40. 尾張の虎、逝く
結論から言おう。
俺が親父殿に頭を下げて、金策はなんとかなった。
その数日後、美濃国から金塊が届いたのだ。舅殿の字で「娘へ」とあったので一切、手をつけていない。美濃で何か異変があったと聞かないから、いずれ必要な時が来ると予見してのことだろう。うっかり使わないように気を付けると話したら、何故か帰蝶が口を利いてくれなくなった。
婚儀の後みたいな冷戦状態が続く。
俺が何かやらかしたのだろう。そう思って謝りに行くのだが、侍女の由宇が仁王立ちして通してくれない。仕方ないので、黄色い花を添えた文を預けた。
「こんな小さな花で、姫様が喜ぶとは思えませんけどね」
毒舌は主人譲りか。
まるで子を守る母親のようだと思ったら、土田御前のことが浮かんだ。
どうしても毒殺の件を思い出してしまうから、末森城に行くときは寄り道をしない。お市や信行のことも気になったが、偶然鉢合わせるのが怖かった。
本格的な冬が来る前に税収処理が片付き、肩の荷が下りた心地になる。
貞勝は今までの杜撰なやり方に激怒しつつ、すさまじい勢いで内政面を改善していってくれた。もう彼なしでは那古野城は存在できない。家臣にも給与がきちんと支払われるようになり、長秀が安堵の息を吐いていたのが忘れられない。
言えよ。言ってくれなきゃ分からねえだろうが。
讒言を聞き入れない独裁君主にはなりたくないのだ。口煩いと思うこともあるし、色々言われるのは鬱陶しくもある。だが、俺は主としても半人前だ。
そんな風に開き直りつつ、今日も雑務を家臣に丸投げする。
たった一度の収穫で、あの村の再建が終わったとは思っていない。むりやり水路をひいたことで、流れが変わってしまった川の整備も途中だ。城下町、そこに繋がる主要街道、手を付けるべきことは山のようにある。
そうして、俺たちの忙しい一年が終わった。
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天文20年3月――。
尾張国を震撼させる出来事が起きた。
「それはまことか!?」
「是」
「な、んという…………こと、だ……」
その場に座り込む貞勝。
信盛や恒興も、もたらされた情報が信じられないとばかりに呆然としている。報告に現れた一益は野袴姿で、庭に片膝をついていた。あちこち擦り切れて酷い有様だ。かなり無理をして駆けてきたのだろう。
たまたま直臣たちが揃う日で、長秀たちや平手の爺もいる。
林のジジイは貞勝同様、衝撃で動けないようだった。
「信長様。どうなるんすか……、この国は」
利家の縋るような声に、皆の視線が集まる。
頬杖をついて動かない俺を、彼らはじっと見つめている。
那古野城下の那古野村は、尾張下四郡で最も有名な村になった。ただし厳しく情報統制をかけて、俺が関わったことは伏せている。親父殿の指示で、貞勝たちが復興に尽力したと後世には伝わるだろう。あるいは飢饉で苦しんでいたことも、次第に忘れられていくかもしれない。
俺が廃嫡寸前になった理由まで明らかになるのを避けたかった。
「慌てるな」
「……これは異なことを」
「秀貞、何が言いたい?」
「大殿が亡くなられたことは明白。今すぐにでも末森城へ向かうが筋でござろう。葬儀の喪主を務めるは、嫡男である信長様の責務にございますれば」
「信行がいる」
「若様!」
腰を浮かせかけた恒興には、手で制す。
「秀貞よ。俺が知らんと思っているのか? 数日前より信行が傍近くに控えていたそうだな」
「よもや弟君をお疑いか。血の繋がった兄弟でございましょう」
髭を震わせながら、忌々しげに吐く。
このジジイはそうやって信行を誘導していったのだろう。
俺の筆頭家老として長年勤めてきたため、こちらの事情はある程度把握されている。事実を歪めることも、伏せている内情を伝えることもできた。俺の名代として出向けば、誰も不思議には思わない。
最初はきっと、小さな不満だった。
勤勉で文武両道の信行に仕えたかった思いもあったかもしれない。ろくに話もしたことのない相手のことを理解するのは難しい。毎日顔を突き合わせていても、何を考えているか分からない時だってある。
「慌てるなと言ったのは、急いだところで親父殿が生き返るはずもないからだ」
「若様!!」
今度は平手の爺か。
さすがに言い過ぎだと諫めたいのだろうが、俺は怒っている。このような時まで、くだらないことで口を挟んでくる林のジジイには愛想が尽きた。
てめえは今更、何を言いに来たんだ。
ずっと顔を見せなかったくせに、今日になって何故出てきた。
信盛の時にやらかした記憶が俺の口を重くする。咎めるのは簡単だ。狙う相手へ疑惑を向けさせるのに、俺の身分はあまりにも便利すぎた。信行が周囲の思惑とは別に、俺を心底憎んでいるかはもう関係ない。
土田御前が俺を毒殺しようとしたことも――。
ギリギリと握りしめた拳が震えていた。腹を掻いている素振りで、これを隠す。小姓の気遣わしげな視線は無視だ。俺は久しぶりに、心底怒っている。
「一益、供をせよ」
「はっ」
「の、信長様! オレも行きますっ。供をさせてください」
「お前らは来るな」
何故という合唱が、聞こえてくるようだ。
だが俺は全てを無視して、部屋を出ていく。俯いていた一益がどんな顔をしていたかは見えない。すすっと下がって、影に消える。俺は大股で廊下を行く。
元服したばかりの頃を思い出す。
