姉について
「これが海野の妹か、普通だな」
この言葉を、私は幼稚園の時から中学を卒業するまで何度聞いたか分からない。
幼稚園の先生も姉の事を覚えていたし、小学校の時には姉の友だちが私を見に来た。中学校の時は先生たちに「あの海野の妹!」と何度も言われた。
それほど姉は強烈な人だった。
姉は物心ついた時から本ばかり読んでいた。
私は外で遊ぶのが好きだったけど、姉は図書館に連れていけば朝から夕方まで席を立たない。
本に過集中するくせに、勉強もスポーツもそつなくこなして、美人で背も高くて、誰にでも優しい。
誰が見ても完璧だった。
最後に夢中になったのが法律だった。
新聞から始まり、ドキュメンタリー本、裁判所のデータベース。
そして判例タイムズという分厚くて三千円もする文字の塊みたいな専門誌を姉は毎月楽しそうにめくっていた。
中学一年生になった時、私は学校帰りにマンションに連れ込まれて背中を蹴られた。
姉は私の服を見て一瞬で判断、写真を撮影して、そのまま警察に向かった。
警察は「中学生がしたことだし……」という曖昧な態度。
姉は全く引かずに「被害届を出すためだけに来たと思います? 傷害罪の告訴です」と言った。
そして、
「人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役または五十万円以下の罰金に処する……。背中を蹴られた行為はこれに当たりますよね。次に刑事訴訟法230条。『被害者その他法律に定める者は、犯罪事実を申告して、犯人の処罰を求めることができる』私は菜穂を蹴飛ばすようなバカを絶対に許さない」
と真顔で冷静に伝えた。
ニヤニヤ笑いながらサイコパスのように言うのではなく、教科書を読み上げるような正確さで。
それに焦った警察はすぐに加害者と家族を呼び出した。
先生たちも駆けつけて、あまりにオオゴトになり、結局私のほうが慌ててしまい「もうしないなら良いよ」と姉を止めてしまった。
姉は「記録として残ったから、それでいいと思うよ」と更に追い込むこともなく、警察署近くのマックでソフトクリームを奢ってくれた。
「絶対にやりこめる」という恐ろしさもなく、淡々と。
加害者は他にも色んな子たちをそのマンションの死角で蹴飛ばしていたようで、転校して行った。
姉はいつも言っていた。
「法律は権力でもなんでもない。ただそこにあるもの。みんなで正しく使って楽に生きるためのもの。だから使う時にちゃんと使わないと」
姉はそのまま都内の進学校に入学。電車の中で本を読みすぎて乗り過ごすので、それを心配した友だちが毎日付いてくるというおもしろい事態にはなったけど、法律への興味を持ったまま弁護士になった。
恐ろしく完璧で鋼の意思を持ち、誰よりも美しい姉、海野ひかり。
私の自慢の姉。
いつだってなんだって、姉がいれば大丈夫だった。
「妊娠したから、ここで産む」
そう言って姉が帰ってきたのは、弁護士事務所で働き始めて数年後のことだった。
姉はトランクひとつで、もう大きくなりはじめていたお腹を抱えて帰ってきた。
両親もおばあちゃんも私も、開いた口が塞がらないとは正にこのこと。
姉が恋愛?
姉が妊娠?
姉が?
あの姉が?
父親は誰?
お母さんが聞いても、私が聞いても「誰でもいいでしょ。子どもが落ち着いたら働くから、私ひとりの収入で余裕で育てられるよ」と「面倒かけるから」と200万円即金で家に入れた。お母さんは「何も聞くなと」と呆れて、それでも「孫か~」とすぐに受け入れた。
私は本気で「本との子どもが産まれてくるのでは?」と姉に聞いてしまった。
姉は「……そうかも。それがほしくて妊娠したかも!」と言われた。
私が何を聞いてるのか、姉が何を答えてるのか分からないけど、それくらい姉が誰か男性と「そういう行為をしている」絵が浮かばなかったのだ。
中学高校大学と姉はモテているというか、崇拝されているような感じで、一度も彼氏を作らなかった。
むしろ私含めて、女の人にすごくモテていた印象がある。
姉自身も容姿も美しく、常に可愛い女性に囲まれている姉を見るのが好きだった。
あとは本を読んでいるか。その二択だ。
女性と子どもは作れない……つまり姉が妊娠した相手は……本だ。
私は半分本気でそう思っていた。
私は何度も好きな人ができてはフラれ、うまく行かず、もう恋などしないと思ったけど、またしてフラれてフって。
恋で学校に行きたくなくなったり、アホなこともたくさんした。だから恋に興味がない姉を「カッコイイ」と思っていたのに。
私がそう愚痴ると姉は笑って、
「私がお父さん。菜穂がお母さん。ふたりで子育てしようよ。楽しそうじゃない? 私たぶん。お金持って来られるけど、子育て向いてないよ。きっと菜穂はいいお母さんになるよ。菜穂がお母さんならきっと楽しい。私は菜穂から産まれたい」
