断章之二 一向宗と真宗教団
不審な点はいくつかありますが、いずれ本編で明らかになります。
案の定、屋敷は騒然となった。
もちろん長良川で拾ってきた男のせいだ。褌一丁の全裸男を見て、驚かない人間はいなかった。家長である父への報告があるため、十郎は男の傍を離れなければならない。
飯をがっつく三郎を眺めながら、どうしたものかと悩む。
ふと目が合う。
十郎の着物では丈が合わず、どうにも格好がつかない。曲げた肘や、胡坐をかいた裾の中身まで丸見えだ。足に巻いた布は泥だらけだったので、綺麗に洗って足袋を履かせた。
髪を整えて着物を纏っただけで、かなり見栄えがする。
「やらんぞ?」
「あんたのために用意したんだ。取ったりしないよ」
「飯が美味いのはいいことだ。生きている実感がわく」
ぞぞぞと汁を飲み干し、三郎は言った。
飯椀を手元に寄せて威嚇していたかと思えば、再び上機嫌でがっつき始める。少しも味わっているように見えないのだが、とても美味であると感じているようだ。
十郎にとっては、何の代わり映えもしない質素な食事である。
鯨肉や鰯が入っているわけではない。生臭い川魚も、肝心の川が汚れているので当分は食べられない。山盛りの麦めし、大根の漬物を茶渋で炊いたもの、根菜の味噌汁、これだけだ。三郎は焼き味噌を齧りつつ、汁をかけた麦めしを流し込んでいる。
柔らかい煮大根も、咀嚼しているか怪しいものだ。
とにかく米一升ほどはしっかり食べた辺りで、奴は茶を所望した。
「うまいな。伊勢茶か」
これまた一気に飲み干し、ごろりと横になる。
ほどなく盛大な鼾が聞こえてきた頃には、もう真面目に監視しているのも馬鹿らしくなってきていた。ひょっこりと顔を出した娘、奈江に後を任せることにする。
彼女も伊勢豪族の血を引く者だ。
身分を明らかにすれば、三郎も無体なことはすまい。もしも手を出すなり何なりした場合は、織田に対する大義名分が立つ。もちろん小者も数名、控えさせている。
三郎が起きたら、すぐに知らせるように言いつけた。
父は呆れた様子で首を振った。
「気付かんお前の鈍さに頭痛がするわ。分からぬか、そやつは尾張のうつけじゃ」
「は!?」
「どうやら義龍めに一杯食わされたようでの。正室に泣きつかれて蝮の援軍へ出向いたはいいが、肝心の道三は討ち取られ、織田軍も何とかかんとか尾張国へ退いた。その殿を務めたのが、あろうことか上総介信長であったというわけよ」
十郎はしかめっ面になった。
嫁のために隣国へ進軍するわ、当主自ら殿を務めるわ、常識外れもいいとこである。道三討ち死にで、援軍の甲斐もなくなった。今後、美濃国との関係は悪化していく一方だろう。うつけに付き合わされた将兵の苦労がしのばれる。
少なからず死傷者も出たはずだ。
血と泥に汚れ、ボロボロに破れた織田木瓜の旗印を思い出す。
そして獣のような男のひょろりとした痩躯も浮かんだ。傍若無人に見えた振る舞いも、己が正体を見抜かれることを見越した上での行動か。
それこそ奈江よりも、三郎の方がよほど重要人物である。
不埒者として処罰しようものなら、織田軍が伊勢長島へなだれ込んでくる。そうすれば、伊勢国人衆も一枚岩ではない。あっさりと十郎たちを贄に差し出すに違いなかった。そして長島の民は極楽へ行けると信じて、自ら死兵と化すだろう。
美しい川が再び死体で埋まる想像に、十郎はきつく目を閉じた。
「……分かりました。護衛をつけ、丁重にお帰りいただきます」
「それがよかろうな」
全く厄介な拾い物をしてくれたものよ、と父の目が語っている。
十郎とて、三郎が上総介信長だと分かっていたら…………いや、やはり助けていただろう。目の前で苦しむ民には、救いの手を差し伸べるのが仏の教えだ。本来はそうあるべきだ。
父の前を辞して、城の自室へ向かう。
すぐにでも長島の屋敷へ戻りたかったが、もう日が暮れてしまった。夜明けを待って出立するのがいい。十郎が戻るまで、あの男が大人しくしていればいいのだが。
