断章之一 サブロー
遠くない未来への布石、かもしれない。
伊勢長島と北勢四十八家、そして一向宗の話が出てきますが、例のごとく独自解釈を多分に含みます。断章を書くにあたって、感想欄の考察を参考にさせていただきました。いつも大助かりです。本当にありがとうございます
悠々と流れる長良川の畔に、一人の青年が立った。
手にした数珠をじゃらりと鳴らし、澄んだ声で数回唱える。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
思わず鼻と口を覆いたくなるほどの死臭だ。
岸に打ち上げられたものは言うに及ばず、川水の濁りが砂泥のそれとは大きく異なる。人も馬も一緒くたに、死肉喰らいたちの餌にされていた。あれから数日と経っていないが、見るも無残な有様だった。
金目のものは全てむしり取られ、髪の毛もごっそり抜かれている。
ただ骨と肉の連なりに鳥獣が群がり、聞くに堪えない音を立てていた。三つの流れが大地を潤す伊勢長島の地は、他国の民によって汚されてしまったのだ。正しき法に従い、心を一つにすれば間違いなど起きなかったものを――。
美しき清流は見る影もなく、当分は魚も戻ってこないだろう。
「ん?」
青年の役目は、河畔の様子を見てくることだった。
嫌悪しか沸かない仕事であるが、誰もやりたがらないので仕方なくだ。おぞましい臭いが体に染みつく前に退散したかったのに、一族でも抜きんでた視力で気付いてしまった。
「今、何か動いたか」
物見によれば、両軍は既に自領へ退いたという。
それなら運悪く生き延びた者は、国へ帰ることもできない。あるいはもうすぐ死を迎えるだけの哀れな命かもしれない。しばらく逡巡して、青年は地を蹴った。
軽々と川を飛び越え、対岸へ降り立つ。
確かその辺に、動く何かがいた。かろうじて人か馬か判別できる程度の群れに紛れ、不心得者が潜んでいるとも限らない。草の者と呼ばれる輩は、そうやって相手の不意を衝くのだ。
腰の得物に手をかけつつ、油断なく距離を詰める。
「う……」
人の声だ。生きている。
死中に生を見出す奇跡に、青年の足は浮き立った。
死にぞこないであろうともかまうものか。救いを求める魂に須らく手を差し伸べるのが、阿弥陀如来の慈愛である。いずれ尽きる命ならば余計に、浄土に導くことが青年に課せられた使命と心得る。
まあ要するに、お人好しな性格が放っておけなかっただけだ。
「おい、……おい!」
そこで、もぞもぞと動いているのは分かっている。
だが触りたくない。死体の山の下敷きになっているようなのだ。とにかく生きているのは分かったし、このまま放っておけないのも確かなことだが、助け出すにはあれらを触らなければならない。ちょうどいい道具がその辺に転がっているわけもなく、素手の救助一択だ。
青年は己が汚れるのも厭わない聖人ではなかった。
ひたすら生存者が自力で出てくるのを期待する。
「う、ううっ」
「頑張れ! 早く出てこいっ」
「うごおお……」
獣の唸り声のようなものが聞こえ、声援が止まる。
「ぐああああ!! なんっっじゃ、こりゃああっ」
「うわあ、汚いっ」
色々跳ね飛ばして、そいつが吠えた。
慌てて飛びのいて事なきを得たが、青年ほど身体能力が高くない者は汚物にまみれていただろう。その証拠に、死体から出てきた男は、とにかく酷い様相だった。自らの体に驚き、めちゃくちゃに暴れるものだから更に飛び散る。
「や、やめろ! そこに川があるから、そこで落とせよ!」
「かわ」
「あんたの後ろだっ」
「かわーっ」
盛大に水飛沫が上がった。
ぐるんと方向転換した直後に落ちていったので、もしかしたら溺れているかもしれない。だが青年はやっぱり助けたくなかった。汚くて臭いのもあるが、とても理性ある人間のそれに思えないからだ。
だが見捨てることだけはできない。
連れ帰った後は、誰かに世話を押し付けてしまおう。そう思った。
「ぶわあああ!! …………ふぬー、ふぬー……」
哀れな男だ。
どれだけ恐ろしい思いをしたのか、心が壊れてしまったらしい。獣のように暴れつつ川から上がり、おかしな呼吸を繰り返している。
「お、おい」
「ああん、誰だてめえ? そして俺は誰だ! ここはどこだ!?」
うがあっと全身で叫ぶ。
その異常な様子に、思わず数珠を握りしめた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「……はん、浄土真宗か。なら、ここは尾張じゃねえのか」
「そういうあんたは織田軍の兵士みたいだけど。そんな細い体で、よく生き残ったね」
「モヤシっていうな!!」
「言ってないよっ」
「そうか、スマン。腹がへったので、何か食わせてくれ」
騒がしい上に、図々しい男である。
生き残っただけでなく、大した怪我もしていないようだ。髪の毛が少し減っているのは、言わないでおいてやろう。これも優しさである。正しきを行えば、必ず報われるものだ。
男が近づいてくると、青年よりも頭一つ分高いことが分かった。
見下ろされて、ムッとする。
「なんだ?」
だが配下でもない男に、頭を垂れろと命令できない。
「なんでもない。とりあえず腰に何か巻いてくれ。せっかく拾った命を捨てたくなければね」
「ふむ」
納得顔で顎をさすった男が、死体の山から何かを漁っている。
信じられない精神だ。一部腐っているのも気にせず、引っ張り出したボロ布を川で洗っている。かろうじて白さを取り戻した褌は、新たな持ち主の股に収まった。
ついでに足にも布を巻いているが、男の意図がよく分からない。
多少草を敷いたとしても、草鞋ほどの役には立たないのだ。素足で歩き回る者も珍しくない時代に、わざわざ面倒なことをする。しぶしぶ徴兵に応じた農民出身の足軽かと思っていたが、本来の身分はもっと上だろうか。
それならそれで取引に使える。
大きく勢力図が変わろうとしている今、生き残りをかけて国人衆同士で意見が分かれている。本願寺が送ってきた坊官は口を揃えて、門徒以外に慈悲は無用と言い切った。真宗の門徒になるなら味方だが、そうでない者は全て仏敵である。
はたして織田の男は敵か、味方か。
ちらりと様子を窺えば、大人しく後をついてくる。元気がないように見えるのは、空腹をかかえているからだろう。それにしても、キョロキョロと落ち着きがない。
「おっ、ヨモギ」
「勝手なことをするな!」
「いいじゃねえかよ、ケチだな。若いのに」
「余計な世話だよっ」
本当におかしな男だ。
あんな苦い草を見て喜ぶ気が知れない。
青年はますます分からなくなった。男の正体が明らかになるまで、長島から出すわけにはいかない。監視を兼ねて睨みをきかせれば、ニヤニヤと笑みが返る。それどころか、あれは何だこれは何だと矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
「いい加減にしろ!!」
「なんだよ、本当にケチだな。怒ってばかりだと、ここが切れるぞ」
笑みを消し、こめかみを突く。
「……あんたは一体、何者なんだ」
「名乗らせたいなら、先に名乗るが礼儀じゃねえのか?」
「く、……十郎だ」
「サブロー。俺は三郎だ」
こちらが氏を名乗らなかったから、男も名乗らなかった。
そうと分かっていながらも、苛立ちは抑えきれない十郎であった。




