59. 情報操作は大事
とん、つー、とんとんつー。
俺愛用肘置きの上を、人差し指がせわしく動く。
たまに頬杖をついている手の形も変わるのだが、これらを理解できる者はごくわずかしかいない。当主たる俺に注目するのは当然のことだ。今は評議中であり、家臣団が様々な意見を出し合っては議論を展開する。
「殿」
「ん~」
「殿っ、さっきから何をなさっておいでです。退屈している場合ではございませぬぞ」
俺専用暗号発信なう。
参考にしたのは有名なモールス信号だ。あれはアルファベットを基盤として作られているので、ひらがな五十音で対応表を作った。ややこしいレベルを超えてしまったので、説明は割愛する。
一通り打ち終わって、握り拳を作った。
長秀が目を瞑り、成政が侍従を呼ぶ。
本来は与力も参加できない評議の場だが、どこにでも例外は存在する。足音を潜ませて出て行った者にまで、家臣たちは留意しない。
それらを見届けて、俺は皮肉っぽく口を歪めた。
「お前こそ、よくもまあ堂々と顔を出せもんだな?」
「……っ」
「ハンニャ、水野家の使者にはこう伝えろ。全員丸坊主にして解放すべし」
「甘すぎる!」
「黙れよ、秀貞。誰がお前に発言を許した」
「わしは筆頭家老にござる。亡き信秀様より命じられたのをお忘れではありますまい」
「その信秀サマが亡くなって以降、お前は何をしていた? 弟がはしゃいでいるのを止めるどころか、大っぴらにされるのを隠すだけで精一杯だったろう」
「盗み聞きが得意な臣下に恵まれて、何よりですな」
苦々しげに吐き出す秀貞はもう隠すつもりはないようだ。
出陣直前でドタキャンならぬ、ボイコットを起こした以上は家臣団にも反信長派として見られてしまう。それが分かっていながら、こうして顔を出したのは弟のためか。
俺も信行には強く出られない。
そして美作守は少々過激な信行信奉者だ。土田御前と結んで、よからぬ計画を練っていることも判明している。信行寄りの家臣を糾合し、挙兵せんとする構えだ。
時間稼ぎの役を頼まれたのだろう。
親父殿の時と同じように。
喪に服す一年の間は大人しくしていた。それだけ親父殿には忠誠があった。俺にとっても重要な一年だったと思う。たっぷりと嫁を堪能できたからな。
「あー、コホン」
おっと顔がニヤけていたようだ。
煩悩は夜まで封印しておかねばなるまい。なんか最近、またしても嫁の挙動がおかしいのは気のせいだよね。変なことを考えていないよね、誰か違うと言ってくれ。
「……殿」
今度は信盛か。分かったよ、言えばいいんだろ。
俺は居住まいを正して、悪い笑みを浮かべる。矛盾? 知ったことか。
「捕虜を皆殺しにすれば、水野氏ともども残虐非道な血も涙もない輩よと今川方が大いに広めるだろう。だが生きて帰すことで、捕虜たちが自ら噂を広めてくれる。俺たちがどれだけ強いのか、どれだけ勇猛果敢であったか、剃られた頭が元通りになるまで恐ろしくて眠れぬだろうな」
「な、なんと……」
「確かに生きて戻った者の証言なら、信じる者も多いでしょう」
「今川方が流すであろう悪評まで利用するとは」
「ううむ」
よし、いい感じだ。
それにしても信元には悪いことをした。俺たちがさっさと撤収したので、捕虜のことまで打ち合わせる暇がなかったのだ。こちらの指示通りにすると明記してあるので、殺される心配はない。
まあ、うちの兵士も少なからず殺されたんだが。
恨みと憎しみの連鎖は怖い。
うつけ関連の噂もいい内容より、悪い内容の方がよく広まっている。人の不幸は蜜の味というように、マイナスイメージの方が伝播率は高いのだ。村木砦をめぐる戦は終わった。無抵抗の人間を殺すのは、嫌いだ。
そんなのは気に食わないからといって、撫で斬りにする暴君と同じだ。
「あと灌漑事業に手を出すのはかまわんが、やりすぎるなよ? 今が大事な時期だ。石高を上げたかったら、土地開発は時期を選べ。農耕関連のことに関しては、信盛が詳しい。奴に聞け」
「うわ、また丸投げした」
「聞こえているぞ、内蔵助。お前は街道の整備を命じたはずだが、人員の確保はできたのか? きちんとした計画書を作らないと、うちの勘定奉行は許可出さないぞ」
「や……それは、その何度出しても突っ返され――」
「あのような杜撰な計画、村の子供でも書けます」
「殿が自ら手塩をかけたガキどもと一緒にすんな!」
成政が真っ赤になって怒鳴るのを、利家がプスクスと笑っている。
この辺りで勝介か長秀の一喝が入るのだが、二人とも考え事をしていた。秀貞は不満が顔に出ているし、その様子を伺う陪臣たちがヒソヒソ話を始めている。
「本日はこれまで! ああ、俺はしばらく城を留守にする。勝介! おい、勝介っ」
「聞こえております」
「考え事の邪魔をして悪かったな。嫌味じゃないっつの。また留守居頼んでいいか?」
「お任せくだされ」
「うむ。犬、ついてこい」
「わんっ」
成政が「やりやがった」と頭を抱えた。
喜々として駆け寄ってきた馬鹿犬の耳を掴み、ずるずると引きずっていく。
