アメジストの憂鬱9
「ヘイ、ガーイズ?」
とぼけた声とともに、突き飛ばされる。バランスを崩してマイケルは横へと倒れた。その一瞬後に、ダダダダ、とものすごい音がして、何かが階段の下に落ちたことを知る。ドン、と銃が弾ける音。反射的にびくりと体が跳ねる。階段の向こう側、壁に穴があいていた。
尻餅をついたまま、呆然と様子を見ると、マイケルの前にいた男とJが組み合っていた。Jはチラリ、とマイケルを見ると、ひょいっと眉を上げて剽軽な顔をつくる。しかしその顔は少しだけ強張り、組み合っている腕にはかなりの力がかかっていることが伺えた。
「ぼけっと見てんじゃねぇよ、お坊ちゃん」
ハッとして、飛び起きる。下を見れば、階段の踊り場には男が倒れていた。
「ミック!」
ぼやぼやするな、とばかりにJの厳しい声が飛ぶ。男の手がとうとうJの手を払い除け、そのゴツゴツとした拳でJの顔を殴りつけた。その勢いでよろめいたJは一歩後ろに後ずさり、空いてしまった腹に男はもう一発拳を叩き込む。完全に体勢を崩したJと、腰をまさぐる男の様子に、マイケルは慌ててJに殴りかかる男を後ろから羽交い締めにし、腕を固めて地面に叩きつけた。暴れる男の手には銃が握りしめられており、ひやりとした。少しでもマイケルの反応が遅ければ彼はその引き金に指をかけていただろう。Jが容赦なくその手を踏みしめた。ゴリ、と嫌な音がした。
男の蛙のような呻き声。そんな男を冷ややかに見下ろしながら、Jは自らのズボンから銃を引き抜き、男に突きつけた。
「恨みはないが、悪いな」
バン バン バン バン
四発の銃声と、男の悲鳴。足元の男と、踊り場の男、それぞれ二発ずつ撃ってから、Jは銃を再びズボンに突っ込んだ。そして、何食わぬ顔でマイケルを見る。マイケルは、何も言うことができず、欠片も感情にゆらぎが見えないJを、まるで化物でも見るような目で見た。
Jはそんなマイケルの視線を受け、器用に片眉だけ上げて鼻で笑った。
「おい、助けてやったのに、一言もナシか?」
「……ありがとう」
マイケルはJに撃ち抜かれた二人の男を見た。よく見ると、二人共痛みに呻き、その傷口を庇うように丸くなっている。それぞれ、右手と、片膝に当たっているようだ。
「……殺さなかったのか?」
「好き好んで人なんて殺したかねえよ」
当たり前だと、と言うように視線を向ける。はぁ、と息を吐く姿は、どこか疲れて見えた。当たり前だろう。銃を持った男二人と戦った後だ。おどけていても彼もまた気を張っていたんだろうとマイケルは結論づけた。
「よかった、どうなるかと思った」
「どうなるかって?」
マイケルは、何気なく答えてしまった。
「今から彼らをJのところに連れて行くとこだったんだ、よかった、その前になんとかなって」
「お前、俺を売ったのか!?」
Jはギャンギャンと喚く。マイケルは耳を塞ぎながら、できるだけ殊勝に見えるように謝った。
「ごめん、Jならきっとなんとかしてくれると思って」
「きっとぉ!? 自分がなんとかするアテもないのに俺を売ったのかよ!!」
ふざけんな! と憤るJに苦笑いを返しながらも、マイケルは命の危機が去って緩んだ気持ちを引き締めた。ふっと真面目な顔になったマイケルに、Jも口を閉ざす。
「どうした?」
「ところで、ここは……? レベッカは……?」
あぁ、とJは頷く。
「お目当てのラブジュエルだ。お前が居たのは地下。恐らくお前の姉貴もここにいると思うんだけどな……」
けど、とJは苦い顔をした。
「さっきの発砲音で、簡単に動けなくなっちまったみたいだな」
