7−5
海が見える部屋 最後の投稿でございます
沖田広海は手を伸ばして、足もとの戻ってきた絵を再び手に取った。
「戻ってきちゃったんだ」沖田広海は絵を見つめていた。
「戻ってきちゃったんだね」それっきり沖田広海は黙ってしまった。静かな時間が流れていた。沖田広海は、戻ってきた絵を見ていた。
僕は何をしに来たのだろう。絵を取り返して、絵を渡して、結局は沖田広海は堂々巡りだ。彼女が抱えている問題なんか何一つ解決しちゃいない。
あるのは戻ってきた絵と、それを越えられない絵描きの女の子だけだ。
どうして、そんなにまでして昔の自分を越えたいのだろう。
どうしてそこまでして越えなきゃいけないんだろう。
無理に越えなきゃいけないのだろうか、無理に。
「超えなくていいよ」僕は言った。
「超えなくていいよ」近藤の口が動いていた。
視線の端で沖田広海の顔が見えた。どんな目で僕を見ているんだろう。
「今のままでいいよ」僕は沖田広海に言った。口に出すとそれは自然な言葉だった。だから僕は自然に任せた。
「無理に超えなくたっていいよ。無理に変わらなくてもいい」口が滑らかだった。
「僕は今のままが好きだよ」何も無理に変わることなんてない。沖田広海に変わらなきゃいけない所なんてどこにもない。無理に苦しむ必要なんてどこにもない。
「そうか、大屋さんは今のままでいいか」沖田広海は呟いた。
「だって、君はこんなにすごい絵を掛けるじゃないか」
沖田広海の顔が複雑に歪んだ。近藤の言葉を飲み込んでいるようにも見えるし、否定しているようにも見える。
「この絵にどれだけの人が振り回されているのか、俺も、嵐山さんもそうだし、外人さんもだし」
夕陽の海の絵を見て僕は沖田広海と出会った。
この夕陽の海の絵を手に入れるためにアオヤマ・スミレという外国人は盗人のような強硬手段に出た。
夕陽の海の絵を返すために、僕と嵐山京子は海まで来た。
そして夕陽の絵は沖田広海の手元に戻った。
夕陽の絵は沖田広海そのものだ。
手放したら空っぽになるのは当たり前だ。
沖田広海そのものを、沖田広海が超えていくのは、当たり前だが難しい。でも、彼女が彼女を超えるのは今じゃない。
「今、超えられなくてもいいじゃないか。今、無理に超えられなくても。いつか、いつか超えられる時がある」僕は言い切った。
「あるかな」
「あるさ」僕は言った。「きっとある」僕は沖田広海の力を信じていた。あとは誰が見てくれるか。それだけだ。
沖田広海はまだ戻ってきた夕陽の海の絵を見つめていた。
「ゴメンね大屋さん」ポツリと言った。「コピーなんかあげてゴメンね」思いがけない言葉だった。
「コピーなんかじゃないよ」近藤は言った。
「コピーなんかじゃないよ。世界に一枚しかない絵だろ。世界に一枚しかない絵だよ」近藤の言葉には自信があった。
「でも、大屋さんに申しわけなくて・・」沖田広海は言った。
「コピーなんか後生大事にして、いい気になって、絵まで取り返してもらって。何か、ホント申しわけないよ」
「申しわけないか・・」そんなことはどうでも良かった。でも、僕は何か彼女に言うことがあるんだろうな。何があるんだろう。
近藤は海を見ていた。それはまもなく夕焼けの時間を迎える海だった。
「じゃあ、一つ、お願いしていいか」僕は沖田広海に言った。
「いつか俺に電話してきたろ、今、海にいるって」僕は昔の話をしていた。
「うん、夏だったよね」
「今、海にいるって、夕陽がとてもきれいだって。海が眩しいって。あの時、俺も海が見たいって思った。それを俺に見せてくれ、眩しくて目が開けられないくらいに、光った海を、俺にも見せてくれ」近藤は海を見ていた。
沖田広海は近藤の横顔を見た。
近藤は沖田広海の顔に向き直った。
二人は顔を合わせた。一人は複雑な顔で、一人は微かに笑っていた。
しばらくの間、二人は顔を見合わせていた。
一人は言いたいことを全部喋ってしまった、すっきりした顔をしていた。近藤だった。
一人は言葉を探していた。沖田広海だった。それまでだった。二人の横顔に夕陽が射し込んできた。
太陽が雲を出た。光が眩しくなる。雲から太陽が出てきた。沖田広海と近藤は海の方に向いた。
「行こう」沖田広海が立ち上がった。
近藤と嵐山京子は立ち上がった沖田広海を見上げた。彼女の目は海を捕らえていた。
「行こう」もう一度、沖田広海は言った。「行こう、海を見に」
僕は立ち上がった。嵐山京子も立ち上がった。三人は足並みをそろえて岩場を歩いた。三人は海に近づいた。岩場の縁まで歩くとあとは海が広がっているだけだった。
海が光る時間が始まっていた。
