38. 兄
予定を繰り上げて、信広登場です
毎月末森城へ通う目的は、もう一つある。
女たちがいる奥殿とはまた違う所に、質素な造りの離れがある。利政の草庵を思い出させる小さな建物に住んでいるのは織田三郎五郎信広、俺の異母兄だ。
さすがに三和土からすぐ土間、ということはない。
複数ある部屋の一つが開け放たれていて、そこに目的の人がいた。
「……また来たのか」
「兄上にはお変わりなく」
「うるさい黙れ。そのヘラヘラした顔が気に入らない。殴って変形させたくなる。大事なご嫡男様に傷をつけたら何を言われるか分からんからな。私の為を思うなら、さっさと消えろ」
さながら立て板に水の如くだ。
いやあ、嫌われたもんだね! 何もしていないはずなんだが、俺のことが心底嫌いらしい。正座をして拳は膝の上、目は軽く閉じて、こちらへ振り向きもしない。
信広流、俺に殴りかからない姿勢である。
ちなみにこの段階に至るまで、色々なやり取りがあった。初対面で突然殴られそうになった――利家たちが必死に止めた――り、表へ出ろと叫ばれて剣術試合をやるはめになった――当然ボコボコにされた――り、囲碁の勝負を持ちかけて――俺が勝った――逆ギレした挙句に碁盤で殴られそうになった。
碁石は人に向かって投げちゃだめだぞ! いい子はマネしないように。
「今日は将棋でもやりますか」
「貴様、人の話を聞いていたか!? それとも妾腹の子の言葉など、聞く耳持たんというわけか。なるほどな、所詮は奴らと同じというわけだ。ははっ」
「兄上の番ですよ」
「…………常道というものを知らんのか」
盤上をチラ見して、これである。
信広は音もなく立ち上がると、俺の正面にどっかりと座った。
おもむろに伸ばされた手が、瞬く間に正しい配置へと直されていく。俺はその一挙一動を見逃すまいと、食い入るように見つめる。これが今川方の攻勢を三度も食い止めた男の手だ。
「奇をてらえば、隙を突けると思うな」
「いや、でもここをこうすれば……」
「お、おい、勝手に!」
慌てる声を無視して、さくさくと駒を進める。
「王手」
「そんな無茶苦茶な用兵があるか!!」
怒鳴り声と共に、木製の駒が飛び散った。
ああ、これを誰が片付けると思っているのか。最初のうちはこっそり吐いていた溜息を大げさに吐き出して、よっこいしょと立ち上がる。すかさず尻に一撃もらった。
ブチッと何かが切れる。尻はダメだって言っているだろ。
「おいテメ、このクソ兄貴。何しやがる」
「ふはは! 背中ががら空きだ」
「ふっざけんなよ! まずは穏便に仲良くなろうと思って、下手に出てりゃあつけあがりやがって!! もういい歳のくせに、あんた子供かっ」
「ほほう? 貴様、それが素か。いいだろう、今度こそ相手になってやる」
互いに握りしめた駒を振りかぶり、どこかでゴングが鳴り響いた。
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俺たちは並んで正座をし、項垂れていた。
障子も襖もボロボロである。
どんな襲撃を受けても、こんなに酷い有様にはならないだろう。原型が分からないほど割れてしまった壺や、ど真ん中を貫通した掛け軸、漆を塗った支柱には駒が突き刺さったままだ。
「ん?」
将棋の駒が見事にめり込んでいる。
何かが閃いた。素晴らしいアイディアのような気がして、俺はなんとかそれを手繰り寄せようとする。これは使える、という確信があった。もう少しで確かなイメージがつかめる、というところで――。
「反省の色が薄い!」
仁王立ちになっている女、おみつがひっくい声を出した。
「とうとうやりましたね」
「すまん」
「すみません、義姉上」