一段落ついたような気がしていたが、確かにそのとおり。明らかに騒々しい人の声。そこは悲鳴や怒声も混じっている。階段を駆け下りる音や、バタバタと人が走る音。当たり前だ、同じ店の中で銃声がしたのだから。
「……どうする?」
マイケルは、Jと目を合わせた。
「……とりあえず、隠れるか」
「どこへ」
神妙な顔をしたJが、はっきりと言った。
「部屋なら、山程あるだろ」
そう言って、Jは一番近いところにある扉に一瞬耳を当てると、ドアノブを捻り、するりとその体を滑り込ませた。マイケルも続いてその部屋に入る。部屋の中は薄暗かった。薄暗いといっても、照明がない訳じゃない。そういう雰囲気作りなのだろうことが見て取れる、なんとなく淫靡な雰囲気を漂わせた部屋。そこにある家具であったり壁紙であったりも、そういうことを意識して作られたものだということが見て取れた。そこは、日常生活のための部屋などではない。あくまで、性的なことを行うためだけの部屋なのだ。
部屋を見渡すと、奥の方で誰かが椅子に腰掛けていた。少し暗いその部屋では、はっきりとは様子が見えないが、マイケル達のいる扉には背を向けて座っているのは分かった。
「ヘイ、ちょっと失礼するよ」
Jがそっと彼女に近づき、声をかける。しかし、彼女からはっきりとした反応はない。ただ、少しだけ身動ぎし、こちらを見るようにゆっくりと、本当にゆっくりと顔を動かしたのは分かった。とりあえず、こちらを見て大声を出したりするような様子はない。
「ごめん、すぐに出て行くから、少しだけ匿ってくれないかな」
怖がらせないようにそっと近づき、座っている彼女と目を合わせるように彼女の真正面で膝を折った。そして、彼女を見て、マイケルはぎょっとした。
「……こんばんは?」
ふわり、と微笑む彼女はろくな衣服を身に付けておらず、ほとんど裸同然。よく見たら、そこにあったベッドはついさっきまで使われていたような跡があり、彼女の体もじっとりと汗ばんでいる。しかし、彼女の笑みはそれを見せないようなのんびりしたもので、どこか虚空を見つめている。
ぴたりと動きを止め、一言も発さないマイケルに、怪訝な顔をしたJが近づいてくる。
「……おい、どうした……?」
それだけ言って、女を見たJが、口を引き結んだ。彼のごつごつとして太い指が女の髪をそっと掬った。
「……折角の美人が台無しだ」
何の感情もないような乾いた声。
ドカドカと足音が聞こえてきた。まずい、とJと顔を見合わせる。女相手に、しーっと、指を当てて言い含めると、マイケルとJは周りを見渡す。タンス等ないその部屋で、隠れられるのは一箇所だけ。マイケルとJは頷き合う。Jは隠れるより先に、その部屋の窓を開け放った。マイケルは不思議に思いながらも、疑問を口にする余裕などない。狭いベッドの下に二人で背中合わせになりながら身を隠した。
「……銃、構えとけよ」
「分かった……」
先ほど男から奪っておいた銃をベッドの外に構える。少しすると、ガチャリと扉が開く音。
「おい! 男が来なかったか!」
やってきた男が怒鳴る声。女の声は、聞こえない。
「ダメだ、キまりすぎてて分からないな……」
あぁ、やはり、とマイケルはやりきれない気持ちになる。女の空虚な、瞳孔の開いた目。彼女は、薬のやりすぎでああなってしまったのだろう。ベッドの下に潜り込む時にちらりと見えた彼女の腕は、注射針の跡が山ほどあり、美しい白い肌に黒ずんだ跡を残していた。
