40、 命日 4
ベランダのガラス窓に掛かった光沢のあるピンクのカーテン。ゴブラン織りのカーペット。ローズ色の洋服ダンス……、それに同色のチェスト……。その上には四つ切りサイズの写真に、飾られた花と白い布で包まれた箱……。
まさか、お骨?
あとは何も置いていない六畳間を、脅えた目で見回す。背中をつけた壁が、逃げ道はないというように堅く背を押し返す。
「た、助けて……」
ぶら下がった女に向かって呟く。長い髪だけが唯一人間であった証のようにまだ黒々と光沢を放って、腐乱したおぞましい顔を隠していた。
揺れていた死体が急にピタリと止まった。すると僕の見ている前で、突然にカクンと下がり、まるでマリオネットの糸が切れたように、ドスンと音を立て、崩れるように落ちた。
「ひっ!」
黒髪が広がる……。息を呑み、崩れた死体を見つめる。大丈夫! 死んでいるんだ。死んでいるんだ。僕には何も出来ない。少しでもその死体から離れようと、足を体に取り込むようにたたむ。ガタガタと体が振るえっぱなしだ。
「ハッ!」
ビクッと体が跳ねる。
黒髪の中から、赤黒い指が這い出してきた。その指先が、カーペットにクッと爪を立てている。そして、少しずつ体を引き摺っている!
動いている! 僕に近寄ってくる! 生きているのか!?
ズズ……、ズズ……。
「あああ……っ」
身を竦ませて、逃げようともがいた。でも、立ち上がることすら出来ない。壁に、へたり込んだ体を張り付かせた。
ズズ……、ズズズ……。
二つの手だけが別の生き物のように、抜け殻の体を引き摺っている。伸びきった足の進んだあとには、おびただしいどす黒い汚物。不自然にへし曲がった首についた頭を、僕の元へ運ぶように手が爪を立てる。
足を掴まれる!! 強張る体は悲鳴すらあげられない!
その時、黒い頭がゆっくり持ち上がった。カーペットに擦られ、だらりと形の崩れた顔に何かを咥えている……。舌! 舌がどろんと出ている! へたり込んだ僕を足先から、舐めるように顔を向ける。仰け反る僕の顔を見る! その目は黒い瞳がない! 青白い目玉を剥いたまま……。
あまりの恐ろしさに、ヒクヒクと体を痙攣させる僕の足首を、ついにその手が掴む! 濡れた皮ひものように、ググッと足首に食込む。
「うわああっ! やめろーっ!」
「田崎!」
「やめろーっ! は、はなせぇっ!」
「田崎! しっかりしろ!」
体を激しく揺すられた。
「あ……」
太い眉を寄せた黒縁の眼鏡が、僕の肩に手を掛け覗きこんでいる。
「桂木……」
彼は、分厚い唇から、ほうっと息を吐いて言った。
「お前、大丈夫か? ドアに鍵が掛かってなかったから入ってきたら、何か叫んでるから、びっくりしたぞ」
僕はゆっくり体を起こし、部屋を見回した。自分のベッドにいて、僕の部屋の中だ。
「夢か……」
額に手を当て、呟く。じっとりと手が額の汗で濡れた。体中にシャツが貼りつくほど汗を掻いている。
「なんだ? 怖い夢でも見たのか?」
と、桂木は脅えたままの僕に、心配そうに訊いた。
「ああ、わりい……。なんか、すげぇリアルな夢で、びびった」
「すげえうなされてたぞ。幽霊の夢でも見たんだろう?」
「まあ、そんなところ……」
そう言って、やっと安堵し、大きく息を吐いた。体に疲労感があり、気だるい感じがする。
ひどい夢だった……。隣の山田さんの話で、影響されたのだろうが、あまりにリアルでフルカラー……。まだ体中、鳥肌が立っている気がする。
「で、京ちゃんはどうした? 一緒じゃないのか?」
桂木が、ベッドに腰を下ろし尋ねた。
「ああ、京は自分の部屋で休んでいると思うよ」
「え? なんだ? また喧嘩でもしたのか? 大丈夫なのか?」
「子供じゃあるまいし、べたべたくっついている必要もないだろ」
僕が不機嫌そうに顔を背けて言うと、桂木は唇を突き出して、
「そりゃあそうだろうけど……。京ちゃん、呼ばないのか?」
と、残念そうな顔をして、訊いてきた。
「あいつ、今夜は幽霊と語り合いたいそうだ。ほっとけばいい」
「ええ? いいのかよ」
「それよか、腹減った。何か食べに出ようぜ。昼飯食ってないんだ」
僕は頭を掻きながらベッドから立ち上がると、汗に湿ったシャツを脱いだ。白いロッカーからTシャツを取り出し、着替えながら、ふて腐れている自分にため息をついた。
気持ちよく目覚めているなら、直ぐに京の部屋へ行って怒ったことを謝るけど、何せ目覚めが悪い。見たくもない首を吊った女の夢だなんてサイテーだ。はっきり言って、昨夜の霊といい、京に関わった事で、今までにない恐怖体験をしているんだ。笑って、京に謝るなんて、出来るわけない。
それに、僕と離れたいみたいな言い方をされて、これ以上どうしろというんだ? 分らないと言われれば、被害者の家族でもないのだから当然だろう。
京の反発するような顔を思い出して、また腹が立って来た。僕の気持ちを分っていないのは、彼女の方だろう。
京がいなくてガッカリしている桂木と、駅前まで食事にやってきた。
夕刻の商店街は買い物客で賑やかだ。人通りを気にしながら、二人で食事するところを探した。
駅への広い道路の向かいに、和食の店があったのを思い出し、信号を渡ろうと待った。
「京ちゃんに連絡しなくていいのか?」
と、ポケットに両手を突っ込み、無口な僕を気にして、桂木が話しかけた。
僕は返事をしないで、変わった信号を渡りだした。
京からも、ケータイは掛からなかった。ずっと尻ポケットのケータイを気にしているのに、びくりともしない。寝ているのかもしれないと思ったが、連絡くらいしてきてもいいだろう。ますます不愉快になってきた。
渡っていた横断歩道の中央で、見覚えのあるブルーメタの車に足が止まった。
「高藤さん?」
僕が車を覗き込むと、運転席で高藤が軽く手をあげた。
横断歩道の信号が変わり、車は一斉に動き出した。高藤の車が、マンションの方向へ走り去る。僕はその車を無言で見つめた。




