38、 命日 2
「本当に空き部屋なんですか?」
息を呑んで、座卓に置いた手を握り締め、山田さんを真っ直ぐに見つめた。
「え、ええ。あれからは誰も住んでないわよ、当然」
京が僕の正座した膝の上に、そっと手を置いてきた。彼女には上の階の物音の話をしたことがあるから、僕と同じ様に強張った顔をしている。
今更ながら、上の階でしていた物音に寒気がした。僕ははっきりと聞いたし、間違いなく上の部屋から響く音だった。まるで誰かが住んでいるように。
「もともと四階は中本さんだけしか住んでいなかったの。隣に誰かいたら、腐乱した匂いや何か、もっと早くに気付いたでしょうけどね。一月近くそのままぶら下がっていたんだから」
そう言うと、山田さんは二の腕を抱いて、ぶるっと体を震わせた。僕も頭に死体の様子が不意に浮かんで、体中の皮膚が粟立つようだ。隣で蒼白の顔をしている京に気付いて、膝の上の手を握ると、眉根を寄せて僕と山田さんの話を聞いていた京の指先は、微かに震えていた。
「自殺しようと思って、可愛がっていた猫を殺しちゃったんでしょうか?」
僕が沈鬱な空気を破るように尋ねると、山田さんは視線を下げ、憐れんだ顔をして短くため息を漏らした。
「そりゃあね、若いとは言えない女が精神を病んで、こんなところで一人で暮らしていたんだから、猫が唯一の心の拠り所だったんでしょうね。死のうと思って猫を殺したのか、猫が死んだから生きていられなくなったのか、私らにはわからないわ。亡くなった後、年老いたお母さんがひとり遺品を引き取りに来たけど、憔悴しきっていて見てられないほどだった。遺書もなかっていうことだし、先だたれた親御さんが気の毒よねえ」
京も僕も、山田さんの言葉にうな垂れた。故郷に母親がいると院長も言っていたが、娘の突然の自殺を知った親の気持ちを思うと、胸が痛い。
差し出された湯飲みを手に取って、乾ききった口の中を潤すように、ゆっくりとお茶を口に含んだ。喉に熱いお茶を流し込みながら、僕は中本さんと猫を思い浮かべた。淋しい彼女の膝に抱かれた猫……。でも、その猫が、あの京の妹にとって変わる。自分の子供と同じ位の女の子を公園で見かけて、その淋しそうな様子に声をかけてしまったんじゃないか……。思わず連れ去ってしまったんじゃないか……。そしてここへ……。そんな考えが打ち消しても打ち消しても、波が寄せるように溢れ出てくる。
「白い車に乗っていたんですね、中本さん……」
黙ったままだった京が、突然山田さんに話しかけた。
「そうよ。下の敷地の空いた場所に止めていたわ。車ではよく出かけていたよ。買い物とか」
京は無表情になって、緊張したように背筋を伸ばした。そしてまた言葉を閉じた。出されたお茶に手もつけず、青褪めた顔をして、山田さんを見つめている。
「中本さんのことは、きっとここの住人は何も知らないと思うわ。もともと住人同士が親しく付き合うっていうマンションじゃないしね。お互いに干渉しないっていう感じだから。私も、個人的なことは本当に知らないのよ」
山田さんは、そう言って首を振った。
たとえ同じ屋根の下に住んでいても、閉ざされた扉の向こうのことなど分る筈がない。ましてや、心を閉ざした彼女にとって、扉を開くことは苦痛だったかも知れない。
僕達は礼を言って、部屋を出た。山田さんはドアの取っ手を掴んで、
「五年も前のことだし、気にしない方がいいわよ」
と、念を押すように言った。
閉まったドアの前で、京と顔を見合わせた。彼女は暗い表情をして、唇を噛み締めている。
「分らなくって、当たり前だよな」
と、僕が溜息混じりに言うと、京はこくりと頷いたが、すっと視線を上げると戸惑いながら言った。
「でも、私、中本さん……、やっぱり真由子と関わってる気がする……」
「え?」
「白い車……。真由子を連れ去った車も、車種は分らないけど、白いセダンだったの」
「そうか……」
僕はそれを聞いても、中本さんのことを否定も肯定もしなかった。僕の頭の中は、すでに彼女が犯人ではと思っていた。誘拐して殺したと結論付けたくはなかったが、あの子が真由子ちゃんで、あの女の霊は中本さんだと……。つまり、それを否定する理由がないということだ。
でも、それを口にすることは出来なかった。何ひとつ証拠はない。幽霊を見たからって、それが何の裏づけになるというのか。
京の部屋に戻っても、重苦しい気分は拭えなかった。
口を閉ざしたままの京は、何かをじっと考え込んでいるようで、僕も声を掛けるのを躊躇った。
ダイニングテーブルに向かい合ったまま、お互いが答えを出そうと模索する。そんな時間が続いた。
ことの全てがはっきりしない、想像の域をでない時ほど、余計な事まで考えてしまう。中本さんへの疑惑も、現実には何も根拠はない。全ては推測で、奇妙な体験が、事件に勝手な結論を与えているだけだ。
僕達は、何かに……、全く誘拐事件とは関係ないものに、弄ばれているのではないか? そう思えば、五年も前の自殺騒ぎを、今更訊き回っていること事態おかしなことだ。幽霊を見たことは夢じゃないとしても、それを妹の事件に繋げるなんて……。
やっぱり、考えすぎなんじゃないか……。
「私……。今夜から自分の部屋で寝る。一人で大丈夫だから……」
と、突然京が、うな垂れていた顔を上げて言った。
「え? でも、また女の霊が……」
驚いて彼女に言いかけると、京は決心したという目をして僕を見た。
「きっと、真由子は私に会いに来てくれる。私が真由子を助けてあげないと、あの子はずっとあの女から離れられない気がする」
「何言ってんだよ。君の首を絞めてきた怨霊だぜ。何かあったらどうすんだよ! それにあの子だって、絶対真由子ちゃんだと言い切れないだろ?」
京は、心配して声を荒げた僕を、しばらく黙って見つめる。
そして、俯くと、額に手を当てて答えた。
「あの子は、絶対に真由子よ。間違いない」
「京!」
僕の苛立った視線から、伏せた目を隠すように手を宛がうと、震え始めた声で話し出した。
「あの子、あんな姿になって、きっとここで何かあったのよ。もしかしたら苦しかったかも知れない。痛いって泣き叫んだかも知れない。なのに私ったら、高校を出て大学まで通って、普通に暮らしてる。真由子のこと心配だっていっても、亮といる時は幸せだし、大学も楽しんでる……。私のせいで、不幸になった妹ことを、段々忘れる時間が増えている」
「待てよ! 君は生きてるんだ。四六時中妹のことを考えてるなんて無理だよ。気持ちは分るけど、君が普通に人生生きて、何が悪いもんか!」
「亮ちゃんには分らない!」
京は叫んで、涙の溢れた目を向けた。悲しんで苦しんできた彼女の目は、気休めにしかならない僕の言葉を拒んでいた。
「私がどんな目に遭おうと、妹を救えるなら、逃げてはいけないの。部屋で真由子を待つわ。あの子も私を待っているはずだから……」
京の両手が、テーブルの上で堅く握られた。




