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ノブナガ奇伝  作者: 天野眞亜
雌伏編(天文13年~)
49/284

40. 尾張の虎、逝く

 結論から言おう。

 俺が親父殿に頭を下げて、金策はなんとかなった。

 その数日後、美濃国から金塊が届いたのだ。舅殿の字で「娘へ」とあったので一切、手をつけていない。美濃で何か異変があったと聞かないから、いずれ必要な時が来ると予見してのことだろう。うっかり使わないように気を付けると話したら、何故か帰蝶が口を利いてくれなくなった。

 婚儀の後みたいな冷戦状態が続く。

 俺が何かやらかしたのだろう。そう思って謝りに行くのだが、侍女の由宇が仁王立ちして通してくれない。仕方ないので、黄色い花を添えた文を預けた。

「こんな小さな花で、姫様が喜ぶとは思えませんけどね」

 毒舌は主人譲りか。

 まるで子を守る母親のようだと思ったら、土田御前のことが浮かんだ。

 どうしても毒殺の件を思い出してしまうから、末森城に行くときは寄り道をしない。お市や信行のことも気になったが、偶然鉢合わせるのが怖かった。

 本格的な冬が来る前に税収処理が片付き、肩の荷が下りた心地になる。

 貞勝は今までの杜撰なやり方に激怒しつつ、すさまじい勢いで内政面を改善していってくれた。もう彼なしでは那古野城は存在できない。家臣にも給与がきちんと支払われるようになり、長秀が安堵の息を吐いていたのが忘れられない。

 言えよ。言ってくれなきゃ分からねえだろうが。

 讒言を聞き入れない独裁君主にはなりたくないのだ。口煩いと思うこともあるし、色々言われるのは鬱陶しくもある。だが、俺は主としても半人前だ。

 そんな風に開き直りつつ、今日も雑務を家臣に丸投げする。

 たった一度の収穫で、あの村の再建が終わったとは思っていない。むりやり水路をひいたことで、流れが変わってしまった川の整備も途中だ。城下町、そこに繋がる主要街道、手を付けるべきことは山のようにある。

 そうして、俺たちの忙しい一年が終わった。


**********


 天文20年3月――。

 尾張国を震撼させる出来事が起きた。

「それはまことか!?」

「是」

「な、んという…………こと、だ……」

 その場に座り込む貞勝。

 信盛や恒興も、もたらされた情報が信じられないとばかりに呆然としている。報告に現れた一益は野袴姿で、庭に片膝をついていた。あちこち擦り切れて酷い有様だ。かなり無理をして駆けてきたのだろう。

 たまたま直臣たちが揃う日で、長秀たちや平手の爺もいる。

 林のジジイは貞勝同様、衝撃で動けないようだった。

「信長様。どうなるんすか……、この国は」

 利家の縋るような声に、皆の視線が集まる。

 頬杖をついて動かない俺を、彼らはじっと見つめている。

 那古野城下の那古野村は、尾張下四郡で最も有名な村になった。ただし厳しく情報統制をかけて、俺が関わったことは伏せている。親父殿の指示で、貞勝たちが復興に尽力したと後世には伝わるだろう。あるいは飢饉で苦しんでいたことも、次第に忘れられていくかもしれない。

 俺が廃嫡寸前になった理由まで明らかになるのを避けたかった。

「慌てるな」

「……これは異なことを」

「秀貞、何が言いたい?」

「大殿が亡くなられたことは明白。今すぐにでも末森城へ向かうが筋でござろう。葬儀の喪主を務めるは、嫡男である信長様の責務にございますれば」

「信行がいる」

「若様!」

 腰を浮かせかけた恒興には、手で制す。

「秀貞よ。俺が知らんと思っているのか? 数日前より信行が傍近くに控えていたそうだな」

「よもや弟君をお疑いか。血の繋がった兄弟でございましょう」

 髭を震わせながら、忌々しげに吐く。

 このジジイはそうやって信行を誘導していったのだろう。

 俺の筆頭家老として長年勤めてきたため、こちらの事情はある程度把握されている。事実を歪めることも、伏せている内情を伝えることもできた。俺の名代として出向けば、誰も不思議には思わない。

