おじいさん退院されましたし、半分くらいはこちらに戻られるのかなと」
おじいさんが事故にあって四ヶ月経過した。
桜が咲く時期に転落したけど、今はもう真夏だ。
おじいさんは最近洋裁をはじめて元気になってきた。
この前も「ひとりでユザワヤにいく」とついに車の運転を自分でしたと聞いた。
石畳の階段を上って本家に戻れるような状態ではなく、生活に支障はある。
それでも日中ずっと眠っているような状態ではなく、病院でのリハビリも入院していた時と同じくらいしっかりするようになってきたと介護士さんに聞いた。
だからひょっとして広瀬さん、マンションに戻るかな……と少し思っていた。
そしてそれを私は、かなり淋しいと思っていることも。
広瀬さんは、
「彩音が海野にリュウを頼みすぎてるように見えるが」
「いえ、そんなことないですよ。月、木は必ず早いです。水曜日と金曜日に外の用事をまとめてるみたいですね。夜遅くまでレッスンに行って、教室もあって、発表会もあって家もある。彩音さんは頑張ってますよ」
「そうかもしれないが、海野の負担になってないか?」
「お迎えより……正直西葛西店が重いですね」
「あそこ……今斉藤に頼めないか頼んでる」
「そうですね、正直距離的に重たいです。でもそれ以外は家付近を担当させてもらってるのでそこまで大変ではなく……」
と言いながら、私は広瀬さんにマンションに戻ってほしいの? と思ってしまう。
いや違う。私は広瀬さんと一緒にこうやって帰ったり、一緒に晩ご飯食べたりしたいと思っている。
でも……と思う。
恋をして見えてきたのは「このまま広瀬さんと家族になって仁菜と三人で暮らす夢」だ。
恋をしたからといって広瀬さんだけと暮らしたいわけじゃなくて、仁菜も一緒がいい。
仁菜にはずっと「仁菜を産んでくれたのはお姉ちゃん。私はお姉ちゃんの妹。お姉ちゃんは病気で死んじゃったから、私が一緒にいるの」と。子どもにそんなにしっかり話しても……と思ったけど、姉のことを一緒に覚えていてほしいと思った。
でもやっぱりちゃんと仁菜のママになりたい。
そして広瀬さんと暮らしたい……となった時に、広瀬さんほどモテる人が子持ちを選ぶ必要はない。
だって広瀬さんのことを好きな人はたくさんいる。
広瀬さんが私のことを好きかも知れないと思うけど……制約だらけの子持ちの人と暮らすなんて考えているだろうか。
かといって仁菜なしの生活は考えられない。でも私を好き……なら当然仁菜も……と都合良く考えてしまう。
もう考え疲れて、すべて曖昧な今のまま……と思うけど、いつか広瀬さんはマンションに戻るわけで、そしたら接点は上司と部下だけになる。
そんなの淋しい。
ぐるぐる歩きながら考えていたら広瀬さんが私のほうを見て、
「……俺は、実家にいたほうが……いや、居たい、と今は思っている」
「! そうですか。そうですか! それは……いいですね!」
なななんかもっと言い方があるんじゃないの~?!
私は広瀬さんの後ろを歩きながら唇を噛んだ。
そして広瀬さんのマンションに到着した。会社から地下鉄で二駅、駅から徒歩数分のマンションだった。
駅からマンションまでの間に、良さそうなスーパーが数軒あり、チェーン店も多い。
「良い場所ですね、スーパーも多いですし」
「ここに住んでた時はほとんどスーパーで買い物してないんだよな。自分のために夜遅くに台所に立とうとは思わない」
「確かに私もひとりだったら、お惣菜とご飯程度で終わりそうです」
「それが限界だ。どうぞ」
広瀬さんはマンションのドアを開けて私を中にいれてくれた。
中は入るとすぐに大きめのシューズボックス、小さな台所に小さなリビング。
そして奥にベッドが見えた。それを見て急にドキドキする。よく考えたら男性の一人暮らしの部屋だ。
荷物を運ぶのを手伝うだけ、手伝うだけ……と無理やり冷静になる。
広瀬さんは私のほうを見てすぐに目を逸らして、
「……男の部屋に女性ひとりで呼んでしまって申し訳ない。怖いと思うが、当然だが何もしない」
そんな風に言われてしまうと、私も冷静にならないとひとりだけ浮かれてることになってしまう。
息を吸い込んで、
「いえ、広瀬さんですし。そんなこと思って無いです、大丈夫です」
「……そこに座っていてくれ。まず色々片付ける」
広瀬さんに言われてリビングの椅子に座る。
広瀬さんは布団を整えて、棚を開けて色々と出している。
シンプルであまり荷物がなくて、ゴチャゴチャしていない。
この部屋をすごく広瀬さんらしい……と思ってしまう。広瀬さんが服を何枚かクローゼットから出していたので、それを詰めるのを手伝う。
広瀬さんは少しきれいめの私服もだして、
「もうすぐダンスの発表会があるな。少しきれいめな私服も持って行くか。こっちと、こっち、どっちが良いんだ?」