当然伝わっていると思っていたことがまったく伝わっていなくて、ほんの少年だった舎弟たちに泣かれたものだ。上手くやっているつもりで失敗続き、よかれと思ったことは間違いと諫められ、家族を大事にしろと言いながら毎日こき使った。
語らずとも分かってほしいと思うのは傲慢なことだ。
沢彦は今頃どうしているだろう。
「お濃」
「どこへ行くつもりかしら」
通り過ぎようとしていた部屋が突然開いて、帰蝶が出てきた。
冷たい目がこちらを見る。
「まさか、今回も遅れるつもりじゃないでしょうね?」
「死に目には会えなかった。なら、急いでも無駄だろ」
パァンと小気味よい音が炸裂する。
一瞬遅れて叩かれたのだと知る。いつの間にかハリセンを手にした帰蝶が、大きく振りかぶった。二度目はより大きな音が出て、三度目の構えを見せて一旦止まる。
「いって」
「目が覚めた? お望みなら、何度でも叩いてさしあげてよ」
「誰も行かないって言ってないだろ! ただ、俺は」
「死に目に会えないから何だと言いたいの、この大うつけは。同じ尾張国にいるのよ。馬で急げば、日が暮れる前に間に合うわ」
間に合う? 何に間に合うというんだ。
一益は、あやふやな情報を俺に報告しない。死んだというのなら、もう二度と目が覚めないということだ。信行が傍にいて、葬儀が勝手に進められるだろう。次期当主の座を狙っているなら、葬儀を取り仕切ることで大きくポイントを稼げる。
ああクソ。
それはつまり信行が家督相続に名乗りを上げること、跡目争いに参加するということだ。気付かなかったことにして、放っておける問題ではない。
俺は、ノブナガだから。
「いてえなあ、チクショー」
「どう?」
「目が覚めた」
「あら、残念ね。ようやく使い方が分かってきたのに」
「そのハリセン、どこから持ってきたんだ」
「お父様にいただいたの」
道理で見覚えがあると思った。
「信長様!」
「……猿、そんなところで何をしている」
「草履を温めとったんです。どうぞ」
藤吉郎がはだけた胸には、泥がついていた。
拭いもせずに懐へ突っ込んだらしい。猿知恵の働く藤吉郎らしからぬ失態だ。足を入れると、ほんの少しだけ温い。お世辞にも「暖かい」とは言えなかった。
「どいつもこいつも本当に、どうしようもねえなあ」
俺の周りには、お人好しが集まるようにできている。
イザという時に怖くなって尻込みする俺を、遠慮なく蹴っ飛ばしてくれる嫁がいる。後ろに誰かがいるから振り向いても怖くない。前に進む勇気が生まれる。
「猿、特別に許す。一益と共に、ついてこい」
「ははあっ」
「いってらっしゃい」
「行ってくる。お濃、愛しているぞ」
返事の代わりに赤い顔が睨んで、プイッと反らされた。
温まった心が冷めぬうちに、足が震えて止まらぬうちに、俺は無我夢中で馬を走らせた。ちゃんと二人がついてきているか、確認する余裕もなかった。
いつかと同じように、乱れた格好のまま城内を行く。
漂ってくる抹香の臭いに顔が歪んだ。
経を唱える複数の声が朗々と響いている。ああ、本当に親父殿は死んだのだ。何故今なのか。死期を悟っていたなら、俺に家督を譲ってから逝けばいいものを。
「のぶ、……兄上。何しに来たのですか」
きちんと正装をした信行が、きつい目で睨んでくる。
居並ぶ御家来衆はほとんど信行側の家臣ばかりだ。その中に林のジジイがいないのは当然として、俺の視線から逃げるような真似をする数名の顔を記憶した。
ただ一人、真っ直ぐに睨んでくる髭面がいる。あれは誰だったか。
死んだと聞かされた日のうちに駆けて、これだ。
ここに藤吉郎は入れないし、一益は侍従として後ろに控える。俺は荒れた息が整う間に、ざっと状況を確認した。これは通夜じゃない。
正式な葬儀だ。
前もって準備されていたのかと思うほどに、全てが揃っている。親父殿が納められているだろう棺は白い布が覆い、その向こうには位牌が飾られていた。ゆるゆると煙がのぼっていく。
数珠を持つ偉そうな坊主には覚えがある。
立派な袈裟に、立派な体躯、一目で上質と分かる絹の紫衣。補佐についている二人の坊主も、それなりの立場にあるようだ。坊主は纏う色と袈裟で身分が知れる。
「……ふざけるな」
何の茶番だ、これは。
大股でずかずか踏み入って、正面から位牌を睨みつけた。
「クソ親父、これがあんたの業だ!」
抹香を掴み、思いっきり投げつける。
「な……っ」
「何を!」
「この無礼者が!! 気でも触れたかっ」
「母上、お静まりください。兄上も、突然のことで混乱なさっておられるのです」
「父が亡くなった程度で混乱するものか。あれは人でなしじゃ。ばけものじゃ! 誰か、早う連れてゆけ。神聖なる場が穢れる前に、早う!」
きいきいと何かが騒いでいる。
弟の顔をした何かが、それを宥めようと身を寄せている。化け物はどちらだ。誰一人として、親父殿を本心から悼んでいないくせに笑わせる。
ようやくだ、待ちわびたと喜ぶ顔が透けて見える。
「出てゆけ! 顔も見たくないっ」
「そう騒がずとも出ていくさ。俺のいるべき場所は、ここじゃないってことが分かったからな」
俺は笑いながら、身を翻した。
もはや、のんびりしている暇はない。これから相当忙しくなる。うだうだと考え込んで、悩み続ける時間も失われた。結果と答えが出てしまった。
覚悟を決めよう。
俺が進むべき道は、自分で選ぶ。
草履の話は寒い時期じゃないと使えないので、無理矢理詰め込んだ。




