71. 嫁馬鹿、親馬鹿、身内馬鹿
前年10月に年号が変わって、弘治2年になりました。
砂糖の取引に関する話は、小話集の「偽チョコ」に出てきます
俺と帰蝶の子、奇妙丸はすくすく育っている。
転がるのが好きらしく、首が座ってくる頃には前へ進むよりも横へ進みたがった。俺がまともな名前を付けなかったばかりに、この子までおかしな性癖を持ってしまったようだ。
むちむちの手足に絡む産着が気にくわないのかもしれない。
生まれて数日で白い肌を取り戻した我が息子だが、泣きだすと全身真っ赤になる。なるほど、確かに赤ん坊だ。面白くなってワザと泣かせていたら、接触禁止を言い渡されそうになって本気で焦った。
「よし、奇妙丸! 俺のところへ前進だ!」
「あー」
ぱっと顔を上げた赤ん坊が、すぐさま匍匐前進の体勢に入った。
真剣な顔を微笑ましく見守りながら、しっかり父親として認識してもらえているのが嬉しくて頬も緩む。嫁馬鹿に親馬鹿も加わって、身内には砂糖対応の織田信長と呼ばれているらしい。
そんな高級品に例えなくても、家族は大事にするものだろう。
「砂糖といえば、幕府へ近づく前に六角氏を何とかしなきゃなあ」
「潰しますか」
本日の随伴、橋介が怖い。目が据わっている。
「珍しく物騒だな? お前、どうした」
「幼き日にいただいた飴の味が忘れられないのです。あれを再びいただけるのでしたら、守護大名の首など即座に獲ってまいります」
「お、おう。いきなり攻め込むのは止めような? 幕府と懇意にしている家と喧嘩したら、取引どころか警戒されるのがオチだ。砂糖そのものは商人たちのツテがあれば、何とかなる」
入手ルートが複雑すぎて、元値が霞むお値段だが。
そもそも砂糖の原料となる植物の栽培ができたら、こちらから商品として売り出せるのだ。量が少ないから高額になるのであって、安定した生産ラインを確保すればいい。甘いものを自由に食べられるようになれば嫁や妹たちの評価は爆上がりである。
「それと、飴を食べすぎたら死ぬぞ」
「えっ」
糖の取りすぎは様々な病を呼ぶ。
江戸時代には、白飯の食べすぎで病気になるという話があった。江戸の外へ出た途端に治った、というオマケつきだったような気がする。
そんな遠い話をしなくても、砂糖がおそろしいものだというのはよく分かった。
何よりも橋介の目が怖い。
「甲斐の武田家は『医聖』と呼ばれる素晴らしい侍医を抱えていると聞いたことがあります。織田家にも足利学校出身の侍医を抱えるべきです」
「学校?」
この時代に学校なんてあったのか。
橋介が得意げに語るところによると、下野国には学費無料で最先端の学問を修められる教育機関があるらしい。足利村にあるから足利学校と呼ばれているだけで、室町幕府が管理しているわけではなさそうだ。
「卒業と同時に僧籍へ入るのが条件だあ? また坊主かっ」
「わ、私に言われても困ります」
俺に言わせると、この時代の特権階級は仏僧だ。
明貿易はそれなりに繁盛しているとはいえ、最初に日本へ学問を持ち込んだのが中国の仏僧だったからだろう。参謀役の最有力候補は仏僧で、軍師になれるのも仏僧で、侍医になれるのも仏僧だ。
西洋文化は九州のが先だし、中国文化は仏僧が独占状態。
「その『医聖』とやらをスカウトしたいな。織田家に引き抜けないか?」
「ご命令とあらば」
飴がもらえるなら、という副音声が聞こえた。
医者がいるなら糖尿病になっても大丈夫、なんていう理屈は通らない。橋介は本当に命令次第で、城を飛び出していきそうな目をしている。若き頃の過ちが、一生モノになるなんて誰が想像できただろう。
「冗談はさておき。フリーで活動している医者がいればなー」
侍女と何事か話している帰蝶を見やる。
初産というのもあって、妊娠して出産するまでは気を揉むことばかりだった。また体調を崩すようなことがあれば、と思うだけで落ち着かない。的確な診療と処置を施せる人間、絶対一人は確保したいものだ。
「ふーむ」
「だー!」
「いてっ」
「若様? 殿を叩くのはお止めくださいね」
乳母が慌てて抱え上げるが、奇妙丸はとても不満気だ。
呼ばれたから頑張って這ってきたのに、無視されたのを怒っているのか。自己主張ができる奴は人間関係で成長できる。とてもいいことだ。
ちなみに乳母を務める彼女は、滝川一族の娘である。
楚々とした気立てのいい娘さんの正体は凄腕くのいちとか、何それ萌える。織田家の嫡男を狙って、刺客が送り込まれる可能性を考慮してのことだ。俺も日常的に狙われていたらしいから、これは当然の対策である。
ふさふさになった髪を撫で、我が子の頑張りを労う。