ぎゃいんぎゃいんと喧しくて仕方ないが、何年経っても治らないどころか悪化している。困ったものだ。それでもお市のところへ向かっているのだと気付いた頃には、さすがに大人しくなった。
あれやこれやと頻繁に声をかけてこなくなっただけ成長したのか。
成政との喧嘩は最早、ただの日課だ。勝介すら悪い意味で慣れてしまったのかもしれない。長秀はまあ、結果を楽しみにしておきたいところだ。
「あ、お兄様! ……遅かったんですねー」
俺の登場でぱっと顔を輝かせたものの、すぐに拗ねてみせる妹可愛い。
振り分け髪も随分長くなって、もう子供らしさはその部分しか残っていない。早くも傾国の美女の予兆を見せていて、お市を使えば天下統一チョロイんじゃねと中の俺が囁く。いや、そんなことは絶対しない。俺が目指すのは天下統一ではなく、天寿を全うすることだ。
最近忙しすぎて、お市だけでなく三十郎たちにもほとんど会えていない。
見るたびに成長していく姿は、愛おしいの一言に尽きる。
家臣たちの目はなく、口煩い奴らもいない。俺の顔がでれんと緩む。
「悪い、少し評議が長引いたんだ。乳母はいるか」
「もう用意して待っていますわ」
「そうか」
「ねえ、お兄様。今回もわたし、お留守番なの? 義姉様はご一緒したのに、わたしはダメな理由が分からない! ちゃんとするから、言うこと聞くから連れていって」
ねえねえ、と袖を引っ張って強請る妹が超可愛い。
「お市様……、その件は既に解決済みでしょう。兄上を困らせてどうするのですか」
「源五郎には言ってないもん」
「はあ」
「相変わらずだな、二人は」
「いえ、お市様がこのように甘えられるのは兄上の前だけです。通常は織田の姫として、立派に振る舞っておいでですよ。兄上の評判を落としたくないから、と」
「源五郎!」
俺の妹が最高に可愛い。
萌えすぎて悶えそうになっていると、氷の視線が突き刺さった。乳母殿の登場である。すっかり隠居生活を満喫している俺の乳母と違い、こちらは裳着を終えてもお市の傍近くで仕えている。
そろそろ傍仕えも揃えないとな。
年は近い方がいいので、今は源五郎と乳母に任せっきりだ。
それなりに身分がある年頃の娘は、城へ行儀奉仕するルールがあるらしい。当主のお手付きになれば、家ごと出世も望めるというわけだ。やらないぞ、そういう意味ではやらないぞ。
「お市様、可愛いっすね」
「やらんぞ」
「うえっ、そういう意味じゃないっすよ!」
利家が大げさに仰け反る。あやしい。
「じゃあどういう意味だ。俺の妹が本当は可愛くないとか思ってんのか。ええ? 本心では大したことないなー、おっぱいでかい方が好みだなーとか思ってんだろう。この助兵衛侍!!」
「思ってるけど、思ってないっすよ!」
「どっちだこの野郎!!」
「ご予定を変更なさるのでしたら、私はそれでも構いませんが」
ひんやりとした声が耳を撫でる。
帰蝶の蔑んだ視線と声はご褒美になるが、乳母が同じことをしても全く嬉しくない。源五郎に犬を預け、お市と一緒に別部屋へ移動する。そこには何年振りかの華やかな光景が広がっていた。
「おいこら、地味でいいって言ったじゃねえか!」
「十分地味でございます。化粧映えする顔をお恨みなさいませ」
「市の兄上だから当然よねー」
褒められているのに、嬉しくないのは何故だろうな。
今回は二度目ということで、ほとんど手間取らずに着替えることができた。基本は男物と同じなので、細かい手順を覚えれば何とかなる。
「手直しは誰かに頼むこと。ゆめゆめお忘れなきように」
「大丈夫だ。不器用さは自覚している」
「お兄様は欠点があるくらいでちょうどいいの! そうじゃなくても義姉様は不安がっていらっしゃるのだから、その辺はちゃんとしてよねっ」
「ううっ、お市が俺に説教できるほど成長している。時間の流れって残酷だ……」
「泣かないで、お兄様。お市はいつまでも、お兄様の可愛い妹よ?」
「おいちー!!」
ちなみに「泣かないで」は涙で化粧が落ちるからだ。
ぎゅうぎゅうと抱きしめていたら、利家に女同士であやしいとか言われた。
それは否定しない上に、血のつながった兄妹なんだから全然問題ないのはおいておいても、いつから見ていたか聞いてもいいかな。いいよな、今回は仕込みがあるからノープロブレム!
携帯ハリセンの爽快な音が響き渡った。
「いってええぇっ」
ぱっと見た感じでは、手代の持つ台帳なのがポイントだ。
女の格好で振り回しても違和感がなく、叩いた方もスカッとする。帰蝶は大変気に入っていて、これでスパスパ叩きまくっているらしい。無礼打ち(殺人)でなく、無礼打ち(打撃)である。
密かに「濃姫に叩かれ隊」が発足しているのを俺はまだ知らない。
ノブナガ発明品?「もうるす改」...ひらがな対応の発信型暗号。
肘置きを指先で叩く「トン」と、指を滑らせる「ツー」を組み合わせたもの。更に頬杖をついている方の手で五十音の行を示す。後方にいると見えないので、小姓たちには不評。




