69. その奇妙なるを
※ご一読ください※
定説として信忠の生母は生駒吉乃ですが、本作では濃姫の実子としました。
理由としては吉乃が側室として迎え入れられた時期が諸説あることと、信忠自身の誕生年(推測)もばらつきがあること。前夫のことも考慮すると最短でも弘治3年(1557)8月生まれとなるので、次男信雄の誕生したとされる元禄元年(1558)3月に矛盾が生じてしまいます。
また信忠が弘治3年5月生まれとした場合は実家へ戻っていた際に見初められたという説に矛盾が生じる上、夫がいる状態でお手付きがあったことになります。女好きであった信長の性格からしてありえないことではないかもしれませんが、本作には合わないので捏造設定を用いることにしました。
あくまでも小説の設定ということで、ご理解いだたきますようお願いいたします。
天文24年4月、帰蝶が産気づいた。
きちんと眠れているか、食べているかと日々の確認を兼ねた会話をしている時だった。俄かに変調をきたし、苦しみだしたのだ。由宇がすぐさま産婆を呼びに行き、残された形の俺はおろおろとするしかない。
「お、お濃、大丈夫か? 苦しいのか? さすったら治るか?」
「……いい」
首を振るのも辛そうだ。
噴き出した脂汗を、おっかなびっくり拭き取る。今はどう触れたらいいのか分からず、苦しむ嫁を前にしてウロウロと彷徨い始めた。
外はもうすぐ日暮れ時だ。
逢魔が時というフレーズが嫌な予感を呼びそうになるが、頭を振って追い出した。部屋の中と外をさんざん往復して、戻ってきた由宇には埃を立てるなと怒られる。何故かおちよまで現れて、盛大な一喝をもらった。
「織田を背負う方が、何と情けない!!」
「だ、だって」
「まあ、だらしのない! その震える手で御方様を移動させるおつもりですか? それとも誰かに任せますか」
ハッとする。と同時に震えが止まった。
「俺が連れていく。どこへ行けばいい」
「こちらへ」
帰蝶は浅い息を繰り返している。
このまま死んでしまうんじゃないかと怖くなった。お濃、お濃、と呪文のように繰り返す。ぱんぱんに膨らんだ腹が割れて、子供が飛び出してくるんじゃないかと思った。そんなホラーはありえないと分かっている。
この時代の医学は遅れていて、俺も専門知識を持たない。
詳しくないのは医学に限ったことではないが、子供が無事生まれてくるよりも帰蝶の安否が気になって仕方なかった。もちろん、そんなことは絶対に言えない。帰蝶は今、こうして頑張っているのだ。俺が信じてやらずにどうする。
それから、どれくらい経っただろうか。
歩き回る気力もなくなって、俺はぼんやりと空を見上げていた。
「夜が明けたな……」
「恒興、知らせは?」
「まだです」
俺が私室として使っている部屋に、元舎弟の三人組が揃っている。
一益が知らせたらしい。恒興も落ち着かないのか、自ら伝令役を買って出てくれた。戻ってくる度に長秀たちから問われるのだが、答えは変わらない。
「いくらなんでも、長すぎないか?」
「そういうこともあると聞いております」
「出産するときには出血もするんだぞ。輸血が必要になったらどうするんだ!? っていうか、血液型判断ってどうやるんだ。同じ血液型なら、全身の血を分けてやるのに!」
「落ち着いてください、殿。血を抜いたら、死んでしまいますよっ」
恒興の言葉に、俺は青くなった。
「嫌だ! お濃が死んだら、俺も死ぬう!!」
「信長様が死んだら、俺も死にます!」
「殉死はやめれ」
「ええっ」
よし。忠犬トシ公のおかげで、冷静になれた。
今まで連座や殉死について考えたこともなかったが、あれはよくない風習だ。一人が切腹して果てるだけでも、見届け人やら介添え役やら人員が必要になるのだ。死ぬ人間が増えれば、まとめて片付けられるわけではない。
死体の始末に、空いた穴を埋める作業が残っている。
つまり面倒事が増える。
「って、誰が死ぬ話をしとるか! 生まれる話をしてんだろっ」
「いやあ、信長様が勝手に喋っとっただけで……」
「猿!!」
「うひゃいっ」
「てめえの母ちゃんと、姉ちゃん連れてこい!」
「なりませぬ。いくら木下家の者といえど、身分が違いすぎます」
「うるせえ、恒興。出産の補助をさせるだけだ。何も問題はねえっ」
「まっこと申し訳ねえですが、信長様。二人とも屋敷に引っ越しとらんのですわ。じゃから、今から呼びに行っても間に合わんと――」
最後まで言わせず、ぎろりと睨んだ。
「今すぐ、連れて、きやがれ」
「は、はひいぃっ」
「某の馬を出そう。殿の駿馬ほどではないが、早く駆ける」
「おお、丹羽様。助かるわ!」
ばたばたと駆けていく背を見ることなく、俺は勢いよく腰を下ろした。
高速で貧乏ゆすりをして、また立ち上がる。こんな風に落ち着きがないから、出産に臨む女たちから追い出されたのだ。分かっている。分かっているのだが、落ち着かない。
史実ではどうなっていた?
