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ノブナガ奇伝  作者: 天野眞亜
雌伏編(天文13年~)
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21. おノブ誕生

※ご指摘ありました、溜め池についてはもう少し先になります

 古渡城内が何だか騒がしい。

 すっかり慣れた奇異なものを見る目にさらされながら、俺は騒ぎの中心であろう場所へ向かっていた。当初の目的地が同じだった、というのもある。

「やー!」

「姫様、どうかお気を静めてくださいませ」

「や、やなのーっ。きらい! みんなきらいっ」

 幼子特有の甲高い声がここまで聞こえてくる。

 この城で幼子といえば、可愛い妹のお市しかいない。

 困り果てた乳母の声をかき消すように、何度も抗議の声が上がった。お市には大きな不満があって、それを必死に訴えようとしている。それは誰でも分かることだが、何が嫌なのかは俺にもわからない。

「騒がしいな。どうしたんだ?」

「にーたまっ」

 可愛らしい声と共に、弾丸のごとく駆けてくる小さな体。

 こちらも笑顔で受け止めようとして、少しずつ膝を折りかけたのが失敗だった。幼子の突進力を色々な意味で計り間違えていたようだ。

「うぐぅ」

「にーたま、にーたま!」

 お市、そこはにーたまの大事な所だから頭をぐりぐりしないでくれると嬉しい。

 もうすぐ3歳になる妹は、とにかく成長が早い。

 会いに行くたびに成長して、早くも美女の兆しを見せている。ああ本当に、嫁にやりたくないな。確か最初の相手は、浅井長政だったか。結婚成立する前に家ごと滅ぼしておけば、未亡人になることもない。

 どう考えても歴史改変にしかならない妄想を抱きつつ、そっと妹を剥がした。

 このままだと浅井家を滅ぼす前に、俺の子種が滅びる(たぶん)。

「にーたま……?」

 盛大に泣いていた名残の涙が瞳を潤ませて、ふっくらした頬はバラ色だ。

 お市可愛い。お市最高。俺の妹がこんなに可愛い。

 思わず抱きしめたら、嬉しそうに抱きついてきたので俺は即昇天しそうになった。柔らかくてふわふわで、いい匂いがする。またしばらく会えないのだ。肺一杯に吸い込んでいると、ものすごく冷めた表情の乳母と目が合った。

 もう一度お市を剥がす。

「やー!!」

「……お市、くっついたままだと動けないから」

「やなのーっ」

「本当にどうしたんだ? こんなに我儘言う子じゃなかっただろ」

「三郎様のせいですわ」

「俺?」

「ついに大殿も決断なされたとかで。三郎様が廃嫡され、城から追い出されることを姫様がどこかで聞いてしまったようなのです」

 やーやー、とお市の悲鳴が耳から頭まで響く。

 くっつき虫のように離れなくなってしまったが、噂話を本気にしてしまったのが原因か。今ここで「そんなことはない」と言うのは簡単だ。素直なお市は、たちまち花のような笑顔を見せてくれるだろう。

 それも、その場凌ぎにすぎない。

 聡い妹に、上っ面の言葉で誤魔化したくなかった。

 まだ三歳の幼子なのに、と人は笑うかな。お市に待っている運命はとても過酷だ。こんなにも慕ってくれる妹を悲しませるのは、俺だって嫌だ。できれば、いつでも一緒にいてやりたい。

