56. 村木砦の戦い(前)
その日は酷い嵐だった。
周囲を敵に囲まれている緒川城を救うには、海路が早い。
今まで何一つ動きを見せなかったおかげで、今川軍はすっかり織田・水野両軍を舐めきっている。降伏するのも時間の問題だと、悠長に構えているはずだ。
一旦行動を起こしたなら、迅速に動かなければならない。
それなのに大金を握らせても、船頭は頑として首を縦に振らなかった。
「ダメだ、船は出せねえ。こんな風じゃ無理に決まってる」
「そこをなんとか」
俺だって本当は、こんな嵐の中を突撃したくないのだ。
だが、これだけの軍隊が一泊するだけでいくらかかるか。陸路は確実に敵方の斥候に見つかる。時間の節約と命を天秤にかけたら、やっぱり命が――。
弱気に囚われそうになった時だった。
大きな手がぽんっ、と肩に乗せられる。
「私に任せよ」
「兄貴……」
「聞け、船頭!」
「何度言われたって、出せねえもんは出せねえ」
「黙れ!! かの源義経は平家を攻める時に、もっとひどい荒波にも恐れず船を出して勝利を収めたという。見ろ、追い風である! 天命は我にあり、だ。つべこべ言わず、さっさと船を出せ!!」
「へ、へいっ」
船頭たちは転がるように船へ駆けていった。
たちまち出港の準備が整えられていく。
「意外に博識なんだな、兄貴」
「ふははっ、そうだろうそうだろう。……いや、普通に常識だぞ。敦盛を好む貴様が知らん方が意外だ」
かき集められるだけの兵力を動員したものの、ようやく千に届くかどうかだ。俺が乗り込むのを見て、側近たちが続いた。全員が乗り込むまで時間はかかったものの、船の群れは荒波に漕ぎ出した。
風雨で見通しがきかない中、海路を強行するとは思わないだろう。
なにせ「腑抜けのうつけ」だからな、俺は。
それと船酔いで吐きまくっていたのは俺だけじゃないから恥ずかしくない。めちゃくちゃ揺れるせいで、船内は汚物だらけになってしまった。いや、船頭には悪いことをしたと思っている。
戦が終わったら、ちゃんと弁償する。褒章も付ける。
「そのためにも、ぜったいに……かつ! うぐえ」
「今、水野殿のところへ使いをやっております。しばしお休みください」
「あー、地面がぐらぐらする。地震だ」
「違います。殿が揺れておられるのです」
「あー」
濁点つきの「あー」である。
とっくに胃の中は空で、海水まみれのベタベタだ。信元と会うには身綺麗にしておかなければならない。さすがにうつけのまま登場しても、戦意を削ぐだけだ。
「一益、火薬は死守したな?」
「抜かりなく」
「鉄砲は優先的に干しておけよ。今回の戦の要だ。歪みがあるかどうか、一通りチェックするのも忘れるな。暴発したら、味方に被害が出る」
「はっ」
思いつく限りの指示を出しつつ、ふらふらと立ち上がった。
「と、殿? どちらへ……」
「見回ってくる」
「はあ!? お待ちください、少しでもお休みに――」
「ふん!!」
どこぞの誰かさんによる鳩尾の一撃。
もう吐くものは何もなかったので、ちょっとだけ唾が飛んだ。ついでに意識も飛んだ。俺を殴った犯人は、まさしくそれが狙いだった。恒興と橋介の悲鳴が聞こえる。
やかましいわ、馬鹿どもが。
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水野下野守信元には忠分他、何人もの男兄弟がいる。
幼い頃から織田信秀に憧れていた信元は、代が変わっても織田家に味方するつもりでいた。今川の脅威はますます勢いを増す一方だが、兄弟が力を合わせて守り抜く。もちろん織田からの援軍も期待していた。
信秀の代には固い協力体制にあった。
しかし状況は刻一刻と不穏な暗雲が垂れ込めていく。
「兄者、どうするのだ……」
「どうもこうもあるか」
もう何度目か分からない降伏を求める書状をくしゃりと丸め、投げ捨てる。
重原城が落ちた後に怖気づいたのか、寺本城を守る花井氏が今川方へ寝返ってしまったのだ。これで信長がいる那古野城と直接繋ぐ道が断たれてしまった。