 最初はきっと、小さな不満だった。

 勤勉で文武両道の信行に仕えたかった思いもあったかもしれない。ろくに話もしたことのない相手のことを理解するのは難しい。毎日顔を突き合わせていても、何を考えているか分からない時だってある。

「慌てるなと言ったのは、急いだところで親父殿が生き返るはずもないからだ」

「若様!!」

 今度は平手の爺か。

 さすがに言い過ぎだと諫めたいのだろうが、俺は怒っている。このような時まで、くだらないことで口を挟んでくる林のジジイには愛想が尽きた。

 てめえは今更、何を言いに来たんだ。

 ずっと顔を見せなかったくせに、今日になって何故出てきた。

 信盛の時にやらかした記憶が俺の口を重くする。咎めるのは簡単だ。狙う相手へ疑惑を向けさせるのに、俺の身分はあまりにも便利すぎた。信行が周囲の思惑とは別に、俺を心底憎んでいるかはもう関係ない。

 土田御前が俺を毒殺しようとしたことも――。

 ギリギリと握りしめた拳が震えていた。腹を掻いている素振りで、これを隠す。小姓の気遣わしげな視線は無視だ。俺は久しぶりに、心底怒っている。

「一益、供をせよ」

「はっ」

「の、信長様! オレも行きますっ。供をさせてください」

「お前らは来るな」

 何故という合唱が、聞こえてくるようだ。

 だが俺は全てを無視して、部屋を出ていく。俯いていた一益がどんな顔をしていたかは見えない。すすっと下がって、影に消える。俺は大股で廊下を行く。

 元服したばかりの頃を思い出す。

 当然伝わっていると思っていたことがまったく伝わっていなくて、ほんの少年だった舎弟たちに泣かれたものだ。上手くやっているつもりで失敗続き、よかれと思ったことは間違いと諫められ、家族を大事にしろと言いながら毎日こき使った。

 語らずとも分かってほしいと思うのは傲慢なことだ。

 沢彦は今頃どうしているだろう。

「お濃」

「どこへ行くつもりかしら」

 通り過ぎようとしていた部屋が突然開いて、帰蝶が出てきた。

 冷たい目がこちらを見る。

「まさか、今回も遅れるつもりじゃないでしょうね?」

「死に目には会えなかった。なら、急いでも無駄だろ」

 パァンと小気味よい音が炸裂する。

 一瞬遅れて叩かれたのだと知る。いつの間にかハリセンを手にした帰蝶が、大きく振りかぶった。二度目はより大きな音が出て、三度目の構えを見せて一旦止まる。

「いって」

「目が覚めた? お望みなら、何度でも叩いてさしあげてよ」

「誰も行かないって言ってないだろ! ただ、俺は」

「死に目に会えないから何だと言いたいの、この大うつけは。同じ尾張国にいるのよ。馬で急げば、日が暮れる前に間に合うわ」

 間に合う? 何に間に合うというんだ。

 一益は、あやふやな情報を俺に報告しない。死んだというのなら、もう二度と目が覚めないということだ。信行が傍にいて、葬儀が勝手に進められるだろう。次期当主の座を狙っているなら、葬儀を取り仕切ることで大きくポイントを稼げる。