不安を消そうと数珠を握りしめ、阿弥陀経を唱えながら眠りにつく。
「さて、急ぐか」
翌朝は父の挨拶もそこそこに、十郎は馬上の人となった。
国人衆の一人として、楠城の主として名を連ねる父のことは尊敬している。その深慮遠謀があって、十郎たちは平穏な日々を送れているのだ。近江は六角氏の侵攻はまだ記憶に新しい。
はたして、このままでいいのだろうか。
初めて抱く疑問に、十郎は戸惑いを隠せなかった。
「ん? なんだ、誰が大経を唱えているんだ?」
朗々と『大無量寿経』が流れてくるのだ。
十郎は青くなった。
出会い頭のやり取りからして、三郎は一向宗ではない。蓮如上人は「一向宗」の呼び名をもう一つの一向宗と混同するため、真宗と呼ぶように指示している。それに従ったとも考えられたが、とにかく尾張の領主の存在を知られてしまうのは拙い。
知らなかったとはいえ、一刻も早く長島から出てもらわなければ。
「奈江! 奈江、どこにいるっ」
草履を蹴飛ばし、大声で呼ばわりながら歩く。
三郎の見張り番を替わってもらったことで、彼女まで咎が向かうのは困る。嫁入り前の娘が罪人として罰せられていいわけがない。
「これは若様。お戻りでしたか」
「火急の用があって、急ぎ戻った。そんなことよりも奈江を知らないか」
「お客人と奥の間においでですが」
「客と? 誰のことだ」
「三郎様とおっしゃる方です。若様がお連れになった……」
「ああ、そうだ。確かに、三郎と名乗っていた」
あの時自分が楠氏を名乗っていれば、三郎も織田氏を名乗っただろうか。
ぐぐっと眉間にしわを寄せたまま、頭を振った。そんな詮無きことを考えている場合ではない。全裸の男が屋敷へ入っていったのは、あっという間に噂として広まってしまう。父が先日の戦について詳しく知っているのも気になった。
確かに織田弾正忠家の当主が、長島で行方知れずとなっていれば大事だ。
やはり早く帰ってもらおう。
気持ちを新たにして、十郎は奥の間へ急いだ。相変わらず大経を唱える声が聞こえてくる。この近くにいる仏僧は願証寺の住職だが、訪問について何も聞いていない。もしもそうなら、小者がそれと知らせてくるはずだ。客が三郎一人で、奥の間には奈江がいる。
住職の証恵は物の分からぬ人ではない。誠意をもって話せば、聞き入れてくれるかもしれない。
「止まった……?」
読経が終了すると同時に、ぐるぐると巡る思考も止まる。
調度品も何もないがらんとした部屋に、その男は座禅を組んでいた。その手には一向宗が大事にしている経本が開かれた状態を維持していた。数珠はなくとも、さっきまでの声が誰の者かを十郎は悟ってしまった。
「な、ぜ」
「おう、十郎。早かったな?」
「も、申し訳ございません。十郎様! お迎えもせず、このようなところまで出向いていただくとは」
「俺の美声に聞き惚れていたんだろ」
「まあ、図々しい! 十郎様の方が余程美声だわっ」
鼻息荒く反論する奈江が、ふんっとそっぽを向くさまは初めて見た。
淑やかで礼儀正しく、それでいて従順すぎない性格を密かに好んでいたのに。
「この短時間で、随分仲が良くなったんだね」
「そ、そういうわけではございません。あの、十郎様のお客人に失礼なことを申し上げてしまいました。何卒お許しくださいませ」
「いや、そこは俺の方を向いて謝るべきだぞ」
「誰があんたなんかに!」
「というわけで、友好を温めるどころか冷え込む一方なんだ」
白々しい物言いに、ますます奈江の目が吊り上がる。
三郎がわざと言っているのは明白だ。
こちらの表情がそれほどに深刻なのである。事態は一刻を争う話で、この男もうすうす気づいているはずだった。全く理解していない可能性もあるが、真性の馬鹿があのように明朗な読経を唱えられるものか。
まるで常日頃から馴染んでいるような感じだった。
「三郎信長殿。一向宗に、帰依する心積りはないか」
「えっ」
ぎょっとしたのは奈江だ。
まん丸の目で十郎と三郎を見比べている。