信元は事前に救援を請う文を送ったが、色よい返事はもらえていない。
「もう今川に下るしか――」
「馬鹿を申すな!! あのいやしい義元めに頭を垂れろというのか。貴様、我が妹が受けた仕打ちを忘れてはおるまいなっ」
「忘れておらぬ。忘れておらぬが……、尾張のうつけを信用するのもなあ」
ぼそりと足したのは、信元の心にもある不安だ。
「時を待て、と上総介殿はいわれた。必ず攻勢に転じる機はある、と」
「砦を作っている最中が好機といわず、いつが好機というのだ?!」
「ええい、わしに聞くな! とにかく今は待つしかない。……待つしか、ないのだ」
しょんぼりと項垂れる弟を慰める余裕など、信元にはない。
尾張の状況は、想像している以上に悪かった。
うつけの噂がどこまで本当か分からないが、本家筋にあたる守護代信友や実弟までもが信長に反旗を翻しているという。確かにそれでは援軍を出せないだろう。かといって、今のままでは滅びる以外の道はない。
今川に降伏しないということは、そういうことだ。
信元が信長の指示に従ったのは、信長を信じていたからではない。他に選択肢がなかっただけだ。胃がきりきりと痛む日々に耐えかねていた頃、ようやく吉報が届いた。
「申し上げます!! 今川が、軍を引きました」
「おお!」
「撤退したかっ」
「いえ、砦の守備兵が残っております。ですが、大半は駿河へ戻ったそうです」
「そうか。よし、……よし! 上総介殿へ文を送る。この報せを待ち望んでおったのは我らだけではないからな」
喜んでいるのは信元だけで、兄弟たちは微妙な顔だ。
しかし「毒を食らわば皿まで」という。水野氏の命運は信長に賭ける、その一念で心を込めた書状をしたためた。これを読めば、きっと信長は喜ぶだろうと信じて――。
翌日は懸念が晴れたせいか、すっきり目覚めた。
相変わらず暗い顔の兄弟たちに、何か声をかけてやろうと口を開いたときである。
「も、申し上げます!!」
「今度はどうした!?」
「まさか、今川が」
「違います。織田が、織田の援軍が現れましたっ」
「なんじゃと!」
村木岬に砦建築が始まってから、物見は昼夜交代で張り込んでいる。
信長の読みが外れて今川軍が攻めてきた場合、城を枕に討ち死にする覚悟だった。みすみす討たれるは武士の名折れ、何人でも道連れにしてやろうとも考えていた。
「ど、どこから現れたのだ。報告はどうしたっ」
「海を渡ってきたらしく……その、結構ひどい有様で」
伝令が言葉を濁す。
それもそのはずで、海は強風による荒波がひどかった。小さな舟なら、あっという間に木っ端みじんに砕けてしまう。そんな状態の海を強行突破してきたというのか。
海を背にして立つ城の、まさしく背後をついて上陸したのだ。
「噂通りのうつけ者ぞ。普通は包囲に穴をあけて、我らを救わんとするものであろうに」
「いかさま。せっかくの援軍がそれでは、頼りになりますまい」
「兄者には悪いが、期待外れだったな。……兄者?」
「早すぎる。わしからの文が届く前に、那古野城を出たとしか思えん」
「あ」
「た、確かに」
信元はぶるりと震えた。
今川の大軍を見ても感じなかった戦慄が体を震わせる。それは信秀を初めて見た時の衝撃にも似ていた。東西の雄と何とか折り合いをつけようと腐心した父と違い、信元は積極的に織田の味方をするようになった。
そんな懐かしい思いが去来する。
「織田、信長……か」
兄弟の誰かが呟いた。
曇天模様の空に一筋の光が差し込む。徐々に晴れ間が見えてくる様子は、まさに水野氏の未来を象徴しているように思えてならなかった。
船頭との問答は資料で見つけたものですが、歴史に疎い主人公の代わりを信広に務めてもらいました。殴って気絶させたのも信広です。
目覚め一発の兄弟喧嘩待ったなし。
後半は状況説明の補足として、水野氏サイドの視点を追加。
信元さんは大いに誤解していますが、主人公は美濃から援軍が来たので頃合だと思って出陣しただけです。砦から兵士が減っているのは滝川一族らの情報収集と、信元さんからの報告書でだいたい把握していました。




