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セロファン師は気が進まない  作者: 九藤 朋
38/58

XXXVIII

 たとぅ、たとぅ、たとぅ、と。


 彼女の耳は、木靴の音を確かに捉える。

 今日あたりだろうと思っていた。彼女が胸を押さえると、恋人から貰った銀のブレスレットがしゃらりと鳴った。まるでセロファン師の髪飾りの鈴のよう。

 紺青色の美しい夕暮れで良かったと彼女は思う。世界は美しいと思いながら、そして、愛する人を想いながら逝くことが出来る。会社の屋上からの眺望は、実際美しかったのだ。


「やあ。お久し振り」

「久し振りね、セロファン師」

「憶えていたんだね」

「忘れる筈ないわ」



 今より凡そ十年前、彼女は一度、セロファン師と遭遇していた。

 極度に身体の弱い彼女の、寿命が来たとして。

 けれど彼女の生きようとする力は、奇跡的にその時、死を退けた。セロファン師は色を見せることなく去った。長い人生にはならないと知りながら、彼女はその後、必死に生きた。仕事をして恋をした。短いと知らされていたからこそ、成し得たことは少なくなかったように思う。


 だから彼女はセロファン師に感謝していた。


「見たい色を、言ってくれ」

「琥珀色が良いわ」


 恋人とよく一緒に呑んだウィスキーは琥珀色だった。

 寡黙なバーテンが営むバーで、彼女は人生の喜びを噛み締めていた。

 だから。


「後悔しない?」

「なぜそんなことを訊くの?」


 セロファン師はしばし口を噤んだ。


「だって貴方は、その色を分かち合った恋人を殺しただろう?」


 彼女は微笑んだ。

 セロファン師には何もかもお見通しなのだ。


 彼に限って浮気などあり得ない。

 そう信じていた分、裏切られた衝撃は大きかった。彼女は恋人のグラスに、遅効性の毒を盛った。もう警察も、彼女を包囲網に入れ狭めている頃合いだろう。身体が恋人を殺した翌日に身体が限界に達したのは何の因果か。


「殺しても、愛してる。愛してるから、殺した。分かち合ったからこそ、琥珀色が良いのよ」

「……承った」


 びかびか光る琥珀色。


 彼女は微笑み、最期の一瞥を世界に投げかけた。



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