そう断言する顔は、私をいじめっ子から守った時の冷静なテンションと同じで。
だから妊婦健診にも一緒に通ったし、出産も廊下で待った。
でも産後二ヶ月で姉は死んだ。
『菜穂がお母さんならきっと楽しい。私は菜穂から産まれたい』
私はちゃんと仁菜を育てたい。
姉みたいに完璧じゃないけど、完璧だったお姉ちゃんが認めてくれた私が、ちゃんと。
ずっとそう思って仁菜を見てきた。
だからもう自分の恋愛などする気もなかったし、何より仁菜を育てるのが思ったより楽しくて、興味がなくなっていた。
「(……久しぶりに姉の夢を見て、ちゃんと眠れなかった)」
私は電車の中で目をこすった。
広瀬さんに惹かれていると自覚したからだろうか……久しぶりに姉の夢をみてしまった。
うつむいていると目の前に立っている広瀬さんが私の顔をのぞき込み、
「海野、大丈夫か。顔色が悪いけど」
「いえ、すいません、少し眠れなくて」
「だったら俺に寄りかかって少し寝たらいい。満員電車だし、それくらい支えられる」
「! いえ、そんな……」
私が断るより早く、広瀬さんは私のカバンを持ってくれた。
満員電車だからカバンがないと本当に抱きつくレベルの近さだ。
少しだけ身体を任せると広瀬さんの体温が伝わってくる。
それだけで安心して目を閉じる。
広瀬さんと恋をしたい。
そう思い始めたから姉の夢をみて、思い出した。
姉はいつも言っていた。
「私は完璧だけど、男を見る目だけは無かった」
それはきっと仁菜の父親のことだ。
姉は仁菜の父親に妊娠後、もう会わないと伝えた。
しかし父親はうちの居酒屋に来たのだ。
姉激怒して、その場で追い出して、二度と近づかないように誓約書を書かせた。
お母さんもお父さんも激怒して塩を撒いて、大騒ぎになった。
その後、葬式でも会った。会ったというか……見かけた。
話しかけてくることもなく、近づくこともなく、会場に入ることもなく、施設の椅子に座っているのを見た。
壁に寄りかかって生気のない表情。お経が響く廊下で、その男は身動きひとつしなかった。
私も疲れ果てていたし、葬式だし……と私は追い出したりしなかったけど、姉なら追い出した気がする。
妊娠中に激怒して追い出した男に見送ってほしかったのか……それも分からないまま。
姉が関係することになると、私はとことんダメになるという自覚がある。
だから普段はあまり考えないようにしてるんだけど……。
広瀬さんの胸元に頭を付けてため息をついていると、広瀬さんが上から優しく、
「大丈夫か? 今日、前に話してた日だけど……平気か?」
「えっ……あ、何でしたっけ」
「会社近くのマンションに電子レンジを取りに行って、車で運ぼうと思ってるんだ。結構デカくて重いから運ぶのを海野に手伝って貰えたらと思ってたんだけど」
「忘れてました、大丈夫です」
「体調が悪いならまた今度にするけど」
「いえ、本当に寝不足なだけなので大丈夫です。それにおじいさんの所に電子レンジ、ほしいと思ってました」
「そうなんだ。少し食欲も出てきたみたいだから。じゃあ今日、17時すぎに会社から少し離れたところのドトール前で」
「はい」
私は広瀬さんの胸元で頷いた。
広瀬さんの一人暮らししているマンション……ちょっと興味があったので嬉しい。
悩むたびに思う。
私が姉だったら良かったのに。
姉くらい頭が良くて知恵があって度胸があったら、こんな風にいつまでも過去のことで悩まないのに。
いつも自分が情けなく感じてしまう。
それでも。
今日電子レンジ持って行くなら、おじいさんの家で夕ご飯にしてもいいなと思う。
何を作ろうかな、柔らかいものと、仁菜たちが好きなものを両立させるのが難しい。
そんな風に広がる日常を愛しているし、前よりは自分を好きになっているんだ。
だからちゃんと「したいこと」を口に出して言うようにしたい。
私は広瀬さんの胸元の服をキュッと握り顔を上げた。
「あの、車で帰るなら、途中で一緒に買い物できませんか? 大きめのスーパー。広瀬さんとお買い物したいです」
「そうだな。甲州街道沿いに大きいの出来たな。寄っていこうか。あ、じいさんの所行くし、みんなで食うか」
「同じことを考えていたんです。麻婆豆腐とかですかね」
「いいな。リュウと仁菜ちゃんは甘めに。俺たちは辛くすればいけるし、柔らかいな」
「はい。一緒にご飯、作りたいです」
私は広瀬さんに少しだけしがみ付いた。
広瀬さんは優しく微笑んで私を支えてくれた。
広瀬さんは私が言うことを否定しないで、いつも聞いてくれる。
だから広瀬さんの前なら、私は気持ちを言える、提案できる。
私は、広瀬さんといる自分が好きだし、そう思わせてくれる広瀬さんのことを好きだと思う。
こんな毎日を重ねて、私は私に、もっと自信を持ちたい。




