55. ある日、森の中
栗鼠娘が木の上で泣いていた。
前回同様に俺は馬を連れて、彼女は手荷物を抱えている。政秀寺からの帰路というところまで同じだが、馬上の俺が見上げるくらい高い位置にいた。
「なにやっているんだ、お前」
「ふええぇ、下りられないんですよお」
見れば分かる。
枝にしがみついて震える彼女は、かなり必死である。
呆れて物が言えないとは、このことか。みいみいと鳴く小さい生き物の声に誘われてみれば、立派に人間の形をしていたというオチだ。巣からはぐれた獣の子供なら飼ってみたいと思っていたが、人の子は例外。ましてや嫁入り前の娘を連れ帰ったら、帰蝶が何を言うか分からない。
嫉妬してくれるなら、まだマシだ。
子を産ませるための側室か妾をとることにした、という間違った解釈を受け入れてしまいそうで怖い。農民とはフランクに付き合えるのに、豪族たちはたちまち平伏する勢いなのも困りものだ。二度も送っていけば、いらぬ気を回されてしまう気がする。
俺は帰蝶一筋なのだ。
他の女は目に入らないし、そういう意味で興味も引かれない。
早く世継ぎをという声も強まる一方で、正直うんざりしているのもあった。本能寺で信長と運命を共にした嫡男信忠は、20代だったはずだ。逆算すると、信長が20代後半になってできた子供ということになる。
「ひどい。助けてくれないんですか、ひとでなしー」
「なんとでも言え」
馬を歩かせ始めた途端に、娘が騒ぎだした。
「ここは行商も通る街道だ。そのうち誰かが通りかかるだろ」
「日が暮れるまで誰も来なかったら、どうするんですか。責任とってくれるんですか」
「名も知らない奴の責任はとれんな」
「むーっ、吉乃です! 生駒家宗の娘です」
ぴた、と馬の足が止まった。
生駒氏といえば、叔父の一人が抱えている武器商人だったはずだ。
馬借から財を成して、小折城と呼ばれる大きな屋敷を建てたという。馬と鉄砲を融通してもらうため、交渉相手として候補に挙がっていたので覚えている。
「おい、嘘を吐くな。ここから随分離れているじゃねえか」
「嫁いできたんだから当たり前でしょう」
「夫の名前は」
「え? 土田弥平次だけど……あ、あの人に何かするつもりなら、承知しないわよっ。わたし、これでも強いんだから」
「木に登るくらいにはな」
「むううっ」
人妻なら問題ないか。
そういうのを好む輩もいるそうだが、俺はあくまでも純愛主義である。我ながら気障っぽくて寒気がしてきた。ここでこうして押し問答していても、二人とも帰る時間が遅くなるだけだ。
結局は助けてやったが、えらく手間取った。
ぎゃあぎゃあ喚いて煩いのなんの、最終的にキレた俺が捕まっている枝ごと切り落とした。栗鼠娘は枝にしがみついたまま落下し、また人でなしだ何だと罵る。それだけ元気があれば何も問題はないだろう。
すっかり日が暮れてしまったので、馬を急がせる。
「ねえねえ」
「…………」
「ねえったら」
「何だ」
「あれ! あれ、なんだったの?」
「アレじゃわからん」
「だって、わたしにも分からないんだもの。あの高さから落ちたのに、全然痛くなかった。普通に考えたらおかしいじゃない。下に何かあったのは分かるんだけど、ただの布みたいだったし」
「布だ」
「うそ! 騙そうったって、そうはいかないんだから。あっ、でも機密というやつなのかしら。旦那様もね、女には話せない内容もあるんだって言っていたわ」
どこか帰蝶に似ている思考回路に、ふっと気が緩む。
昼寝用のハンモックだと教えたところで、彼女には理解できない。小舟のようにフラフラと不安定な寝床は、元舎弟たちにも不評だった。獣の襲撃を避けるには、それこそ木の上で寝た方がいいそうだ。
ちょっとしたことで、俺は認識の違いを思い知らされる。
前世の記憶があることを告白した相手は、死んだ。帰蝶や側近の誰かに話して、また大事なものを喪うのは御免だった。正直に言おう、怖い。
沢彦は那古野城から遠い小木村に封じた。
土田御前は末森城から出てこない。
潜在的な敵よりも、命じられた動く暗殺者よりも、彼らの方が怖い。土田御前は実母であり、先代の妻でもある。急死すれば、必ず俺が疑われる。沢彦もまた民の信頼厚く、仏僧としての地位も高い。何よりも、明確な証拠がない。
「ね、ねえ、どうかしたの? 顔、怖いんだけど」
「黙っていろ」
「……そうやって強引に押し付けようとするから、反発されるんだわ」
「お前に何が分かる!?」
「ひっ」
一般論だというのは気付いていた。
図星をさされて怒鳴るなど、情けないにも程がある。
首を竦めた吉乃が「ごめんなさいごめんなさい」と小さく繰り返していた。気が強そうな彼女もまた、男に威圧的な態度をとられたことがあるのか。活発だったり、萎縮してみせたり、あるいは堂々と意見を言ってみる。
つくづく女という生き物はよく分からない。
無性に、帰蝶に会いたかった。
嫁ぎ先である土田家に吉乃を送り届け、弥平次とやらを呼び出させた。なんと鉄砲隊の一員だったのだ。ここで俺の素性がバレて、吉乃は卒倒した。