 ああクソ。

 それはつまり信行が家督相続に名乗りを上げること、跡目争いに参加するということだ。気付かなかったことにして、放っておける問題ではない。

 俺は、ノブナガだから。

「いてえなあ、チクショー」

「どう?」

「目が覚めた」

「あら、残念ね。ようやく使い方が分かってきたのに」

「そのハリセン、どこから持ってきたんだ」

「お父様にいただいたの」

 道理で見覚えがあると思った。

「信長様!」

「……猿、そんなところで何をしている」

「草履を温めとったんです。どうぞ」

 藤吉郎がはだけた胸には、泥がついていた。

 拭いもせずに懐へ突っ込んだらしい。猿知恵の働く藤吉郎らしからぬ失態だ。足を入れると、ほんの少しだけ温い。お世辞にも「暖かい」とは言えなかった。

「どいつもこいつも本当に、どうしようもねえなあ」

 俺の周りには、お人好しが集まるようにできている。

 イザという時に怖くなって尻込みする俺を、遠慮なく蹴っ飛ばしてくれる嫁がいる。後ろに誰かがいるから振り向いても怖くない。前に進む勇気が生まれる。

「猿、特別に許す。一益と共に、ついてこい」

「ははあっ」

「いってらっしゃい」

「行ってくる。お濃、愛しているぞ」

 返事の代わりに赤い顔が睨んで、プイッと反らされた。

 温まった心が冷めぬうちに、足が震えて止まらぬうちに、俺は無我夢中で馬を走らせた。ちゃんと二人がついてきているか、確認する余裕もなかった。

 いつかと同じように、乱れた格好のまま城内を行く。

 漂ってくる抹香の臭いに顔が歪んだ。

 経を唱える複数の声が朗々と響いている。ああ、本当に親父殿は死んだのだ。何故今なのか。死期を悟っていたなら、俺に家督を譲ってから逝けばいいものを。

「のぶ、……兄上。何しに来たのですか」

 きちんと正装をした信行が、きつい目で睨んでくる。

 居並ぶ御家来衆はほとんど信行側の家臣ばかりだ。その中に林のジジイがいないのは当然として、俺の視線から逃げるような真似をする数名の顔を記憶した。

 ただ一人、真っ直ぐに睨んでくる髭面がいる。あれは誰だったか。

 死んだと聞かされた日のうちに駆けて、これだ。

 ここに藤吉郎は入れないし、一益は侍従として後ろに控える。俺は荒れた息が整う間に、ざっと状況を確認した。これは通夜じゃない。

 正式な葬儀だ。

 前もって準備されていたのかと思うほどに、全てが揃っている。親父殿が納められているだろう棺は白い布が覆い、その向こうには位牌が飾られていた。ゆるゆると煙がのぼっていく。

 数珠を持つ偉そうな坊主には覚えがある。

 立派な袈裟に、立派な体躯、一目で上質と分かる絹の紫衣。補佐についている二人の坊主も、それなりの立場にあるようだ。坊主は纏う色と袈裟で身分が知れる。

「……ふざけるな」

 何の茶番だ、これは。

 大股でずかずか踏み入って、正面から位牌を睨みつけた。

「クソ親父、これがあんたの業だ!」

 抹香を掴み、思いっきり投げつける。

「な……っ」

「何を!」

「この無礼者が!! 気でも触れたかっ」

「母上、お静まりください。兄上も、突然のことで混乱なさっておられるのです」

「父が亡くなった程度で混乱するものか。あれは人でなしじゃ。ばけものじゃ! 誰か、早う連れてゆけ。神聖なる場が穢れる前に、早う!」

 きいきいと何かが騒いでいる。

 弟の顔をした何かが、それを宥めようと身を寄せている。化け物はどちらだ。誰一人として、親父殿を本心から悼んでいないくせに笑わせる。

 ようやくだ、待ちわびたと喜ぶ顔が透けて見える。

「出てゆけ! 顔も見たくないっ」

「そう騒がずとも出ていくさ。俺のいるべき場所は、ここじゃないってことが分かったからな」

 俺は笑いながら、身を翻した。

 もはや、のんびりしている暇はない。これから相当忙しくなる。うだうだと考え込んで、悩み続ける時間も失われた。結果と答えが出てしまった。

 覚悟を決めよう。

 俺が進むべき道は、自分で選ぶ。


草履の話は寒い時期じゃないと使えないので、無理矢理詰め込んだ。

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