「よしよし、ちゃんと前進できたな。偉いぞ、奇妙丸。いてっ」
「ぶー」
すぐに手が出るのは織田の血筋だな、きっと。
膨らんだ頬が栗鼠の頬袋みたいで面白い。突いて遊んでいると、少し離れたところで見守っていた帰蝶の視線を感じた。身分のある子供は乳母に世話を任せるのが常識だ。俺がこうして赤ん坊を構っているのは、とんだ子煩悩に見えているのかもしれない。
「お濃?」
「そんなに喜んでくれるなら、もっと早く勇気を出せばよかったわ」
一瞬、言葉に詰まった。
この五年間色々あったから、というのは慰めにならない。もっと早くに熱田神社へ参拝していれば、早い段階でご利益が当たったかもしれない。平手の爺や、親父殿に孫を見せてやれたかもしれない。
大いに暴れて、再び畳へ降ろされた我が子を見やった。
静かになった場に首を傾げたものの、すぐにごろごろと転がり始めた。砂浴びをする犬か、お前は。赤ん坊なので大したことは考えていないのだろうが、能天気な様子に力が抜ける。
「こんなに元気な子が生まれたんだ。贅沢を言ったら罰が当たるぞ」
「そう、ね」
「何か気になることでもあるのか?」
「どうしてそう思うの」
「お濃がネガティブ思考に陥る時は、悪い噂か予兆がある時だろ」
帰蝶の形の良い眉が寄せられた。
「弟が……」
「若様、お部屋に戻りましょう。お昼寝の時間ですよ」
「む、あー」
「奇妙丸、また後でな」
「ふん」
今、頷いたぞ。俺の子、天才か!
思わず喝采を上げそうになったが、かろうじて堪える。橋介と乳母が空気を読んで、奇妙丸ともども席を外してくれたのだ。ここで帰蝶が拗ねると、情報が得られない。
ちなみに「丸」をつけるだけで、普通の名前に思えてくるから不思議だ。
息子でもあんなに可愛いのだから、娘はもっと可愛いだろう。是非とも二人目をと俺の本能がワキワキしているが、何とか押し込める。三年も耐えたことを思えば、約一年の禁欲生活など大したことは……ある。
「あなた」
「いや、悪い。ちゃんと聞く。お濃の弟は孫四郎と喜平次だったか?」
今にも泣きそうな顔で、こくりと頷く。
それで察してしまった。
「誰に殺され…………ああ、そんなことはいい。舅殿は今、どうしている? そっちの情報は入っていないのか」
「鷺山城にいるわ。こちらのことは、気にするなと」
「……………」
「あなたは、こうなることを知っていたのよね? だからあの時、兄上に気を付けろと忠告したのでしょう? わたくしは何をしたらいいの。あなたの妻として、どう動くのが正しいの?」
「お濃」
俺に縋りついて、小さく震える体を抱きしめた。
彼女の立場は非常に微妙だ。道三が可愛がっていた孫四郎達が殺された以上、親子関係は最悪といってもいいだろう。どういう経緯でそうなったかは詳しく調査するとして、俺のやるべきことは既に決まっている。
「美濃へ援軍を送る。舅殿は、俺の参謀として予約済みだ」
「でも」
「信行のことなら心配するな。阿呆どもが騒ぎ出すなら、好機だ。まとめて潰す。いい加減、温情がすぎると家臣連中から文句が出ているからな」
「ごめんなさい。わたくしの、せいで」
謝りながら離れようとするので、しっかり腕を回して捕まえた。
「辛いのはお濃の方だろ。安心しろ、義龍の首は獲らん。国を巻き込んだ親子喧嘩の仲裁をしにいくだけだ。義龍は俺にとって、義兄でもあるからな」
「あなたは本当、身内に甘すぎるわ」
「そんな俺に惚れたんだろ、ん?」
「馬鹿」
「うつけと呼んでくれた方が嬉しい」
「……おかしな人ね。知っていたけれど」
帰蝶が少し笑って、俺たちは何度も軽いキスをする。
もう拒絶や抵抗はない。人肌が恋しくなるのは寂しいからで、触れ合いたくなるのは恐怖を誤魔化したいから。久しぶりの二人きりを堪能する。
身内で争い、主従で命を奪い合うのが世の常だと人は云う。
そんなものはクソクラエだ。大事なものを奪われるのが怖くて、何が悪い。守りたいから戦うのだ。振り上げた刃が知らない誰かを傷つけようとも、知っている誰かが守れればいい。
歴史がどうとか考えるのは止めた。
史実の通りにするなら、俺は道三を見殺しにしなければならない。どっちが死んでも、帰蝶が泣く。せっかく待望の子供が生まれたのに、幸せを幸せと感じることができない。
だから俺は、美濃へ行く。
馬鹿な喧嘩を止めるために。
感想欄で教えていただくまで、軍師(軍配者)を多く輩出した足利学校のことを忘れていた自分こそ奇妙丸に殴られるべきだと思いました…。
曲直瀬道三はそのうち登場させたい。
追記:熱田神宮という名称は慶応年間からなので、熱田神社に訂正
次は長良川の戦いです