「お二人とも謝れば済むと思っているんですか。これ、誰が直すと思っているんですか。そもそも障子の紙だって、襖の修復代だってタダじゃないんですよ。お金がかかるんですよ。旦那様は戦が始まったら稼いでくると仰いますけど、次もちゃんと帰ってくる保証なんかないじゃないですかあっ」
「わ、私が悪かった。この通り、謝る。だから泣くな、おみつ」
「泣いてましえぇん」
生まれ変わって俺、ノブナガ。
前世で極力人付き合いを避けてきた反動か、今生ではやたらと人間関係に悩まされる。帰蝶がいなかったら、信広のことをリア充ばくはつしろと呪っていただろう。
俺の嫁は観音様であり、救世主である。愛は俺を救う。
「貴様、遠い目をするな! 私の弟であるというのなら、これをなんとかしろっ」
「まあっ、三郎様に責をなすりつけるおつもりですか!? あのような高い場所に駒を刺す技が、こんな細腕でできるわけないじゃないですか。あら、固い」
むんずと二の腕を掴まれたどころか、揉まれた。
ここはアレの柔らかさと同じだというが、男にはどうでもいい話だろう。別の意味で、男にはどうでもよくない話でもある。何を言っているのか分からないかもしれないが、帰蝶に早く会いたくなっただけだ。
「義姉上は意外にテクニシャンですね」
「てくに?」
「褒め言葉です」
「あ、あらやだ。おほほ! 三郎様は言葉が上手いのね」
上機嫌になった義姉に、もみもみされる。
どうせなら別のところを……と思っていたら、すごい目で睨む修羅がいた。
「そうか、お前もこいつがいいのか。そうだよな、どうせ私は妾腹の子……」
「だ、旦那様! わたくしの夫は旦那様一人です。信じてくださいませ」
「いいのだ、おみつ。父上から預かった城を奪われ、縄をかけられた挙句に人質にされたダメ人間なんだ。きっと父上も、私を見限ってしまったに違いない。だから、こんな離れに押し込められて」
「違うだろ」
「何が違うと言うのだ!?」
唾を飛ばすな、汚い。
落ち込んだかと思えば、怒鳴り散らす起伏の激しい男だ。こんなところでも、親父殿の影響力の大きさを実感させられる。特に長男でありながら嫡男になれなかった悔しさが、心に深い根を張っているように思う。
俺とはかなり年の差があるし、どんな少年時代を過ごしたかは分からない。
「だが兄貴よ。あんたは三河と引き換えにされたんだぞ。同じくらいの価値があると思われているんじゃないのか?」
本当にどうでもいい存在なら、見殺しにされているはずだ。
親父殿がそうしなかったのは信広に、相応の価値を見出していたからに違いない。
親子の情だけで、人質交換に同意したとは思えないのだ。松平家の嫡男と、織田弾正忠家の庶子のどちらが重きに置かれるかは一目瞭然である。
「……そうやって、貴様も私を懐柔しようとするのだろう」
「旦那様っ」
「知らないのなら教えてやる。私は、信行を支持する一派に取引を持ちかけられていた。事が成った暁には重臣に取り立てると言ってな。笑わせてくれる。この私を、誰だと思っている!?」
「三郎五郎信広様でございますっ」
「そうだ! 私は尾張の虎の血を引いているんだ!!」
この人、躁鬱の気でもあるんじゃないだろうか。
必死に信広ageをしている義姉を見ていると、なんだか微妙な心地になってくる。俺の周囲も全面的に味方をしてくれる奴らばかりだ。傍目からは、こんな感じに見えているのかもしれない。とても、いたたまれない。
とりあえず無性に嫁の顔を見たくなった俺は、末森城を後にした。
いつになく静かな俺を心配するような視線がチクチク刺さっていたが、それに応えてやる余裕はさすがにない。そして愛しい嫁は、今日も冷たかった。
おみつ:信広の妻。娘は丹羽長秀の正室(桂峯院)
時代的にこのくらいには嫁がいないと、舎弟たちがロリコン集団になるので割り込ませてみました。この夫婦に関してはツッコミどころ満載かもしれませんが、どうぞ生温く見守っていただけると助かります。