信長には嫡男以下、子供が何人もいたことは覚えている。だが生母が誰なのかを知らない。前世の感覚としては、十代で子を産むよりは、二十代になってからの方が安全だと思う。帰蝶が俺の子を産んでくれるなら、それが嫡男であるなら最高で最善だ。
濃姫と呼ばれた存在について、俺は詳しく知らない。
知識不足は彼女に限ったことではないのだが、今回ばかりは安心できる要素の一つとして切実に史実の知識がほしかった。絶対大丈夫だという保証がほしかった。
「殿」
一益が庭に現れる。
最近は悪い報せばかり持ってきただけに、びくりと震えた。まさかと、もしかしてが同時に沸く。
「お早く」
「わ、分かった!」
「俺も……っ」
「馬鹿犬! 気を利かせることも分からねえのか」
「殴るこたぁねえだろっ」
「はっ。てめえは殴って止めた方が早えんだよ」
こんな時でも喧嘩を始める二人を置いて、俺は足早に現場へ急いだ。
血の穢れが何だというのか。あんなに苦しんでいる彼女を冷たい土間になど置くわけにいかず、出来たばかりの離れへ運んだのだ。本来なら、男が出産現場に踏み込むこと自体ナンセンスだという。
少し遅れて、恒興と一益がついてくる。
歩きなれた回廊が迷路のようにぐねぐねとしていて、たどり着けない長い道に思えてきた。汗で冷えた彼女の肌、浅い呼吸、大きく揺れる腹が次々に思い出されてたまらなくなる。
「お濃!!」
「おぎゃああっ、おぎゃあっ」
俺の叫びに、赤ん坊の泣き声が応える。
「え? は?」
足が止まりかけたのは一瞬で、そこからダッシュした。
むせかえる血の臭いも、サバトに集まった魔女たちのような面々も気にならない。白い掛け布に近づけば、青ざめた顔の帰蝶がこちらを見た。驚いて、ゆるゆると目を見開いていく。
「あ、なた」
「生きているな」
「はい」
「子は?」
帰蝶の顔が動く。
手を上げて示そうとしたのだろうが、そうする体力も残っていないようだ。少し離れたところで作業していた女が顔を上げた。最近傍仕えになった侍女の一人だ。
腕の中に、何か抱えている。
「奇妙な生き物だな」
「まあ、殿様! 御子に向かって、いくらなんでも失礼でございますよ」
全体的に赤くて、うごうごしている。
とりあえず体のパーツは全て揃っているが、とても人間には思えなかった。くしゃくしゃの顔で、さっきから盛大に泣きわめいている。
「おい」
「びやああああっ」
「泣き止め。やかましい」
「ああああんっ」
「聞く耳持たんぞ、こいつ」
「赤子は泣くものでございます。さあ、吉法師様。不浄の場にいつまでも残っていては、片付けができませぬ。お部屋へお戻りくださいませ」
さあさあ、とおちよに追い出される。
またかと思わなくもなかったが、帰蝶と子供の無事は確認できた。
今回は素直に従う。外の空気は澄んでいて、空がとても高く見えた。ぼんやりと見上げているだけで、じわじわとこみ上げるものがある。
「生まれた…………俺の、子供が」
帰蝶は元気そうだった。
子供は力いっぱい泣きわめいていた。あんなに頑張って自己主張しなくても、皆が誕生を寿いでくれる。結婚五年目にして、待望の赤ん坊だ。俺だって、すごく嬉しい。
そうだ、体が震えているのは嬉しいからだ。
「やった! やったぞおおお!!」
大きく叫びながら、渾身のガッツポーズをキメる。
駆け寄ってくる舎弟どもに目をやった。
「生まれた」
「おおっ、マジですか!」
「男の子っすか。女の子っすか!?」
「ん? そういや、確認しなかったな。お濃と子供が生きているかどうか確認するだけで追い出されたし」
「そ、そりゃないっすよ」
部屋の中が薄暗かったのもあるだろう。
帰蝶しか見えていなくて、他の女たちがどんな格好をしていたかも覚えていない。赤ん坊を抱えていた侍女の名前も、頭の中からすっぽ抜けたままだ。
成政と利家は、肩透かしを食らったような顔になった。
「見れば分かるでしょうに」
「信長様も、案外抜けてるっすね」
「いや、なんていうか。こう……真っ赤に茹で上がった猿みたいな感じだった」
「えー…………猿ってえと、秀吉みたいな?」
「なんでだよ」
猿イコール秀吉の図式が完璧すぎる。
赤ん坊が猿っぽいのが悪いのか、成長しても猿みたいな顔の秀吉が悪いのか。そんなどうでもいいことを考えているうちに、丸一日が経過した。
帰蝶はようやく寝所へ移動し、赤ん坊も一緒だ。
あれだけ大声で泣きまくっていたのが嘘のように、くうくう寝ている。安心しきっているせいか、第一印象よりは猿っぽく見えない。猿の祖も人間と同じだというのが、妙に納得できた。
「男だな」
「ええ。奇妙丸と名付けました」
「……え?」
「あなたが、そう言っていたと聞いたのだけれど」
言っていない。
そして名前を考える、という基本的な思考すら抜け落ちていたことに気付いた。
俺のうっかりさんな言動で、可哀想な名前を付けられてしまった我が息子は知らぬ顔だ。弟妹達からはさんざん罵られるだろう。慌てて「吉法師」に変えようと提案したのだが、もう道三にも出産報告の文を送ってしまったらしい。
待望の嫡男誕生で、あっという間に赤ん坊の名前が周知される。
祝いの言葉と共に飛び出す「奇妙」の二文字。
元服の儀はなるべく早く行ってやろう、と心に決めるのだった。
初めて尽くしで、肝心なことを見事に忘れていた件




