アメジストの憂鬱10
三人は、とりあえず最も近いJの家へと向かった。本当はすぐにでも帰ってマーガレットにレベッカの無事を伝えたかったが、そうするにはレベッカもマイケルも動揺しすぎていた。勿論、そうするように勧めたのはJだ。
「レベッカ、本当に何もされてない?」
そう言うと、レベッカは少し強ばった顔で首を振った。笑っている口元が引き攣っている。何れ程怖い思いをしたのだろうかとマイケルは涙が出そうになる。
「……ごめん、怖いこと思い出させた」
「もう! こんな嫌な話やめちゃお!」
そうだね、と頷く前に、Jが口を開く。彼は殴られた顔が酷く腫れないように氷のうを顔に当てたまま、喋りづらそうに話した。
「そういう訳にはいかないだろう。薬を使われてたら手当しなきゃならないし、それ以外も何かあるならそのままって訳にはいかない。悪いが、攫われた時から詳しく話してくれ」
硬い声に、レベッカの体が固まる。彼女は、一度大きく息を吸って吐いて、きゅっと口を引き結んだ。形のよい眉は今は歪んでいる。
「……話しづらいだろうし、酷なことをするとは分かってる」
Jが申し訳なさそうにレベッカの肩に手を置いた。パシリ、と音を立てて彼女はその手を振り払った。明らかにその顔には動揺がある。反射的にやってしまったのだろう、彼女はハッとした顔をして、ごめん、とJに頭を下げた。
「……気にするな」
そう笑ったJの顔は、いつものおどけた顔ではなかった。レベッカは、目を伏せて攫われた時のことを語った。物陰に引きずり込まれて意識を落とされたレベッカは、やはり、一端あの自殺した男の家に連れて行かれたらしい。
「でも、指輪があってよかった。僕達、レベッカのあの指輪があったから見つけられたんだよ」
「指輪? それって、どっち?」
Jとマイケルは目を合わせた。
「どっちって、まさかあのアメジストの指輪をしたんじゃねぇだろうな」
Jは押し殺した声で言ったが、その声には焦りがあった。
「アメジスト? なんのこと? 私が言ってるのは、マラカイトの指輪と、あと、透明な水晶のついた指輪のこと」
Jは明らかにほっとした顔をして、よかった、と呟いた。しかし、今度はマイケルが首を傾げる番だった。
「……水晶の指輪……?」
「あら何よ、ミックは知ってるでしょ? ダッドがいつも付けてた指輪」
マイケルは父の事を思い出す。確かに記憶の中の彼は、いつも水晶のついた銀の指輪を嵌めていた。しかし、その指輪は事故でなくなってしまったのではないのだろうか。
「やだ、知らないの? ダッド、いっつも出かける時には金庫に入れてたの。私あの指輪がどうしても欲しくて、差し押さえられる前にこっそり持ってきちゃったのよ」
あーあ、と言いながら彼女は自分の指を見る。彼女の指には何の装飾品もない。そういう茶目っ気のある行動は、彼女らしいと思った。
「残念だけど、マラカイトの指輪はあったけど、それは真っ二つだったし、水晶の指輪はなかったよ」
そう言うと、レベッカは悲しそうな顔をして、そう、と呟いた。
「……あの指輪も、ダッドがくれたから大事につけてたのにな……」
それで彼女は、いつもならつけないようなあんな指輪をつけていたのか。レベッカもマーガレットも父親が大好きだった。
そう、父は姉二人に甘く、よくプレゼントを渡していたのだ。それは時に彼女らの年齢には不相応な宝石やドレスもあったけれども。
「まぁ、しょうがないわよね。それで助かったのなら」
レベッカは眉を下げながら笑った。
「それで、お嬢さん、その後は?」
「……服を全部剥ぎ取られて、全身調べられたわ。何か危ないものでも持ってないか確かたかったのかしら」
彼女の声は震えていたが、見た目は気丈に振舞っていた。そういえば、今レベッカの着ている服は、家で見たことのない水商売風のドレス。きっとあの店の物だろう。その後、何をされたのかは想像したくもないし、レベッカもそれを望んでいないだろう。Jが少しだけ視線を逸らした。