「であるか」
そして三郎は、不敵に笑っていた。
足に頬杖をつき、微妙に上背を傾けた姿勢が堂に入っている。笑みの種類が違うだけで、一瞬にして雰囲気が変わった。父を前にしても、こんな緊張感は味わえない。
「俺に降れと、そう言うか。長島の」
ごくりと唾を飲み込んだ。
本来、信長と対峙すべきは楠家当主たる父の方だ。しかし今、ここにいるのは十郎である。おめおめ退いてなるものか、と若き矜持が息巻いた。
わざと乱暴に座する。
顎を引いて、真正面から睨みすえた。
「楠七郎正具が一子、十郎正賢と申す」
「そうか。ならば改めて名乗ろう。俺はノブナガ。織田弾正忠家が現当主、上総介信長という。三郎も通称だから、好きなように呼んでいいぞ」
「お、尾張のうつけ!?」
慌てた様子で奈江がこちらを窺うので、十郎は静かに頷いた。
「本当だよ」
「なんだ、知っていたのか。俺も有名人になったもんだな」
口振りに反して、それほど意外そうでもない。
成程、家を背負う者は口達者でなければ務まらないようだ。結果的に騙されていたことに対する不満と反発、上総介信長という男は異質にすぎる。家を守り、民を守り、必要とあらば頭を下げ、ひたすら現状維持を望む風潮にはそぐわない。
隣国にはこんな男がいるのか。
ふと視線をやれば、ぼうっと信長を見つめている女がいた。本人は否定しているが、その顔を見れば分かる。ほんのりと頬を染め、まるで夢見心地ではないか。
無精髭が生えているのに野卑た感じはしない。
筋肉質どころか、線の細い優男だ。武術ならどんな得物でも負けはしない。
うつけの噂はよく聞く。
女好きで、放浪癖があり、浪費家でもある。奈江を見る限り、女の方から寄っていくのだろう。商人たちも金払いのいい間は愛想を絶やさないし、ふらふらと歩き回れるだけの治安が維持されている証拠だ。
目の前の男はともかく、尾張国は油断ならない相手だ。
「上総介殿、伏してお願い申し上げる。我らが一向宗に帰依するか、即刻長島の地より立ち去っていただきたい。もちろん、どちらの場合にも護衛を用意すると約束しよう」
「十郎様……」
奈江が不安そうな声を出す。
護衛につける武士は尾張まで追従することになるのだ。つまり長島の地へ戻ることは叶わない。信長の気まぐれで、斬り捨てられる可能性もある。斎藤軍の残党狩りで、織田の者として斬られる可能性の方が高いか。
十郎は行けない。護衛役の数名には死ね、と言っているも同然だ。
(さあ、信長はどう出る?)
張り詰めた空気の中、十郎はじっと待つ。
「大人しく帰るから、土産をくれ」
「は?」
「だから伊勢土産。いや、長島土産か? こないだ、近江国まで行ってきたんだが土産を買い忘れたんだよ。それで弟妹達がすげー怒って困ったの困らないの。この着物も着心地いいし、重い反物はいずれ買い付けに向かわせる。とりあえずは、うーん……そうだなあ」
「ま、待ってくれ」
「んだよ。余所者にはくれてやる品なんぞねえってか?」
「そうじゃない! なんで土産の話になっているんだよ。怒り方がおかしいだろうっ」
信長は首を傾げ、鼻をほじり始めた。
指先でくるくる丸め、ぴんっと弾く。これのどこに惚れる要素があるのか分からない。
十郎にカリスマオーラ(信長の持つチート能力)は効かなかった…!
※十郎の名を正賢に変更
【補足説明】
※独自設定(ねつ造)を多く含みます
楠家の居城は楠城(あるいは楠山城。今の四日市市楠町)。
楠木正成の子孫であり、諏訪姓から楠(楠木)姓に改名。
十郎からみて祖父は楠木城主・楠正忠(隠居)で、父は楠木正具(当代)にして北畠具教の側近。
十郎たちの住む屋敷は伊勢長島城(伊藤氏)とは別の中州に存在し、いわゆる楠家の別荘みたいなものだとご理解ください。伊藤氏とは仲が悪かった楠家が独自に用意した、東側(美濃国・尾張国)への偵察哨戒任務を行うための拠点です。伊藤氏との軋轢を避けるため、楠家所有の屋敷であることは伏せています。