太陽の金色の帯が白く光る波間を走っていた。さざ波立った海はキラキラと揺れて、太陽はさらに明るさを増していた。眩しい光の中、目をこらすと見えてくる海の景色が三人の目の前にあった。
すべてが金色に染まっていた。空も、雲も、岩場も、そして海も、金色に染められていた。三人は金色の世界の中にいた。
強くなった海風が潮の匂いを運んできた。
三人の前に遮るものは何もなかった。ビルもないし、山もない。あるのは海だけ。その海に向かって、太陽が沈もうとしていた。
三人の周りには、もう二度と訪れることのない世界の姿があった。
今日という日の終わりが、日没という形で存在していた。
時間では測ることのできない一日の終わりがあった。
太陽が水平線に沈んで行く。
光が消えて、影が消えてゆく。
空が落ちて行く。
白い波が消えて海が黒く染まりはじめた。
あと、十分もしないうちに、この光景は消えてなくなる。
それはもう二度と見ることはできない世界の姿だった。
光りあふれる全てが輝く一日の終わりは、もう終わってしまう。それを思うと、近藤は胸がつぶれそうだった。一日の終わりを近藤は体験していた。
太陽が本州の山並みに消えた。山の稜線から赤い光だけを残して。辺りは元の色に戻ろうとしていた。
海から光が消えた。
日没が終わった。
三人は、一日の終わりが消えた海を見つめていた。白く輝くさざ波は消えて黒い波間があるだけだった。まもなく夜が始まる。
口の開く音があった。
「・・終わっちゃったね」言ったのは嵐山京子だった。
「終わった」を言うのがイヤだった。日没は終わってしまった。それは確かに事実だった。それでも口に出したくはなかった。
「終わったね・・」この場にいる三人がみんな口に出した。空が急に暗くなってきた。もう夜は近い。三人とも言葉が少なかった。三人は向き合った。お互い確認をするように向き合った。
急に沖田広海の顔がクシャクシャになった。あとは涙が止まらなかった。
「ホントはね」涙声が喋った。
「すごく怖かったの。海と向き合っていて絵を描いていて。怖かった。海が襲いかかってくるみたいで。海に飲み込まれそうになって」
ボロボロと沖田広海の目から涙が落ちた。大きな目から、開いた目から涙が落ちていた。
「あんなに海が怖いなんて・・」涙は止まらなかった。僕と嵐山京子は、泣く沖田広海を見ているしかなかった。
「でも、もう大丈夫」沖田広海は涙をすすった。
「もう大丈夫。怖くない。もう海と向き合っても怖くない」涙はもう落ちなくなった。
沖田広海は笑った。
「これ」沖田広海は、手にした夕陽の海の絵を近藤に差し出した。近藤の目が沖田広海と、差し出された絵を行き来している。
「やっぱりこれ、大屋さんが持っててよ」沖田広海は笑顔で近藤に言った。
「せっかく取り戻してくれたけど、やっぱり私が持って居ちゃいけないと思うんだ。この絵は。それに」沖田広海は言葉を切った。
「それに?」近藤は沖田広海を促した。
「そろそろ出る時間なんだと思う」
「出る?」
「海が見える部屋から出て、色々な世界、もっともっと、すごい事がある広い世界に見に行く時なんだと思うんだ」
それは沖田広海の決意だった。今までの自分じゃない、新しい自分を見つけに出かける。居心地が良くもあり、悪くもあり、愛着もあり、憎しみもあった、自分の絵からの決別だった。
「留学、行くんだ」それを聞いたのは嵐山京子だった。嵐山京子と沖田広海は向き合った。
「そのつもり」沖田広海は言った。「留学、行くよ」
「そっか」小さく嵐山京子は言った。その言葉に沖田広海はうなずいた。
「わかった」僕は絵を受け取った。「もらっておく」それが精一杯の言葉だった。
「二億の絵だからね。大切にしないと」嵐山京子が言った。三人は笑いあった。
「広海」笑いが終ると、嵐山京子は言った。
「あの外人さんの所に行かないと。留学の締切りは今日までだって言ってたから」嵐山京子は言った。
「うん」沖田広海は頷いた。「わかった」そして穏やかに言った。「ゴメンね京子。心配かけて」
嵐山京子は首を振った。「いつもの事だから」
二人は笑いあった。そして抱き合った。
お互いの顔を見ないで言葉を交わした。短い言葉だった。
それだけですべてが事足りていた。
二人は離れた。
太陽の光はもうなかった。夕陽の海は消えていた。
すぐにこの浜辺に夜が来る。三人は浜辺を後にした。
浜辺には波の音が残っていた。
読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
最初期の作品であるため、稚拙な部分ばかりしかないように思い、読み返して投稿しておりました。
近日中に「続編」を投稿する予定です。
重ね重ね、海が見える部屋にお付き合いくださった方、ありがとうございました。