「でも、それだけよ。店の商品にキズつけちゃしょうがないもんね。その後、あんまり暴れるから椅子に縛り付けられちゃって……」
「薬は!?」
マイケルは身を乗り出すようにして尋ねる。その勢いにレベッカは驚きながらも、首を左右に振った。
「もうちょっと遅かったら危なかったかも」
「よかっ、たぁあ……」
へらり、と笑うマイケルに、レベッカも釣られて笑った。その唇が、ありがとう、と形だけ動いた。Jは肩をすくめながらその様子を眺めていた。彼はしきりと殴られた側の目をこすっている。
「J、そんなにこすったら腫れるよ」
「既に腫れてる」
そういうJの手をマイケルは見かねて剥がした。Jは、鬱陶しそうにその手を払い除ける。何かゴミでも入ってしまったのか、気持ちが悪そうにそちらの目を何度か瞬きしつつ、バスルームへと向かっていく。
「ったく、いい男が台無しだ。ちょっと風呂入ってくるから、落ち着いたら適当に帰れよ」
やれやれ、というように肩を回し、首をこきこきと左右にしながら体を解している。打ち付けられ、殴られた体が痛むのか、いつもより少し緩慢な動作。マイケルはそれをどこか仲間とひと仕事やり終えた後のような達成感と共に見つめていた。
Jの足が、ぴたりと止まった。どうかしたのか、タオルでも忘れたのだろうか、と疑問に思う。しかし、彼の口から出たのはそんな言葉ではなかった。
それから、と付け足された後に、冷たく色のない言葉が淡々と放たれる。
「二度とこんなところには、来るな」
Jは、きっぱりと言い切った。マイケルとレベッカは、気まずい顔をしながらも、言った。
「迷惑かけてごめんなさい、助けてくれてありがとう」
「……ありがとう。君のおかげでレベッカを助けられた」
そう言うと、彼は背を向けたまま、ひらりとその手を横に振った。彼らしい、荒っぽいが飄々とした、軽薄な仕草。
「……じゃあな、気をつけて帰れよ」
気遣うような声。マイケルとレベッカは、今までにない程周りを伺いながらJの家を後にし、マーガレットが心配しながら待つ家へと帰った。
「よぉ」
Jは汚い壁に預けていた背中を離した。唇を上げて、待ち望んでいた相手を迎える。視線の先に、悠々と立つ男。Jは、彼に聞きたいことがあった。
「……やれやれ」
彼は肩をすくめ、そのアンバーの瞳をゆるく細めた。
「こんなでたらめな召喚陣、おかしなものを呼ぶから二度と書くなよ」
彼は足元に書かれた魔法陣をトントン、とつま先で叩きながら苦笑いした。魔法陣の中には、蝋燭であったり、血が垂らされた金属の皿であったりが置かれている。その円の中に彼は立っていたが、すいっとその内側から簡単に出てきた。Jがどこかのオカルトの文献を読みながら書いた魔法陣も、召喚用の儀式も何の役にも立たないらしい。一節には、この魔法陣で呼び出した魔物はその陣から出られない、とかなんとか書いてあったのだが。
「……お前に聞きたいことが山程ある」
「時間制限があるから、少しだけにしてくれ」
「お前は誰なんだ、お前の目的は? いきなり色々なことが起こりすぎて訳が分からない」
「俺が誰かは、お前が一番よく知ってるはずさ。何が起きたか? 自分の目でみたろ。世の中には不思議なことがあるってことだ。目的? 今にわかるさ」
Dはぺらぺらと全ての質問に答えた。時間がないと言わんばかりに、息継ぎもしないような勢いで。淀みのないそのセリフを言うだけ言うと、じゃ、と言って彼はJの肩を叩き、通りすがった。質問の答えはとても答えになっていないような曖昧にはぐらかされたもので、Jには納得がいかなかった。
「おい……!」
急いで振り返るが、そこには誰もいない。
大事なものからは目を離すなよ、と声だけがどこからか聞こえた。Jはこだまする声を聞きながら、その場に立ちすくんでいた。足元には出来損ないの魔法陣と器具が、どこか虚しく残っていた。