「広瀬さん明るい色が似合うから、その水色のシャツ、すてきです」
「そうか? これ明るすぎる気がして着てなかったんだが」
「似合うと思います。こういうチェックのパンツも見たいです」
「それは彩音から誕生日に贈られたんだが……似合わない気がして着てない」
「さすが彩音さん、似合いますよ、似合います!」
「……そうか。この靴も彩音が贈ってきたんだが……」
「茶色のスエード。可愛い。絶対広瀬さんに似合うと思います」
「……そうか。じゃあ着ていくか。みんなが頑張ってる発表会だしな」
「そうです、良いと思います。あ、このカーディガンも……あっ、いいですね、もったいないです」
私は服を広げて広瀬さんの胸に広げてみた。
広瀬さんはカッコイイから、スーツだけじゃなくて、こういう服を着ても全然良いと思う。
胸に広げて見て、広瀬さんの顔を見ると、優しく微笑んで私を見ていて、目が合った。
体が熱くなって目を逸らす。広瀬さんは、
「若すぎる気がして着てなかったが、海野が良いといいなら着よう」
「あっ、はい。とてもお似合いですよ!」
なんだか通販番組みたいな言葉を言ってしまった。
慌ててその服を下ろして必要以上に丁寧に畳み、
「持って行きましょう。私もせっかくだから発表会用にすこしキレイめな服を買おうかな」
「いつも家にいる時も海野は綺麗にしてるじゃないか」
綺麗……そんな言葉をさらりと……。
しかもそれは広瀬さんが居るようになったからで……スカートを家で履き始めたのも最近です……と口元をモゴモゴさせていたら、
広瀬さんは荷物を詰めながら、
「子どものころに、親がオシャレして発表会を見に来た……という記憶がない。だから俺はしてもいいなと思う」
「……そうですね。しましょう。そうしましょう」
広瀬さんのご両親は離婚して家を出られた。
「クソみたいな息子を育てちまってさあ。必死に育てたのになあ、なんであんなのになったんだろうなあ」と泣きながらお酒を飲んでいたおじいさんを見たことがある。
私は服を入れつつ「綺麗な服装をした人が見に来ると、自分にはその価値があるって子どもは感じると思う」と言いそうになって、それは広瀬さんの過去を否定することになると一瞬で口を止めて、
「私も、広瀬さんのおしゃれな私服が見たいです!」
「海野は新年会の時とか、ロングワンピース着ていただろう。似合ってたから覚えてる」
「そっ……そうですか!」
もうちょっとキャパオーバー。
私は「あっちを片付けます」と言ってリビングに戻って椅子に座った。
これは仕事……仕事じゃないけど仕事……と大きく息を吸って机の上を見ると、金具が壊れたネックストラップがあった。
私はそれを手に取る。
「これ……」
「ああ、昔使ってたやつだな。引っかけて金具が壊れて、そのままだ。あとで捨てる」
「いえ、これ……あの。いただいてもいいですか? 同じような金具をユザワヤで見つけたんです」
「……古いがいいのか? 同じものが売ってるから、ほしいならそれを買ってプレゼントしてもいいが」
「いえいえ。金具同じなのかなって、興味あるだけです。今おじいさんと手芸にハマってるので」
「別に構わないが……古いぞ?」
広瀬さんは何度も「古いぞ?」と言っている。
それは知っている。このネックストラップ……私が新人で営業に配属された時に広瀬さんが使っていたものだ。
私はうちの会社が出していた展示会が素晴らしくて、こんなに全国に全く知られてないお店があるんだ……と感動して今の会社に就職した。
でも配属されたのは営業で、ひたすら荷物を運んで、店長たちに怒られた。
私が何もできないのが悪い、でもこんなに怒られてばかりならもうイヤだ……そう思っていた頃に広瀬さんに何度も助けられた。
広瀬さんは一緒に店舗に足を運び、率先して店長との付き合い方を教えてくれた。
棚卸しの最中に、このネックストラップをしているのを見て、私も同じものを買ったのだ。
シンプルなもので社内にも同じものを使っている人は多い。だから誰も気にしてないと思う。
実は私のほうはカードを入れる部分が破損した。でも紐はまだ使える。
だから付け替えて使おうっと。広瀬さんとこっそり一緒なの、嬉しい。
私はそれをカバンにいれて、広瀬さんと電子レンジを車に運んで車に乗り込んだ。
そして甲州街道沿いにある大きなスーパーで一緒に買い物をして、おじいさんの家でみんなで麻婆豆腐を作った。
おじいさんは、
「最近やっと噛めるようになってきた」
と言って、広瀬さんを呆れさせた。
広瀬さんが私のために味付けしてくれた麻婆豆腐はすごく辛くて、ふたりで涙を流して笑ってしまった。
もうすぐ発表会。
一緒にいくのが楽しみ。