マイケルの目の前を、男の靴が歩いていく。いつベッドのシーツをまくられるかと、どくりどくりと鼓動が早くなる。自分が息を吸って吐く音がやたらと大きく聞こえて、男に聞こえてしまわないかと汗が吹き出てくる。近づいた黒い靴は、一瞬近づき、遠ざかる。
「……窓が開いてるな……ここから逃げたか……」
男がチッと舌打ちをしたのが聞こえた。ドカドカと部屋を出ていく音の後、バタンと扉が閉められた。ふぅ、と全身から力が抜けた。念のためしばらくベッドの下で落ち着いてから、這うようにして出る。
女は、相変わらずぼんやりと空中を見つめていた。チラリと彼女を横目で見て、それからJとマイケルは、辺りを伺いながら部屋の外へと出る。一段落ついたのか、部屋の外は少し落ち着いていた。店の人間に見つからないようにしながら、部屋を一つ一つ、バレないように開けて伺っていくが、レベッカらしい人影や声はない。
「レベッカ……?」
「ここも違うみたいだな」
開けては閉め、開けては閉め、場合によっては中で真っ最中のところもあり、目を覆いながらドアを閉めたりもした。結局、階段を上がってすぐの部屋から二階の隅の部屋にまで差し掛かるまでマイケルとJはドアを開け閉めし続けた。よく見つからなかったものだと思う。
「……これで、最後だ」
「……うん……」
マイケルは、覚悟を決めてドアノブを握った。これで違ったら、もはや振り出しどころではない。思い切ってドアを開く。そこには、最初に入った部屋と同じように、マイケルとJに背を向けて椅子に座る人影。
ドクリ、とマイケルの心臓が一際大きく跳ねた。彼女の髪は、美しい金髪。レベッカと同じ程の長さ。ぴくりとも動かない体。
「レベッカ」
小さな声で呼びかける。反応はない。
「レベッカ」
ん、と小さな呻き声。マイケルは、恐る恐る、彼女の前に立った。そこには、見慣れた姉の顔。長い睫毛は今や頬に影を落とし、マイケルと同じ青い瞳は今は隠されている。彼女の手足や体は椅子に括りつけられており、どうりで動かないはずだった。マイケルはさぁっと血の気が引いていくのを感じた。
気がついたときには、彼女の肩をがしりと掴み、揺さぶっていた。ガクガクと細い体が揺れる。細い眉が寄り、その瞼がゆっくりと開いた。ぼんやりとした、どこかを見る目、それが、大きく見開かれる。その目にあるのは、明らかな恐怖だった。彼女の形のいい唇が、開く。その口が音を発する前に、いつの間にかそこにいたJが指を差し込んだ。ごり、とマイケルにまで聞こえる音。
「――――っ!!」
Jが痛みに思い切り顔を顰めた。がたがたと震えるレベッカの歯が、がっちりとJの指に食い込んでいる。
「レベッカ、落ち着いて、僕だよ、僕! マイケルだ」
視線を合わせて、小さな声でそっと訴える。食いしばられた口が、少しずつ緩んでいく。それに合わせて、ずるり、とJの指が口から引き抜かれた。
「……マイケル……? どうしてここに……? 夢? 夢じゃないの!?」
彼女の瞳にみるみる涙が盛り上がっていく。マイケルは、急いで彼女を拘束する縄を解き、その体を抱きしめた。肩がじわじわと彼女の涙で濡れていく。その姿をJはしばらく眺めていたが、ふぅ、と小さく息を吐き出して、そして言った。
「さぁ、感動の再会もいいが、とりあえずここを出るぞ。危なくてしょうがない」
やれやれ、という風にJは肩をすくめた。レベッカは、頷き、立ち上がる。その足はしっかりしている。ちらりと彼女の腕を見たが、服の端から見えている彼女の腕は白い。マイケルはほっと胸をなでおろした。
「レベッカ、大丈夫?」
「大丈夫な訳ないじゃない!」
そう言いながらも、涙を拭って前を向く勝気な瞳は、マイケルのよく知るレベッカの物だった。