 お市の髪も肌もツヤツヤで、むちむちの手足は白く柔らかい。

 赤地の着物は豪華絢爛、城のお姫様に相応しい装いだ。

「お市、聞いてくれ」

「うー」

「今、にーたまは大事なお仕事を親父殿から任されている。とても難しい仕事で、時間のかかる大変なことなんだ」

「三郎様、そのようなことを」

「分かるな、お市。お前も織田の娘なら」

「ん」

 まだ少しぐずっていたが、お市はゆっくりと頷いた。

「にーたま、いて。ここにいて」

「全部終わったら、たくさん遊んでやるよ。今日はちょっと、お市の乳母に用があったんだ」

「わたくし、ですか?」

 怪訝そうな顔をして、乳母が首を傾げている。

 お市も首を傾げていたが、ハッと何かに気付いた。

 慌てて俺の腕から抜け出すと、今度は乳母に抱きつく。そして俺を睨んだ。そう、俺を睨んだのだ。涙が残る潤んだ目で、俺を。

「だめ」

「ひ、姫様」

「だめなの」

 ちょっと眉を下げて、やや小さい声での抗議に悶えそうになった。

 盛大に顔が崩れるのを必死に堪える。ここは笑ってはいけない場面だ。ぶふっと噴出した瞬間、その辺から出てきた黒子が尻めがけてフルスイングするかもしれない。

 尻はだめなの。

 よし、冷静になった。俺、ノブナガ。オーケー、通常運転だ。

「大丈夫、とったりしないから。俺はお市の方が大事だぞ?」

「ほんとう?」

「うんうん」

「うば」

「はい、何でございましょう」

「にーたま。だめ」

「もちろんでございます。わたくしは、姫様のものです」

「ん」

 乳母のこれ以上ない明言をもらって、お市は満足げに頷いている。かわいい。

 小さな体にくっつかれて羨ましい。

 そしてお市が可愛い。大事なものをとられまいと主張する健気さが可愛い。子供の独占欲はどうして可愛いのだろう。最高に萌える。

 俺たちは今、気持ちを一つにしていた。

 そのまま幸せを満喫していたかったが、そうもいかない。

「あ、そうだ」

 思いついたぞ、ナイスなアイディアが。

「お市、予定変更だ。遊ぼう」

「え!」

「三郎様、何を仰います。わたくしへの用は方便でございますか。これでも暇ではありませんのよ」

「悪い悪い、今から説明する」

 乳母は総じて気が強い女なのかもしれない。

 機嫌を損ねた相手には、すぐ謝るべし。

 きちんと誠意をみせれば、案外あっさりと許してくれるものだ。乳母も不機嫌そうな顔を崩さなかったが、俺の話を聞いているうちに態度そのものが変わっていった。

 曰く、変態を見る目つきに。




 ふわりと香る爽やかな匂い。

 腰までの黒髪はゆるく束ねて、色を抑えた小袖には上品な地模様が描かれている。晴れた空にも似た青が、やや冷たくも映る面長の顔立ちによく似合っていた。

「ふむ、悪くない」

「言葉遣い」

 ぴしっと肩を打つ痛みに、端的な叱責。

 鏡の後ろに立つ乳母は力作に満足の溜息を吐きつつ、不敵に笑う娘へと視線をやった。赤い唇が弧を描いている。やや濃い目の化粧だが、それほど嫌味にはならない。気位の高い武家の姫がそこにいた。

 ひょこっと脇の下から、小さな姫が顔を出す。

「にーたま、……にーたま?」

「この格好をしているときは、ねーたまだぞ。お市」

「おノブ様、言葉遣い」

「はいはい」

「はいは、一度!」

 ぴしっと肩を打たれる。

 座禅修行のアレを思い出してほしい。

 どこに隠し持っていたのか、見た目だけでなく立ち振る舞いもそれらしくしろと言い出した乳母は、びしびしとスパルタ特訓を始めたのだ。おかげで化粧やら着替えやらが終わっても解放してもらえず、夕暮れが近づきつつあった。

 この姿を一度、舎弟たちに見てもらう必要がある。

 俺は……こほん、わたくしはおノブ。織田家に仕える娘である。

 親に似ていない地味顔が、こんなに化粧映えするとは思わなかった。いい誤算だ。詰め物のおかげで体つきは誤魔化せるし、筋肉の少なさが幸いするとか皮肉すぎる。

 乳母の厳しい特訓で、凹んでいる暇はなかった。

 問題は、城から出る時だ。

 見知らぬ娘を警戒する門の守備兵には、にっこり笑顔で乗り切った。なんだか挙動不審になっていたが、体調でも悪かったのだろうか。それとなく気遣ってやれば、怒鳴るように追い出された。うむ、これは更なる研究が必要だ。

 前世も含めて女装、初体験! やだ、くせになりそう。


おノブ:謎の娘。どこかの誰かに似ている

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