今川軍との戦いが近づいている。
吉乃に話せない機密とは、そのことだろう。戦働きを期待すると告げて、俺は土田家を後にした。顔を真っ赤に火照らせて、ぶんぶん頷いていた弥平次の姿が浮かぶ。
いい夫婦じゃないか。
転生するなら本当は、ああいう普通の家庭に生まれたかった。
農繁期が終わり、税務処理に追われる貞勝たちを横目に俺は鍛錬三昧だ。
今川軍との戦が始まれば、初陣から数えて4回目の出陣となる。野山での狩りを含めて、まともに戦ったことは一度もない。うっかり前に出て負傷すれば、それだけで味方の士気が下がってしまうからだ。
もどかしくとも、足手まといにはなりたくない。
俺には頼もしい奴らが何人もいる。不甲斐なさに嘆くよりも、味方の勝利を信じる。俺の判断一つで、誰かが死ぬのだ。色々と教えてくれた沢彦には関わりたくない。細かく助言してくれた平手の爺はもういない。
やるしかない、俺が。
まず信盛の提案で、偽の噂を流しておいた。
『信長は清州へ全軍でもって攻め込む手筈である』
手痛い反撃を受けている清州勢は、これを本気にするだろう。
兵役志願者が続々と集まってきたおかげで、俺が動かせる兵力はほぼ常備兵である。勝介以下、家老と側近が手分けして日々訓練を行っていた。武田信玄が掲げた「風林火山」の極意は俺もよく知っているのだ。
坂井大膳は、機動力の高い信長軍を警戒するに違いない。
いつ襲って来るかと、毎日怯えて暮らせばいい。
年が明けて天文23年1月20日――。
「殿! 美濃より援軍が参られました。率いておられるのは安藤日向守様でございます」
「いいか、丁重にお迎えしろ。舅殿の代理だ。くれぐれも失礼のないようにな」
「はっ」
「一益、日向守の好きそうな品を用意してこい。手土産持参で挨拶に行くぞ」
「御意」
美濃勢の登場で、城内は一段と慌ただしくなる。
安藤守就の名前は俺も知っている。美濃三人衆の一人だ。うちの御家来衆に負けず劣らず、いかにも手強そうな猛将だった。一応取り繕ってはいるが、俺を「噂通りのうつけ」と侮っている。
舅殿め、面白がって色々吹き込んだな。守備隊に千人も寄越すとは気前良すぎだ。
隙あらば、帰蝶ごと尾張をもらうぞという警告が透けて見える。
実際、その保険込みで援軍を依頼した。
信盛には真意を伝えていないが、長秀辺りは気付いていそうだ。家臣たちはこぞって、美濃衆の那古野城守備に反対した。全力で今川軍にあたると言った以上、城が思いっきり手薄になるのだ。よりによって他国の者に守らせるなど信じられない暴挙に見えるらしい。
常識破りは俺の十八番だ。
前世の記憶があることも一因だが、そっちはどうでもいい。
「た、大変です! 林様が……っ」
林兄弟がとうとう不満を爆発させた。
出陣する前日――つまり21日――に、ボイコットを起こしたのだ。当然ながら、城全体に動揺が走った。可能性として想定していた俺は慌てず、予定通りに熱田神社へ軍を進める。
子宝祈願をしたばかりだが、ご利益はなかったのだろうか。
今回は戦勝祈願だ。
ちらりと土田弥平次、吉乃の顔が浮かんだ。今回ばかりは戦に犠牲はつきもの、なんていう達観した考えは持てそうにない。
「皆、聞け! 水野信元殿は、先代より昵懇の仲にあった。そして今川義元は己の欲がため、尾張を蹂躙せんとしている。水野殿を助け、今川軍を蹴散らし、尾張から追い出すぞ!」
「おーっ」
「今川軍は強大だ。しかし我らには新兵器がある! 断言しよう、必ず勝つと!!」
「「「おおーっ」」」
「守るべき者のために戦え。友のために戦え。生きて、愛する者の元へ帰るために戦え! 我らは織田の精鋭であるっ。……出陣!!」
地響きのような咆哮だった。
事前に用意したカンペはない。士気向上のための煽り文句は、我ながら拙いものだった。それでも利家たちがこぞって大声を張り上げてくれた。三間槍が天を突くほどに掲げられると壮観だ。
鉄砲隊はギリギリまで特訓しただけあって、揃った動きをしている。
足軽隊、馬廻り衆も装備が間に合った。大量の矢筒は荷駄隊が積み込んだ。投石衆の軽装が若干浮いているが、彼らは機動性重視で最前線に出るなと言いつけてある。練習通りに動いてくれれば、一定の成果を期待できるだろう。
「……あとは戦うだけだ」
馬を駆りながら、噛みしめるように呟いた。
土田弥平次:吉乃の夫。志願して常備兵となり、主人公が再編した鉄砲隊に所属している
安藤日向守守就:伊賀姓、伊賀守とも。道三が重用した猛将の一人で、竹中半兵衛の優秀さを持ち上げる際には雑魚トリオ扱いされることもあるが、それなりに実績のある武将。
援軍にしては多すぎるため、那古野城を占拠する裏の目的があったとも推測される。道三は毎日状況報告しろ、と命じている。早い段階で援軍要請を決めていた主人公は、彼らの為に潤沢な備蓄を用意していた。下心は全くなかったのだが、かえって守就を警戒させる要素になった(かもしれない)




